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現実の更新

心の中の言葉を、どこまで形にしてよいのかわからない。

これは悩みとか問題とかそういうカテゴリに属する感覚ではなくて、単に人間という生き物が持ちうる本能的な、正体不明のものに対する恐怖というやつではないかと感じている。 しかもたちが悪いのは、その恐怖が受動的なものではなくて能動的なものであるということなのだ。

かんたんに説明すると、幽霊が出るとささやかれているトンネルへ丑三つ時に侵入する、というのは受動的な恐怖である。 この恐怖を生存本能にしたがって軽減するために我々は、そもそも侵入しないという手段をまずとることができて、もし侵入し何らかの霊障(らしきなにか)にでくわしたとなれば、その原因は己の中から湧き出るものではなくて、この原因はトンネルの幽霊に由来するものであると結論付ける、その「せい」にできるわけだ。
そしてそののちに、霊的なものに対する極端な忌避であるとか、暗闇・閉所への嫌悪感など、心に防衛パターンとして刻まれてしまうのはまさに能動的な恐怖だといえる。
たしかに幽霊という存在が、その当時の自分に恐怖というものを与えたことは確かだ。 だがその行いをいましめて恐怖と結び付け、ことあるごと思い出しているのは自分自身にほかならない。 能動的な恐怖は、制御ができない。それと遭遇したとき、回避する手段がきわめて少ない。

ところで私が人生の中で最も恐ろしく思っている能動的恐怖は、「車輪の再発明」という言葉である。

車輪の再発明(しゃりんのさいはつめい、英: reinventing the wheel)とは、「広く受け入れられ確立されている技術や解決法を(知らずに、または意図的に無視して)再び一から作ること」を指すための慣用句。

-Wikipediaより引用

「物を運ぶために、円盤を接地回転させて前に進む機構と、それを搭載した箱を作ったぞ。2年かかった」とあなたの友人がSNSのメッセージで言ってきたとする。
訝しげに「どんな機構か見たい」とあなた、送られてくる写真。
それを見て誰でもこう返すだろう。「これは車輪というのだ」と。
……おそらくその友人は天才だと思うし、手放すべきでない関係であることは明確ではあろうとも、その発明そのものに文明的価値を見出すことはできない。 すでに技術として確立されていて、空気と同じくらいの頻度で我々はそれを享受しているのだから。
もしその彼が「ネジと呼ばれる留め具を、その頂点に刻まれた切り欠きを利用して着脱するための器具を半年で作ったぞ」なんて言ってきたとしたら、写真を見るまでもないだろう。
すでに人類が当然のごとく利用してきた知恵とその蓄積を利用しないというのは、大げさに描いたがここまで滑稽に映ってしまうもので、それがしばしば現実にも起こっていることもまた事実なのだ。
この言葉を知って以来、ことあるごとにわたしは自らの行いが「車輪の再発明」ではないのか?と自問自答するようになった。 能動的恐怖への対処手段は、とても少ない。


本質を言葉にしてはじめてその重要性を悟るという出来事がある。
なにかを好きだと言ったら愛があふれたり、なにかに嫌いと宣言したら冷酷なほど減点しはじめたり。 課長のあれってモラハラの一種だよねという分析とか、グラコロって炭水化物だけで構成されてるよねという指摘とか。 保険なんて不安に付け込んでるだけという看破とか、ドラマって美男美女じゃなきゃありえないストーリーだよという見解とか。
目が覚めたような気持ちでそれらを見つめる自分に気が付く。
そうして、良いか悪いかは別に、その本質をベースとした評価を下さなければならなくなってしまい、それらがもっていた自分にとっての重要性があらわになる。

わたしはいつもこれに振り回されてきた。
わたしは愚痴や不平不満をまき散らすほうではないし、そういったことを他人から聞くのもなんとなく嫌だし意味のないことだと思って過ごしてきた。
しかしふとしたはずみで、わたしの口から飛びだしたそれらは重大な意味を持っていた。 その重要性を悟ってしまうのだ。
我慢していたという紛れもなく、かつくだらない事実がそこにはあって、 ふわふわと心の中を漂っていただけの存在が、いつの間にか私の一部となっていて。 その感覚は不思議で、恐ろしく、なによりもともとそうであったかのように心地が良い。 能動的な恐怖が、優しく静かに私の中に植え付けられていき、繋ぎ目も見えないほどきれいに収納されていくのだ。

だからわたしは、心の中をどこまで言葉にしてよいのかわからない。
好きなことも、嫌いなことも、どうでもいいことも。
言語化された解像度が本質に届きうるその距離に恐怖して。

それが、私の現実を、更新していく瞬間は、たまらなく、





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