見出し画像

自然は楽しませてもらうものであり、楽しむもの

 僕は生まれてこの方、たくさんの木々や、虫や動物、風や波、たくさんの存在に囲まれて生きてきた。
 それが無い人々にとっては、なんと豊かなことだろうと思うかもしれない。しかし、そんな生活を営む僕たち自身は、意外とそれが豊かなことだと気づけない。
 ただ、家で生活していることも、毎日3食食べていることも、それが"無い"という視点から見れば豊かであり、素晴らしいことだろう。
 それと同じように、自然という存在があまりに身近すぎて、ただ在るものとして受け止めがちである。

 禅の世界やヨガの世界では、ただ"在る"ということを重んじているようだ。しかし、体感として、ただ"在る"だけでは実に世界は淡白である。
 在ると言うことが光り輝くためには、無いということが凄く重要になる。四方から光が灯る真っ白な壁の四角い箱の中に居ては、生きた心地がしない。世界は隠と陽で満たされていて、それによって美しく、多様で、エネルギーに溢れているのである。隠と陽のどちらか一方が素晴らしいわけではなく、はたまた、どちらとも素晴らしいわけでもなく、ただそれらが佇んでいるのである。

 思うに、無の境地に達すると、究極の有が輪郭を際立たせる。その時の感情は、感動とも少し違う、"悦"なのではないか。


 話が逸れてしまったが、自然が魅せるエネルギー・多様性・美しさは、ただ在るだけでは気づけない。それが無いという世界が垣間見えたときに、物凄く"悦"を感じる。自然に対して強い愛と探究心が芽生える。
 僕の場合は、"在る"ということが先に来たわけだが、物理的に数年間そこから離れたことによって、"無い"という世界も知り、より一層今住む世界が楽しい。

 遠くの山々に生えているのは"木"ではない。スギ、クヌギ、クス、もっと言えば何千何万何億という多様な存在である。
 足で踏みつけているのは"土"ではない。鉄、マグネシウム、ケイ素、これもまた数え切れないほど多様で不思議な存在である。
 目の前に広がるのは"海"ではない。魚、海藻、プランクトン、一生かかっても浸り切れない美しい存在である。

 抽象化して型に無理やり押し込んで来た自然。蓋を開けてみれば、言葉ではいい表せないほど豊かだった。もっともっとこの尊い存在に楽しませていただきたいし、楽しめるような豊かな心を育んでゆきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?