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正義という言葉は感情論である #虎note

こんにちは、虎( https://twitter.com/tiger_stlv )です。

今回は「正義」という言葉に隠れた裏側を解説していきます。


はじめに

正義という言葉には絶対性が感じられますね。

ですが、我々が日々使用する言葉の中で絶対性のある言葉には注意が必要です。

人間の心理として、絶対性のある言葉を使用する時には、その裏にある本心を隠す機能があります。

例えば、差別という言葉もこれにあたります。

差別という言葉と、差別が何故されているかということを疑問に考えたことはあるでしょうか?

歴史の中では様々な差別が行われており、黒人や女性など、様々な属性の人たちが差別対象になってきました。

例えばですが、それら差別は彼らが差別対象になるほどの強いポテンシャルを秘めており、周りの人がそれを恐れていたために差別が生まれた。と考えることができると思いませんか?

黒人は身体が強く、長く野外で活動できるポテンシャルを持っています。
女性は精神が強く、男性ができないことに長く強く耐えられます。

これは、反対側の属性の人からすると恐怖です。だから差別した。そう考えることもできるかもしれない。

ですが、差別という概念を思考停止で信じると、どうなるでしょうか。

ただの差別対象としてしか認識せず、そうなると相手側のポテンシャルを忘れ、いつかどんでん返しが起こる。そんなことが色んなところで起こっていませんか?

逆に、芸能人やインフルエンサーもこれにあたります。

キラキラした職業はつぶしが効かず、名声の割にリスクが高く、世間一般で認知されているほど良いものではないことが多いです。

歴史を遡れば、今でいう芸能人やスターというものは見世物小屋が始まりであり、手や足が無い人、要は芸が身に着けられない人をどの様にマネタイズするか、というものが起源だったと考えられます。
※あくまで私見です。

それが今では憧れられる職業になり、崇拝している人も現れ…。

このように歴史をみてみると、世の中の認識と過去の成り立ちが正反対なものが多数存在するのです。

これは現代社会に限らず、我々が無意識に使用している言葉や感覚にも同じことが言えます。

我々は思考停止で今あるものを受け入れていて、それに疑問を持つことを知りません。

冒頭の話は、それがいかに滑稽なことか、という例として出しました。私は正義や差別という言葉を聴くと、いつもそれについての真偽を考えます。

その正義や差別が良い悪いという話はしていません。

ただ、他者から提供されたそれらの概念を、そのまま信じることは本当に良いことではないのかもしれない。

そういった観点から、少し過激な例として冒頭の例を挙げました。

さて、ではそういった文脈において「正義」とは、一体どういうものなのでしょうか?

是非「自分の場合はどうだろう?」ということを考えながら読み進めていって下さい。

それでは本題へ入っていきます。

正義=感情論の根拠

今これを読んでいる貴方も「正義は感情論です!」と言われ、すぐに納得できるかと言われたら、そうではないかも知れません。

ですので、順を追って解説してきますね。

まず貴方の中に、どの様な時に正義感が生まれるのか考えてみて下さい。

自分の過去を否定されたとき
年配の方や子どもと接するとき
店員がクレーマーに絡まれてるとき
社会秩序が乱されているとき

など、人それぞれあると思います。

どういう時に出てきますか?

イメージしてみてください。

今挙げたものは一例に過ぎませんが、こうした正義感が生まれたとき、それと同時に裁きの感情が芽生えていることに気が付くでしょうか。

評価、判断、善悪、そういったジャッジの感情です。

今の例を上から見ていくと、「自分の過去を否定されたとき」というのは、自分が過去に本当はやりたくなかったことを一生懸命に取り組んだのにも関わらず、それを否定してくる対象へ怒りの反応が出ている可能性が高いです。

「年配の方や子どもと接するとき」でいうなら、年配の方や子どもと接するとき「弱い者には優しくすべき」という価値観がベースになっていると思います。

しかし、「弱い者には優しくすべき」という価値観を一度横に置いたとき、弱い者をいじめたくなる思いを抱いたことはないでしょうか。いじめたいというほどでなくても、いじってみたいとか、からかってみたいとか。

犬や猫、小動物に対してそういうちょっとおバカな部分をからかいたい気持ちが湧いてきたことはありませんか?

「かわいい反面、相手を自分の好きにしたくなる気持ち」とでもいいましょうか。これは人間の本能にプログラムされている反応です。 

「店員がクレーマーに絡まれていたとき」の例でいうなら、おそらく自分も態度の悪い店員に接客されてむかついた時、本当は物凄くクレームを言いたいけれども、それをせず我慢しますよね。

無礼な接客をされたときに激怒したところで生産性はなく、無駄な衝突をしても不毛だとわかるから我々はそれをしません。

社会秩序の例でいうなら、「社会秩序を乱してみたい」と思ったことがあるのではないでしょうか?

良心や常識を横に置いたとき、たとえば山手線に石を投げ込んでみたくはないでしょうか。

想像してみて下さい。

それをしても罪にも問われず、全く罰されないのだとしたら、「面白そうだから社会秩序を乱したいな」と思わないでしょうか。

一つ一つ例を見ていきましたが、読んでいるあなたに先ほど挙げてもらったことも含めて、そのように見てみれば全ての正義感の裏にあるものが『正義』そのものではないことはお分かりいただけたでしょうか。

正義とは、自分が本当はやりたいのにも関わらず我慢しているそれを、誰かが平然とやっているときに芽生える感情なのです。

つまり、他人に『正義』や『正義感』を振りかざしたくなる相手がやっていることを、我々自身本当はやりたいと思っており、正義や正義感はそれをやっている人間への攻撃でしかない、ということです。

お金持ちに対して「金持ちはみんな悪いことやっているんだ!」と思う人間は、大体悪いことをしてでも金持ちになりたいのです。

人間の心理として「やりたくても我慢している」というものを見たとき攻撃せずにはいられなくなります。

「攻撃したい」とは「裁きたい」と同義です。

果たしてそれは本当に正義なのでしょうか。

どうやら違いますね。

正義感とは感情以外の何者でもありません。ただの感情論です。

正義を他人に振りかざすことは「俺が我慢してることを、なんでお前は我慢しないんだよ」という裁きであると同時に、我々は自分のその本心を騙すために「正義」という言葉を使っているのです。

正義感が強い人ほど残虐である

我々は自分が安全な状況にいるとき、カオスさに楽しさを覚える生き物でもあります。

お化け屋敷やジェットコースター、バンジージャンプが何故楽しいか?

それは安全が担保されているからですね。

仮に全ての良心を捨て、自分が安全な位置にいるときに、新宿駅に爆弾を投げるとします。
(それをやっても誰も死なないし、自分も罪に問われません。)

すると、たくさんの人がパニックになって逃げまどいますよね。

それを上から眺めているところを想像すると、すごくゲーム的で面白いと感じないでしょうか。

我々はみな、正義を謳いながら、同時にそういった残虐性を持ち合わせています。

そして、正義感が強い人ほどこの残虐性を持つ傾向があります。

残虐性とは、簡単に言うと『共感力の無さ』です。

正義感が強い人ほど、正義という言葉で他人を裁き、否定しているシーンが想像しやすくないでしょうか。

それで正義によって傷付けられた人の気持ちをその人は想像していると思いますか?

正義を謳っているはずなのに、反対側から見ると、正義ではないことをしていますよね?

ですから正義感の強さは、残虐性の強さとも言い換えることができます。

その様に考えると、自分の正義感を発揮することが少しだけ気が引けませんか?

ここで注意していただきたいことは、残虐性を持つことは決して悪いことではなく、我々の本能的にプログラムされているものであるため持っていて当たり前だ、ということです。

残虐性と聞くと「残酷なヤツ」や「薄情なヤツ」などのネガティブなイメージを想起すると思いますが、本能としてプログラムされているからには良い側面があり、そこに焦点を当ててあげることが大切です。

例えばですが、我々は残虐性があるから面白がる気持ち(ギャグ性)が生まれるのです。

お笑い芸人などが分かりやすいでしょう。

我々は当然のようにお笑いを観ていますが、実際は非常に残虐なことを言ったり、人を殴ったり、落とし穴に落として笑っていませんか?

これを改めて考えてみると、我々が笑い、面白く感じることというものは、それに残虐性や残酷さが含まれると言えるでしょう。

我々は残虐性(攻撃性・共感力の無さ)があるからそれを面白がることができるのです。

つまり、この残虐性は正義に使うこともできれば、ギャグに使うこともできる、変幻自在のエネルギーとも言えるでしょう。

残虐性を適切に使う

これまで挙げた『正義感』『残虐性』『ギャグ性』の3つには相関があります。

そして、自分の中にプログラムされたその気質を許すことで人生を面白がることができる、楽しい人間になることができるのです。

どういうことでしょうか?

例えば「あの人、すごく正義感が強いんだよ」と聞くと、どこか固くてつまらない印象を受けると思います。これは自身の残虐性やギャグ性への許可が降りておらず、正義感という感情論や常識に支配されている状態です。

間違わないで欲しいのですが、正義が感情論であることは悪いことではなく、正義の味方として生きていきたい人はその様に生きていけば良いと思っています。

私自身も「人の役に立ちたい」「社会に貢献したい」という思いはあります。そして、同時にホームレスを見ると「なんで社会の役に立ってないんだ」イライラもします。

ただ、それが楽しい人生であるのか?という自問自答をして欲しい。

何より、正義感から誰かを攻撃することが、自分の目的を達成することに繋がるのか問い続けられる知性を持ってほしい。

正義感は持っていていいものですが、それに囚われていればいるほど、自分の人生の自由度が減ることを覚えておいて下さい。

先ほど、私の例でホームレスをみてイライラするとお伝えしましたが、そこでイライラと反応するのではなく、実際にそれを面白がったり、楽しんだりする方向へ持っていくことができたら、その人達に興味が持てて、社会へ貢献するというコミットメントが叶うかもしれません。

過去にあった話なのですが、日雇いの仕事をしている時に、仕事があんまりできない口だけ達者なおじさんがいました。そして、その人は口癖のように「俺は元々〇〇会社で重役をやっててよ」と言っていました。

ここで「嘘つくなよ」や「バカだな」と反応をして無視していいかもしれません。当時の私はそうしていました。

ですが、そこであえて嘘だとわかっていたとしても、そのおじさんの話を面白がり、「どこの会社の重役だったんですか?」「どのくらい稼いでいたんですか?」などと聞くことができれば、そのおじさんの空想の話が非常に興味深くなり面白がって話を聞くことができるかも知れません。

おじさん本人も、どこまでが真実なのかも分かっていないでしょう。

どうせ同じ話を聴くならノンストレスで話を聴けた方がいいし、わざわざ誰かを傷付ける必要はないと思いませんか?

「こいつバカだな」と思う裁きの気持ち(残虐性)を否定しないことができれば、裁きの対象だったものが面白いものへと変化します。

つまり、自分の残虐性を否定せず許容することは、あらゆることを面白がることに繋がる、ということです。

正義は時に滑稽である

逆に、稀にニュースなどで見る正義感の強すぎる人は、側から見れば滑稽に見えないでしょうか。

人権団体の人などは、当人たちは強い正義感を持ち真剣に抗議をしていると思うのですが、全裸で飛び跳ねていたり、太鼓を叩きながら歌ってみたり、名画に液体をかけてみたり、側からその行為だけを見れば非常に滑稽に見えることをしているように見えませんか?

正義というものは別の側面から見ると、非常にギャグ的であり面白いものなのです。

何そんなつまんないことに執着して、変なことをして、人生の貴重な時間使ってんの?という。

正義感をエネルギー源にして、他のことに使う

人生において、この『正義感』『残虐性』『ギャグ性』の3つをグリップし、上手く使うことができれば確実に人生が面白くなります。

まず、自分の中で正義感が生まれる瞬間を掴むこと。

そのボルテージが大きければ大きいほど自分は残虐性や残酷さを持っていることになり、それは同時にギャグ(面白いこと)に使えます。

「残虐性や残酷さとは悪いものである」という常識を疑い、それは良くも悪くもなく、ただ使いようによって良いものにできる、という話です。

何故か?正義感とはただの感情であり、ただの感情である以上はエネルギーとして使えるからです。

全ての表現のエネルギーの源泉は感情です。

つまり正義感はただの感情だ、というレベルまで認識することができれば、あらゆることに使えるエネルギーにリサイクルすることができるのです、

逆に、正義に囚われている状態というのは感情論から抜け出せていない、そしてそれに気付いていないということなので気をつけて欲しいと思います。

アクセルを踏み切れないのは自己否定をしているから

正義はただの感情論であることに気がつけると「残虐であるべきではない」という正義で自身の残虐性を否定する必要がなくなります。

そうすることにより、自分の持っている根本的なエネルギーや優しさを承認し、発揮できるようになります。

逆に正義感によって自身の残虐性を裁いている自分がいると、例え誰かに貢献していたり、優しくしていたりしていたとしても、自分の無意識の奥底では『自己否定した結果の優しさ』を差し出していることになります。

自身の残虐性を否定し、裁きながら他人に優しくすることは、優しさのエネルギーを裁きのエネルギーで相殺するということであり、これは大きなギブができないことを意味します。それはどこか自分を守るためのギブであり、やりきれない瞬間が訪れます。

自分の行動にアクセルを踏み切れない人は、こうして自己否定をすることにエネルギーを使っているから引き起こっていると言えるでしょう。

アクセルとブレーキを同時に踏んでいるのです。

優しさという愛情と残虐性という裁きの気持ちは根本的に一体であるため、一方を否定することはもう一方の否定に繋がる、ということです。

我々の残虐性というものは、愛している対象にしか生まれません。

心理学に「キュートアグレッション」という言葉があるように、愛している対象に残虐性を抱くことは、私たちの本能にインプットされています。

街ですれ違った人に残虐性を抱かないですよね。

好きだからいじめたくなり、好きだから残虐性が生まれるのです。

我々は「他人に対して優しくしたい」「親切にしたい」という愛情を持った瞬間に、自動的に残虐性が生まれるのです。

優しさや親切心は愛情であり、残虐性が生まれることもまた同じ愛情なのです。

これを理解した上で、自身の残虐性に許可を下ろすことができるとギブの質が上がります。残虐であっていいのです、というより、人間は残虐なのです。

他人に対するギブというのは、終局的には愛情と残虐性のどちらを差し出すのか、という話です。

例えば、いじられることを愛情だと思う人も存在しますよね。そして、いじるという行為は残虐性がないとできない行為です。我々は、愛していない対象をいじろうとは絶対に思いません。

ですから前述の通り「社会秩序を守るべきだ」という強い正義感の裏には「社会秩序を乱したい」という強い残虐性が隠れています。

なぜそれが発生するかといえば、それはその人が社会を愛しているからです。

変な話に聴こえるかもしれませんが、もしあなたが新宿駅を爆破したり、山手線に石を投げ込んで社会秩序を乱すことに面白さを覚えるのなら、あなたは新宿駅および山手線を愛しているのだと言えます。

その時あなたがあえて他の主要駅ではなく新宿駅を、他の路線ではなく山手線を選ぶのは、その駅や路線を何かしらの思い入れがあり、それに愛着があるのです。

駅だとイメージが湧きづらいかもしれませんが、同じようにご自身や、ご自身の身の回りの人やものについてぜひ同じように考えてみてください。

そこにある愛情を見て、そして残虐性を許したとき、あなたはより大きなギブを周りに与えられる人になるはずです。

おわりに

ここまで読んでいただき、「正義」の正体をご理解いただけたと思います。

今回のnoteで伝えたいことは3つです。

正義は感情論に過ぎないということ
正義感は自身の残虐性を隠すために生まれるということ
自身の生まれ持った残虐性を許容し受け入れることは、人生を面白くし、ギブの質を上げるということ

正義感に限らず、我々が反応として抱く感情は全てその裏側にある本心を隠しています。

それは人間の本能にプログラムされたものであり、そのメカニズムを理解し、それを自分の人生にどのように使うかを考えていくことで、人生がより良いものへと変わっていきます。

本記事では一緒に取り組んでいくようなワークはありません。

今まで生活の中でスルーしてしまっていた自身の正義感や残虐性に気がつき、それを1つずつ許していくこと。そして自分の中で小さな仮説と検証をし続けること。それによるマインドの変化やクリエイティビティの変化に気がつき、小さな成功体験を積み続けること。

地道ですが、これが今回のテーマに対するワークと言えるでしょう。

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