見出し画像

彼女と私の共同作業 その2

『おはなしのアルバム第二集』のこと



『あきとまさきのおはなしのアルバム '88 第二集
かみさま きょうも おひさまを つけてくれてありがとう』
発行人 広沢 里枝子
初版発行 1989年10月1日
第三刷 1991年2月15日


『はじめに』広沢里枝子



あき「あっ、あきも いくヨー。」
まさき「どーこ?」
あき「まさきと おんなじとこ。」
まさき「マーキも いく。」
あき「どこへ?」
まさき「あきと おんなじとこ!」

 玄関先で、足踏みしながら話し合っていた子供達。ふたりのうち合わせは、これで十分らしく、赤トンボでいっぱいの戸外へ、笑いながら駆け出して行きました。

 子供達の眠ったこの時間、夫の隣りの机に点字板を置いて、夕方のあのふたりの様子を書きとめていますと、なんだかまた、ほうっと心がほころんでくるようです。
 子供達の言葉を書きとめ始めた二年前には、次男の全紀もまだ、ほんの赤ん坊でしたし、幼い兄は、弟に母をとられたような思いで、いらだちをぶつけてくるようなことが、よくありました。
 それだけに子供達と気持ちの触れあえた瞬間は、もう嬉しくて。書きとめたページを何度も読み返しては、自分を励ましていたことを思い出します。それでも、そうして書きとめたり、思い返したりしながら、少しずつでも子供達の言葉や願いに、耳を傾けられるようになれたことは、幸いでした。
 子供達が道端で小さな花や生き物を見つけて喜びの声をあげる時、冬枯れのイメージしかなかった私の心にも、春の色が染めあげられていきます。
 母が気持ちをわかってくれた、ただそれだけで自ら立ち上がって行ける、子供達の姿に出会う度、あせってはいけない、信じて支えてやらなければと教えられるのでした。
 そう思っていながらも、未熟な面ばかりの私ですが、子供達が私を必要としている時には、気づいて受け入れてやれるように、自らやろうとしている時には、邪魔をしないようにと、自分に言いきかせながら過ごしています。

 しかし、私白身が人との共感を重ねながら自分の枠を広げていかないなら、子供達の気持ちも、じきにわからなくなってしまうことでしょう。
 『おはなしのアルバム』から生まれた出会いや触れあいを大切に育てながら、私達夫婦も、もっと成長したい…。そして、子供達に共感し続けようとすることで、人生が二倍にも、三倍にもふくらむような生き方ができればと、希望を抱いています。

 なお第二集は、初めて盲人用音声ワープロにチャレンジした私と、友人達の合作です。
 今年は、相棒の神山さんに、赤ちゃんがお生まれになったので、なるべく自力で作ろうとワープロに向かったのですが、スタジオズーの宮島さんと、夫と長野リハビリの池田さんと、パソコンの機械を扱えるようになるまでにもすでに三人がかり。
 十年近く普通の文字が見えなかったハンディーも、思った以上に大きくて、やり直しが続き、あの時、「ひとりで抱えこんで諦めてしまうより、もっと安心して、みんなに頼ってみてはどうだろう。」と言ってくれた神山さんの励ましがなかったら、途中で諦めてしまったかも知れません。
 その後、点訳ボランティアの宇野さんに選・校正をお願いしたところ、「私でいいの?やらせて」という嬉しいお返事。宇野さんの確かな目で、たくさんのメモの中から選ばれた会話の記録は、繰返し重ねた私との手紙の往復の中で、校正されていきました。
 そして編集は神山さんに。私の気持ちに立った、心ある編集で、大切にまとめてくれました。
 その原稿が、更にリラの会へ。東部町の「ふれあい広場」にあわせて、すでに三十部が仮発行され、メンバーは丁寧に印刷製本してくださっただけでなく、私達のことを伝えながら、地域の人々にこのアルバムを手渡してくださっています。
 でんでん虫の会でも、昨年と同様に、快く点訳をひき受けてくださいました。

 一年近くにわたる長いリレーが、やっとゴールに近づいた今、昨年、第一集の編集から製本まで、全てをひき受けてくれた神山さんの努力と友情がどれほどだったかと、改めて感謝しないではいられません。そして、その努力を礎に、第二集では、新しく身近に「私の仲間」と信じられる人々ができたことを、本当に嬉しく思います。
 ですから、この『アルバム』は、私達家族の暮らしの記録であると同時に、製作にあたったり、色々なかたちで、ここに登場してくださった、みんなの願いを運ぶものです。
 受けとってくださって、ありがとう。(一九八九年九月)


表紙見開き

編集後記『バトンタッチ』神山朝子



 「あきちゃんとまさきちゃんは、よく待ってられるねえ。」と、思わず笑った。五月、広沢さん宅に三泊もさせてもらって、一年分のおしゃべりを楽しんだ時のこと。
 里枝ちゃんは、「待つ」ことにかけては天才だが、子供達も、そうとうなものだ。学生の頃、気が短くてすぐじれた、あのトラちゃんまでが、かなり辛抱強くなっていたのには驚いた。(ゴメン)
 「それからね」と私。
 「里枝ちゃんは、よく覚えていられるねえ、会話を」

「うーん、やっぱり聞くことが生活の中心だからね」と彼女。

谷川俊太郎の詩の一節に暮らしの息づかいがだぶる。

みみをすます 
みちばたの いしころに みみをすます 
かすかにうなる コンピューターに みみをすます 
くちごもるとなりのひとに みみをすます 
どこかでギターのつまびき 
どこかでさらがわれる 
どこかであいうえお 
ざわめきのそこのいまに みみをすます


(『みみをすます』より) 

 そして気づく。
「待つ」ことも「みみをすます」ことも、目をつむった方がいいんだなって。
 「失明して、どこか安心した」と手紙をもらったことがあった。それは、失明の不安におびえ続けた時間を物語っていて痛々しく思えた。
 でも、一年ぶりに会った里枝ちゃんは、キュリーと一緒に安定した足どりで、目の見えない生活を、本当に生き始めているように感じられた。

 今、第二集の原稿を前に、昨年六月に、第一集をつくり終えた日のことを懐かしく思い出す。私は興奮を抑えきれず、雨の中、百部の包みをかかえて走っていた。あの時、妊娠三か月。
 翌々日、里枝ちゃんから、「幸せな思いが胸をひたしています。この会話集を十号まで出せたらいいなあって空想しているの。」と便り。ウンウンとうなずいた。
 数日後には、私の恩師である森直弘先生から、「心満ちたりた仕事と思います。」という、何より嬉しいご理解を頂くことができた。
 「私の会話集」と感じられた。
 こうして深夜、机に向かっていると、里枝ちゃんも夜中に、ヘッドフォンをつけてワープロを打ったのだろうな。宇野さんも、お子さんたちの寝息を確かめながら赤鉛筆を握ったに違いないと、おふたりの姿が鮮やかに見えて来る。

 この作業が終ったら、今度は、印刷製本を協力してくれる方々にバトンタッチだ。リレーのゴールが、「私の」であり、「私たちの」でもある、おはなしのアルバム第二集の誕生だ。
 もっと大きく育つかもしれない可能性を秘めながら…。

本文p.27「キューちゃんとお話」


第一集に寄せられたお便りから



森直弘先生(大学時代からの恩師)より広沢里枝子さんへ

 アキとマサキのおはなしのアルバム'87
「おかあさん木があかくなってきたよ」記録・広沢里枝子
いただきました。
 心をうつことばのかずかずにただ黙してうけとるばかりでした。
神山朝子さんらとの友情のすばらしさを感動を持ってみています。
 昨年おたずねした時のことくりかえし思い起こしています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?