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彼女と私の共同作業 その4


『おはなしのアルバム第四集』のこと


『あきとまさきの おはなしのアルバム 第四集 '90
お月さまー そこから海がみえるかー!』
記録 広沢 里枝子
編集 神山 朝子
選・校正 宇野 孝子
製本・印刷 小宮山印刷
点字版製作 上田市点訳の会「でんでん虫の会」
発行人 広沢 里枝子
初版発行 一九九一年十一月一日

第四集の表紙

『はじめに』 ひろさわりえこ

 こんかいの 「おはなしの アルバム だい4しゅう」は、1ねん かかって つくりました。はしがきをかくには、すこし じかんが たちすぎて しまった きも しますが、わたしに とっては、ひつような じかんだったのかも しれません。
 さくねん、だい3しゅうを およみ くださった ある かたが
―あなたも これから、いつも こどもたちに むかって いようと する こと いじょうに、おやこが ふれあえる みぢかい じかんを とらえて、どんな かかわりを もつかが だいじに なって くると おもう、と アドバイスして くださいました。
 じっさいに、わたしたち おやこも、そう いう だんかいを むかえたような きが します。

 ことしは、ちょうなんの あきひさが にゅうがくし、こころを いっぱいに して、かけだして いく こどもたちを、いのりながら みおくる ひびでした。
 わたし じしんも、あきひさの にゅうがくと どうじに、ラジオの しごとを いただき、かだいを のりこえる たび、ときはなたれて いくような よろこびを かんじて います。
 ただ、ことしは まだ、べんきょうや じゅんびに じかんが かかって しまい、うちに いても、きもちの きりかえが うまく できず、ははおやと して、この ほうこうで いいのだろうかと、ゆきつ もどりつする まよいも たえず ありました。
 けれど、もう、もどる ことよりは、こころ はずませて、きりひらいて いく ことを かんがえようと おもいます。

 そして やっと、わたしたちの あたらしい アルバムが できあがりました。あきひさと まさきは、これを よんで、きっと おもいきり わらって くれる ことでしょう。
 この としは、ふたり いっしょに ようちえんへ かよえるように なり、その うれしそうな ようすと いったら、そばに いる わたしまで、しあわせな きもちに なるほどでした。
 ふつうに あるけば、じゅっぷん たらずの バスていまでの みちのりも、3にんと 1ぴきで、くさを つんだり、うたったり しながら、まいにち にぎやかに かよいました。
 にゅういんや りょこう、はじめての ことへの ちょうせんも、まわりのひとびとが あたたかく みまもって くださった おかげで、とても さわやかな おもいでです。ひとつ のりこえるごとに、おたがいが しんらい できる、ほんとうの みちづれに なって いった きが します。

 また、こんかい ひょうだいと した 「おつきさまー、そこから うみが みえるかー!」は、あさこ さん おやことの かなざわ りょこうで、はじめて うみを みた まさきが、しんしゅうに かえってから、つきを みあげて、むしんに さけんだ ことばでした。
 こどもたちが このまま のびやかに、きょうだい なかよく そだって くれるよう、こころから ねがわずに おれません。

 こんかいも、この かいわしゅうを、およみ くださろうと する かたがたに、かんしゃと ゆうじょうの きもちを おくります。この ほんを とうして むすばれた であいに、わたしたち おやこは、どのくらい ささえられて きた ことでしょう。
 そして、4ねんかんに わたって、わたしと いっしょに、この アルバムを つくって くださったのは、かみやま あさこ さんと、うの たかこ さんでした。
 おふたりとは、はなれて いても、これからも ずっと いっしょに いきて いけると しんじて います。

 なお、こんかいは、こそだてを して いらっしゃる、めの ふじゆうな ゆうじんたちが、げんこうを およせ くださいました。
 また、こころよく ささえてに なって くださったのが、「でんでんむしの かい」の みなさん、みやした しずえさん。あらい まりこ さん、こみやま いんさつさん、リボン オフィースのなかまたち、そして、しんいちさんです。
 ほんとうに ありがとう ございました。

           (一九九一年十二月  点字原稿から)

本文p.4かまくらのなかのふたり

編集後記『おまけのたのしみ』 神山朝子


 コスモスの花かげが、開いた本にくっきりと映って、美しい絵葉書のよう。秋の夜、時間を忘れて、会話集の編集に没頭するのは、とても楽しい。

 割付けは、ワープロの原稿を印刷の形に はめていく作業。専門の知識もないまま、我流でやらせてもらっている。表紙は、里枝子さんとしゃべりながら イメージを膨らませる。どちらも工作のおもしろさ。
 晶久君が書いた、大きなまっ赤な蟹が、四集の表紙のモチーフだったが、何度かやり直した後で、この素材の持ち味を生かせた、と感じた時は、やはり心がはずんだ。
 そればかりではない。もうすぐ三才の長男は、これを見て「カニさん、おつきさまがみえるかい」と言った。子供の発想って似ていて、それでいて新鮮なんだナ、と感心させられる。六才になる娘もまた、いつの間にか『かおるの絵本』を作っていたりする。羨ましかったのだろう。
 こんなふうに、会話集作りには、おまけのたのしみが、あっちこっちに隠れている。この本を支える人たちは皆 わが友人のように思えるし、完成した本を渡す時の緊張感なども、近い将来の、楽しみのひとつである。

 だからと言って、手放しで、はしゃいでばかりもいられない。
「会話がどんどん複雑になってきて、とても書きとめられなくなってきた」という、里枝子さんからの、ごく最近のメッセージ。
 成長と、それに伴う様々ないたみ。それらが、会話だけでは表し難いものに変化してきたのだろう。
 遅かれ早かれ、形は変わる。けれど、これからも、記録を続けてほしい。そして、新しい表現方法を得て、里枝子さんや私たちが、母性の時を生きた証となるようなものが、一緒に作れたらいいね、と思う。

 ともあれ、毎年実感することだが、私は、このことを通じて、ずいぶん元気にさせてもらった気がしている。
 停滞感や自信のなさに 飲みこまれている頃だっただけに、ほんとうに、ここちよい風だった。
 新しい生命も、母の試行錯誤を おなかの中で感じとっているらしく、一層力強い胎動を伝えてくれている。

追記(2023.2/23)


「彼女と私の」という小さな点から始まった『おはなしのアルバム』という会話集作りでしたが、回を重ねるごとに人の輪は広がって行きました。
盲導犬と幼な子と一緒に歩く里枝子さんのありのままの姿が、多くの人を惹きつけ共感を生み出していったのでしょう。
「彼女と私の」から「彼女とみんなの共同作業」という、大きなうねりになっていったのです。それは里枝子さんにとっても私にとっても予想外の喜びであり驚きでした。

里枝子さんはやがて、ラジオのパーソナリティーの仕事や講演会などで生き生きとめざましい活躍を始めました。
私は夫の脱サラ・独立にともなって家業に没頭するようになりました。

全力疾走で40代から50代を走り続け、60代半ばになった今、振り返ってみますと、この会話集作りをしていた時期は、それぞれに、幼い我が子と過ごした蜜月でした。かけがえのない幸福な時間でした。できあがった会話集は、母として生きた証であったのです。

今回の「彼女と私の共同作業その1~その4」では、里枝子さんの承諾を得て、会話集の中から里枝子さんと私の文章だけを抜き取る形で掲載しました。
本文の会話、たくさんの寄稿を置いてきぼりにして、まるで、ふたりだけで作ったかのような印象を与えてしまったらごめんなさい。
私の人生にとってとても大事なことなので、どうしてもnoteに残しておきたかったのです。


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