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為五郎は奥崎謙三である ~平成から見た戦中派風景・その1

 いわゆる昭和カルチャーに耽溺していて、どれだけ資料を蒐集したとしてもリアルタイムの方々に敵わないと痛感させられるのがテレビの存在感である。どんなに暇をもてあましていても毎週土曜19:30から「仮面ライダー」を観て、20:00から「8時だョ! 全員集合」を観て21:00から「Gメン’75」を観るわけにはいかないのではないか?(ちなみにこれは当時東京西部に住んでいた昭和36年生の私の母親が実際に家族で視聴していた順番である)。その中でもとりわけ解らないのがやはりお笑いの分野、特に流行語になったようなナンセンス・ギャグがどういう文脈で受け止められていたかということだ。その流行元であるバラエティ番組などは殆ど映像データが現存しないため、なおさら推測に頼るか、あるいは比較的アクセスが容易な当時の通俗娯楽映画を通じて触れるしかなくなる。しかし当然のことながら、1時間半のプログラム・ピクチュアにするとなると何らかの筋書きを仕立てなくてはならないし、それはバラエティ番組で唐突に登場するような文脈とはかなり異なってくる場合も多い。今回紹介するハナ肇主演『アッと驚く為五郎』('70、瀬川昌治監督)にしても本来単発ギャグだったものが映画化に際して独自のキャラクターを与えられ、それが結果として戦後日本人のある種の隠された心理を炙り出すという、特筆すべき娯楽作品となっている。

 話はざっとこんな感じだ。
 大正12年9月1日、東京下町の貧乏長屋の倅として生まれた大岩為五郎はまず生誕直後の関東大震災でアッと驚き、成人して工兵として南方戦線に駆り出されて英兵にションベンを引っかけられアッと驚き、負傷して広島の陸軍病院に入院するも家族は戦災に遭って天涯孤独の身、梓みちよの看護婦といい仲になるが口づけを交わそうとした瞬間原爆が落ちてアッと驚き、彼女を捜し求めて彷徨った焼け跡で玉音放送を聴いてアッと驚く。
 それから四半世紀-。すっかり中年となった為五郎は高度経済成長期の日本であくどい高利貸しをして儲けている。彼は若い時分あまりにアッと驚いてきたので、神経が驚くことに拒絶反応を起こしてたとえ工事現場の穴に落ちてもピンピンしている始末。そんなある日、彼の経営する恵比寿金融の縄張りにトルコ嬢上がりの金貸し、佐藤友美が乗り込んでくる。いかがわしげな資金力をバックに次々とお得意をかっさらっていく佐藤に地団駄を踏む為五郎。いっぽう、為五郎の秘書・谷啓はヤクザに追われていた女性を助ける(偶然にも彼女は為五郎が広島で出逢った看護婦・梓みちよの娘である)。その清楚な女性に惚れ込む谷啓だが、彼女はヤクザに500万の借金があり結婚出来ないという。思いあまって恵比寿金融から証文を持ち出す谷啓。すべてを裏で操っているのが佐藤とそのパトロンである暴力団の親分だと知った為五郎は、既に今は亡き看護婦の娘の幸せをかなえるべく一家に殴り込みをかける-。

 まあ何というか、まことに他愛のない話ではある。原爆投下までネタにしてしまうのは現代の感覚では驚愕ものだが、2年早い同じ松竹映画『進めジャガーズ! 敵前上陸』でも似たようなセンスは垣間見られるのでそこまで意外ではない。それよりも私は「かつての軍国日本に翻弄されて『アッと』驚く感情を去勢されてしまった主人公が自分の生き様に筋を通すべく改心し社会悪を成敗しに行く」という筋に驚かされた。描写こそ喜劇めいてはいるが、この人物は奥崎謙三そのものではないかと-。

 奥崎謙三。言わずと知れた『ゆきゆきて、神軍』の主人公”神軍平等兵”であり、昭和天皇裕仁にパチンコ玉を放ちポルノビラを銀座に撒き、元号が変わって30年が経過しても動画サイトにアップされた放送禁止用語連発の政見放送で若者に驚愕(と嘲笑)をもたらす伝説の存在である。
 皇居事件の陳述書を採録した『ヤマザキ、天皇を撃て!』('72年、三一書房)によるとその前半生は以下の通り。1920(大正9)年兵庫県生。小学校を卒業して丁稚奉公に出されバッテリー商を始めるが徴兵され、独立工兵第36連隊に所属、東部ニューギニア戦線に送られる。所属千数百名中生き残りが50人にも満たないという惨状の中、持ち前の反骨心で上官から食料を奪うなどして生き延びる。復員船の中では船長が食料を横領していることに気づき刃傷沙汰を起こし、平等な配分を実現させる。戦後結婚してバッテリー商を再開するが、悪辣な不動産業者と土地をめぐるトラブルとなりこれまた刃傷沙汰で成敗しようとするが運悪く相手が死亡し懲役10年。独房生活を続けるうち自らをかくも追い詰めたのは軍隊の上官や船長、不動産業者といった小悪党ではなく、彼らをそのような行為に差し向ける政治家・国家・国法であり、その首魁たる天皇裕仁だという確信に到達する。そして出所後、それを世間にあまねく知らしむるべく上記のパチンコ玉事件を起こす-。

 この略歴を読んで皆さんはどう思われるだろうか。動画サイトにコメントする若者のごとく狂ってる、逆恨み、サヨクの妄言だと思われるだろうか。私は全く違う感想を持った。私はこの奥崎謙三という人物は正気そのもので、なおかつ頭が切れ誠実、純粋であると感銘を受けた。むしろ彼を疎外し、戦争責任の所在をうやむやにし戦前との連続性の上に高度成長を謳歌した戦後社会が全く正気ではないのだと。

 さて、翻って大岩為五郎である。彼は確かに戦後、彼の世代の多くの日本人と同様がむしゃらに働き、奥崎の憎むところである資本家の尖兵として高利貸しに手を染め地位を築いた。しかし四半世紀も経過した頃、彼はある種運命的に灰色に染まった自分の青春の、数少ないやさしい想い出の残り香を守るために立ちあがるのである(ちなみに梓みちよの看護婦は原爆症で死んだと伝えられる)。クライマックスでヤクザの一家に殴り込みをかけるとき為五郎がヒッピーの格好をしていくのも、元ネタがそうだとはいえ実に象徴的である。なぜなら前半部で為五郎が取り上げた家で踏ん張るミヤコ蝶々がフーテンの息子を指して「この子はな、お前みたいなあくどい奴が幅を利かせる世の中が嫌でヒッピーになったんじゃ、立派なもんじゃろ」と啖呵を切るからである。これまで日本社会に埋没してきた為五郎はここで無意識なアウトサイダーと化し社会悪と対峙するのだ。

 ラスト、結局ヤクザの親分と為五郎は手打ちの形になり、侠気を見せた為五郎は丸損、逮捕こそ免れるものの脱税容疑で会社は潰れ一文無しの状態になってしまう。「何、10万円から建てた会社だ、これだけあればまたやり直せるさ」と札束を懐に雑踏に消えてジ・エンドと相なるわけだが、さてもし彼が殴り込みで相手を傷つけ、ブタ箱入りとなったらどうなるか。私は奥崎謙三の後を追ったのではないかと思う。それまでの人生を顧みて腐敗した戦後社会の手先であったことを反省し、奥崎以上に「正気」になってしまうかもしれない。そして今度はパチンコでなく本物の銃器を持って一般参賀に向かってしまうかもしれない。

 もちろん、これは通俗娯楽映画なのでそんなことにはならないし、シリーズ化された続篇にも共通の設定はない。監督・脚本家が既に事件を起こしていた奥崎を参考にしてキャラクター設定をしたとも思えない。だが、それは裏返せば奥崎や為五郎の行動の裏に潜む情念が彼らと同世代の戦中派に口に出すまでもなく共有されていたということではないか。俺たちは戦後、がむしゃらに働いて自らや社会を省みる余裕などなかったが、あいつらは筋を通して大したものだ、という-。そうでなければ、『ゆきゆきて、神軍』で前科者の奥崎が地域社会に受け入れられていたり結婚式で挨拶までしたり、あるいは彼に暴力を振るわれたかつての戦友・上官が一種諦念のような表情を浮かべることの説明がつかないのである。

 上にも書いたが大正生まれの彼らは世代的に戦中派というカテゴリーに属する。生まれた時代がまずかったばかりにその青春が丸々、軍国主義に呑み込まれてしまった人々だ。私は昭和の文化に耽溺しているうち、不思議とこの世代の人々が何を考えて戦後を過ごしたのかに最も興味を抱くようになってきた。特に昭和40年代の学生運動やGSといった暴力的なまでの若者のエネルギーに本物の国家の暴力に曝された人々がどう反応したのか、自分が関知出来る範囲でこの場に記しておきたいという気持ちがある。それは自分の祖父母より年が上の人々への単純な興味であるかも知れないし、奥崎謙三を「ネタ」として冷笑するより能のない平成の人々(『神様の愛い奴』なるおぞましい映画を観よ)に対する意趣返しかもしれない。どうぞ物好きなやつだと思ってこれからもお付き合いいただければ幸いである。

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