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「バトルランナー」(1987)

地獄のバトルゲームは近未来の風雲た○し城!?


監督:ポール・マイケル・グレイザー
製作:ジョージ・リンダー、ティム・ジンネマン
脚本:スティーブン・E・デ・スーザ
音楽:ハロルド・フォルターメイヤー
出演:アーノルド・シュワルツェネッガー、マリア・コンチータ・アロンゾほか


スティーブン・キングの同名小説をベースにしつつ、キャラクター設定やストーリー展開などを大幅に改変して映画化した作品です。主演はおなじみアーノルド・シュワルツェネッガー。あの「プレデター」と同じ年に公開され、キャリア的はまさに人気赤丸急上昇中!!といった時期でした。持ち前の肉体を駆使したアクションも魅力的なのですが、それよりも80年代当時のサイケデリックな美術デザインや全編を通して漂う悪趣味な作風、個性あふれる(あふれすぎている)敵キャラクターの数々など、思わずシュワが霞んでしまうようなとんでもない個性を放っている怪作です。世間の評価はともかく、個人的には大好きな映画だったりします。


あらすじ


西暦2017年、かつてない大恐慌によって世界の経済は完全に崩壊した。食糧を始めとするあらゆる資源が枯渇し、貧富の差も拡大。政治の舞台には警察権力が台頭し、その武力と強制力をもって独裁的な支配体制を確立していた。そんな暗澹たる世界で、一般大衆に与えられた唯一の娯楽は「テレビ」だけであった。人々はテレビ局が意図したとおりに笑い、泣き、怒る。中でもカリスマ的司会者であるデーモン・キリアンが送る「ランニング・マン」は圧倒的視聴率を誇っていた。その内容は、丸腰の凶悪犯罪者と特殊装備で武装したハンターとのバトルゲームである。正義のハンターと悪の犯罪者という極度に単純化された構図を視聴者は疑うことなく受け入れ、ハンターの活躍に狂喜することで日々のうっぷんを晴らしていた。

そんなある日、警察組織に所属するベン・リチャーズ(アーノルド・シュワルツェネッガー)は食糧を求める貧民の暴動に遭遇する。ただちに制圧せよ、と命令が下されるがベンはこれを拒否する。すると同僚たちが彼を取り押さえ制圧してしまう。こうして組織の命令に背いたベンは犯罪者の濡れ衣を着せられ、強制収容所へと送り込まれてしまった。それから18ヶ月後、ベンは施設で知り合った反政府組織のメンバーであるラフリン、ワイスとともに決死の脱獄計画を決行、見事に収容所を脱獄することに成功する。スラムの一角にある反政府組織の拠点で脱獄防止の爆弾つき首輪を取り外してもらったベンは同志にならないかと勧誘を受けるが、これを拒否して弟の住むマンションへと向かった。

しかし弟はすでに警察組織によって連れ去られており、彼の部屋にはテレビ局で働くアンバー(マリア・コンチータ・アロンゾ)という女性が住んでいた。ベンは彼女を脅迫して国外へ逃亡する計画を立て、ともに空港へと向かう。しかしアンバーの機転により警備員が出動、抵抗むなしくベンは捕まってしまう。一連の事件からベンの身体能力と行動力に興味を持ったキリアンは、彼を「ランニング・マン」の出演者としてスカウトする。スラムで別れたラフリンとワイスを人質に取られたベンはやむなく番組に出ることになったが、いざ放送当日になるとラフリンらが出演者として加えられていた。すべてはキリアンによる策略だったのだ。はたしてベンたちは生きてゲームをクリアすることができるのだろうか…?


※ここから先、映画の展開や結末に関するネタバレが
含まれています。まだ映画を観ていない方はご注意ください。










ほとんどギャグみたいな悪役たち


「ランニング・マン」の魅力はなんといってもハンターです。彼らはアイドル的な人気を誇っており、装備している武器をもとにそれぞれ安直なイカした名前がついています。まずはサブゼロ。恰幅の良い体型に中国人なんだか日本人なんだかよくわからないヒゲをたくわえ、トゲのたくさんついたアイスホッケーのユニフォームを着ているという、書いているだけで頭がクラクラしてくるキャラクターです。主な攻撃はスティックでの直接攻撃、または爆発するパックを打ち出すというもの。キリアンによると「血のしたたるスシ」を作るのが得意だそうですが、結局それが何を意味するのかよく分からずに返り討ちにされてしまいました。銅鑼を打ち鳴らして登場するシーンはけっこうカッコいいのですが(笑)

次にバズソー。鍛え上げられた肉体にモトクロスバイクを持ち上げる怪力、そして名前にある通りふたつのチェーンソーを装備しています。ザ・悪役!といった風貌に加えチェーンソーで鉄を真っ二つにするパフォーマンスでつかみはバッチリ…だったのですが、なぜか登場シーンの大半はバイクに乗っているという謎。バイクにチェーンソーを取り付ければ強いのに…と思いましたが、あっさり決着がついてしまっては番組的にも面白くないということなのでしょう(?)バイクから落ちた後はチェーンソーを手に格闘戦に移行、ベンと壮絶な力比べによる死闘を繰り広げますが最期は男の大事な「タマタマ」を切り裂かれてしまい(映像はありません、念のため)敗北。とんだ放送事故が巻き起こってしまいました(笑)

続いてはダイナモ。またしても恰幅の良い男です。風変わりなハンターの中でもひときわ異彩を放つ彼、なんと全身に電飾を取り付けています。武器は両腕の電流ビームガン。さながら一年中クリスマス・イブといった趣です。さらに歌が上手い!難易度の高いオペラを「これが俺の十八番だ!」と言わんばかりに華麗に歌い上げています。演じたアーランド・ヴァン・リドス氏は実際にオペラ歌手の経験もあるというスゴイ経歴の持ち主だったのですが、本作の公開前に34歳で亡くなられてしまったそうです…。閑話休題。先に登場したふたりのハンターをはるかにしのぐインパクトで登場したダイナモですが、ワイスを感電死させた以外はこれといって目立った活躍もなく、命乞いをしてシュワに降服する有様。最後にアンバーを襲いますが、その最期は感電死…なんという因果応報。

最後はファイアーボール。予算が尽きてしまったのか耐火スーツに火炎放射器、ジェットパックというシンプルな装い。ベンの予想外の活躍によって視聴者の関心が完全に彼に向いてしまい、あわてて出撃した形での登場となりました。ゲームでも映画でも、こういう重火器を持ったキャラクターは歩きながらジワジワ追いかけてくるのが定番なのですが、ファイアーボールは普通に小走りで追いかけてきます。それがまた怖いです。舞台となる発電所跡?も明暗のコントラストが不安をかき立てます。ファイアーボールによるアンバー追跡シーンは、この映画の中で最も恐ろしい場面といえましょう。「ランニング・マン」の真実を知ってしまった彼女をいざ処刑!というタイミングでベンに奇襲され、火炎放射器のガスパイプを抜かれて狼狽。そのまま反撃に転じる間もなく発煙筒を投げつけられて爆殺されてしまいました。爆発直前の「アワワワワ」というリアクションはちょっと可愛いので一見の価値アリです(笑)

このようにハッタリのきいた登場シーンとは裏腹にけっこうアッサリ倒されていくハンターたちですが、彼らがいなければこの映画はもっと地味で見どころの少ない作品になっていたでしょう。ギャグのような見た目からは想像もつかないような残虐性を見せつけ、観客に強烈な印象を残した彼らハンターたちは、まさに理想の敵キャラクターといえます。やはりアクション映画で重要なのは悪役なのだな、と思わせる素晴らしい事例ですね。


実は先進的な作品?


人の生き死にをバラエティ番組のように消費する狂気的な世界観、漫画の世界から飛び出してきたようなハンターたちなど一見するとネタ映画のように思われがちな「バトルランナー」ですが、実はその後の作品に与えた影響は大きいのではないか?と個人的に考えております。まずなんといっても「ランニング・マン」の存在。というのもそれまでのSF映画に、ここまで悪趣味な近未来というのは前例がなかったからです。「北斗の拳」よろしく暴力が支配するか、極度に管理されたディストピアなどが多かったのですが「バトルランナー」は全く新しい未来世界の創造に成功しました。貧富の差の拡大、独裁政権といった既存の要素に「テレビ番組」という現代社会の要素を取り入れ、しかもそれが社会全体のガス抜きになっているという、示唆に富んだ世界観が作り上げられたのです。あの「バトル・ロワイアル」や「ハンガー・ゲーム」にもこの作品の影響は垣間見られます。実際に影響を受けたり参考にしたかどうかは定かではありませんが、少なくとも今日における「生き残りをかけて戦うデスゲーム」系の作品群に与えた影響は確実に存在すると思います。SF映画がひとつの巨大ジャンルとして成熟し、その可能性が木の根のように多方面に自由に広がっていった1980年代を語るうえで、本作は欠かすことのできないエポックメイキングであるといえましょう。


「ランニング・マン」はフィクション…ではない


ラフリンとワイスを失いつつも「ランニング・マン」を見事に生き延びたベンとアンバー。筆舌に尽くしがたい苦難の数々を越えて、物語はいよいよクライマックスへと突入します。ふたりの活躍によりレジスタンスがテレビ局の電波を乗っ取ることに成功、ベンが指揮する実働部隊によってスタジオも制圧され、いよいよキリアンは崖っぷちへと追いやられてしまいます。自分の死を悟ったのか、キリアンは開き直ったかのように自身の考えをベンに語り始めます。「これはテレビ番組に過ぎない」と。民衆はテレビが大好きで、テレビが与えた情報通りに生きている。自分は彼らの求めるものを提供しているにすぎないのだ、と。

たとえ生き延びてももはや失脚は免れないという状況でありながら、自分の考えにわずかな疑問も抱いていないその雄弁な語り口は、もはやすがすがしさすら感じさせます。そしてこれがデーモン・キリアンという人間の本音なのでしょう。どうしようもなく追い込まれたとき、その人間の本質がさらけ出されます。土壇場で見せる言動こそその人の真の人間性であり、偽りのない真実なのです。彼の言う通り、人々は「ランニング・マン」に狂喜し、人が死ぬ様子をエンターテイメントとして消費していました。番組で宣伝されたグッズを買い、ハンターをアイドルのようにもてはやし、テレビから与えられる情報の真偽を確かめることもしない。彼らにとってはその場の感情の高ぶりだけが重要であり、物事の善悪や正しささえ、問題ではないのです。

キリアンは「ランニング・マン」参加者の乗るボブスレー?によって射出され、自身が描かれた看板に激突して爆発炎上するという壮絶な最期を遂げます。その瞬間でさえ、番組を見ていた視聴者は歓喜の声をあげていました。それはまるで圧政から解放された奴隷のようでもありました。しかし考えてみてください。彼らはついさっきまでハンターを応援し、ベンたち出演者が皆殺しになることを望んでいたのです。しかしベンが次々とハンターを返り討ちにするやいなや一転、ベンを応援し始めます。この主体性のなさこそ、キリアンの語った「テレビが大好きな民衆」の本質なのです。つまるところ、番組が盛り上がりさえすれば細かいことはどうでもよいのです。彼らにとって重要なのは、いかに溜飲が下がる展開をテレビが提供してくれるか?という一点だけです。テレビ番組の演出、描き方、報道の姿勢、そういったわずかなさじ加減に簡単に左右され、物事を推し量ろうとする民衆にとって「真実」とは一戸建て住宅の大黒柱ではなく、日替わりランチのようなものです。

今は西暦2023年。「バトルランナー」が思い描いた未来からすでに6年経過しています。あなたのまわりを見てください。それからテレビとインターネットも。「バトルランナー」は荒唐無稽なSFアクション映画ですか?それとも…。



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