自分がいるところが自分を作る

中国の春秋戦国時代を終わらせ、統一を成し遂げた「秦」。私たちには始皇帝という人物のために聞き慣れている国でもある。当時、始皇帝を助けて天下を統一し、帝国の基礎を固めた人物の一人が李斯(リシ)だ。彼は封建制を廃止し、郡県制を実施しており、度量衡単位を統一したりもした。

ところで李斯の行ないを記録した司馬遷の「史記」の「李斯熱戦」を見ると、非常に興味深いエピソードが収録されている。それはネズミと関連した話だ。

もともと李斯は楚国の小役人だった。小役人の時代、穀物倉庫を管理していたある日、李斯は用を足すためにトイレに入った。するとトイレで汚物を食べていたネズミがびっくりして逃げるではないか。

用を足し終え、李斯は帳簿の記録と穀物を照合するために倉庫に向かったが、その場所でまた別のネズミを発見した。しかしこのネズミはトイレのネズミとは違って、驚きもしないでのんびりと穀物の間を往来していた。

この時、李斯の脳裏にはトイレで見たネズミたちの姿がよぎった。「トイレのネズミも倉庫のネズミも同じネズミなのに、どうしてあるネズミは汚い汚物でお腹を満たして恐怖の中で暮らし、あるネズミは肥えたコメを食べながら干渉されないで楽に暮らしているのだろう?」

そのようなネズミの姿を見ながら、李斯は人間の暮らしに思いを馳せた。「同じ人間でありながら、ある人は人生を貧しく生き、ある人は富や栄華を享受しながら生きている理由は何だろうか?」

その後に出した結論は「ネズミたちがトイレにいるから汚物を食べるようになったのであり、倉庫にいたからコメを食べるようになったのだ」つまりネズミが置かれている環境と場所に答えがあるということだ。

これを悟って李斯は小役人である自らの姿を、トイレのネズミのように考え、人生の舞台を変えて権力と富がある朝廷に入ることを決心する。そして荀子の弟子となって法家思想を勉強し、その後始皇帝を助けて天下統一を果たし、中国の政治と文化を先導することになる。

こうした李斯の悟りを「ネズミ哲学」と呼んだり「老鼠哲学」とも言う。ここから出た「人鼠之叹」と「在所自處」という言葉がある。「人鼠之叹」は、地位が天と地のように違うのは人もネズミも同じだという嘆きであり、「在所自處」は自分が所属したところに従って振る舞うものだという意味だ。

一方、ネズミと関連して劉獻廷(リュウケンテイ)という17世紀の作家は、廣陽雜記という本でネズミを天地開闢の功を立てた動物として描写している。

天と地が開かれていなかった時代、世の中が混沌として、ネズミがその混沌をかじって穴をあけたが、穴から気が通じて光が入り、遂に天地が開いたというものだ。まるで聖書の創世記とも内容が類似している。

主に夜活動して壁をかじって穴を開けるネズミの特徴を利用して、創世神話を作ったのだ。このような神話が作られたのは、ネズミが十二干支のうち、最初の動物として登場したからかもしれない。

2020年は庚子年。ここで庚は「直す庚」。つまり変化と革新を主導するのに良い時期だ。混沌としている現在。ネズミの姿を通して変化を決心した李斯のように、社会も個人も新しい変化を試みてみる時なのかもしれない。

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