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「差別の解消には対話が必要」というスタンスは、前進ではなく後退である

ハフポスで『「 #私たちのフェミニズム 」をみんなで語ろう。』という連載が始まり、その第一回が物議を醸した。
※マイルドに書いていますが、私は批判したい立場です。

第一回のゲストは、「2ちゃんねる」の生みの親、ひろゆき氏。(西村博之氏)
この記事自体への賛否は、ツイッター上だけでもたくさんたくさん読めるので、そちらを参照されたい。

この記事についての話題が活発な中、ハフポス日本版編集長によって投稿された、こちらの記事を読んだ。

『わかり合えない人の話を、あえて「聞く」ということ。 #表現のこれから
https://note.com/ryan_takeshita/n/n36118bead4fb

これは2019年12月5日に投稿されたものであり、今回の「#私たちのフェミニズム」について言及された記事ではない。
しかし、当該シリーズのライターである高崎順子さんが、シリーズの企画に関連するスタンスの話として紹介されていた。

https://twitter.com/misetemiso/status/1226592045386604544?s=20

そのため、今回の企画もこのようなスタンスで作られているのだろうという前提に立って考えた。
こうした姿勢で作られているメディアなのだと考えると、当該シリーズの1回目があのようなものであった理由が、わかるように思ったのだ。

この記事で私が述べたいのは主に2つ。

「可視化機能」を持つにあたっての姿勢と、「対話はときに後退を招く」ということだ。

『わかり合えない人の話を、あえて「聞く」ということ。 #表現のこれから 』(https://note.com/ryan_takeshita/n/n36118bead4fb)からの引用も交えつつ、書いていきたい。



1、「可視化機能」を働かせるにあたっての料理のまずさ

今後、性暴力に限らず、社会の問題を報じる上で、何がどこまで「知られているか」をも、メディアとして発信し、読者と一緒に考えたいと私は思っている。メディアは「伝達機能」だけでなく、「可視化機能」もあると考えるからだ。問題の全体像が分かるからこそ、解決策が生まれることもある。

この姿勢自体に反論はない。
ただ、この姿勢で臨んだ結果があの記事なのだとしたら、少し「不遜ではないか?」と思った。

何か物事を把握したいと考えた場合、一般的には、まずはその問題について詳しい人の言葉にあたろうとするのではないだろうか。
つまり今回の記事に関して言えば、「フェミニズム」を研究している人たちの声をまず聞くべきでは。

「専門家の声では、この問題にもともと興味のある人しか記事に触れてくれない」というのは、一旦は理解できる。
だから、「フェミニズム」から距離のあるひろゆき氏を、あえて起用したのだろう。氏が「ある程度フラットに語れる」人物である、と言う評価については、少なくとも「フェミニズム」に関しては全くもって賛同はしないが。

(つまりこの企画は、フェミニズムに元来興味のない人=少なくない場合でマジョリティ≒差別に加担する・できてしまう側がターゲットであって、被差別者である読者はもともとお呼びではなく、配慮や種々の想定は二の次となっているのだろう)

ターゲットから考えれば、この起用は間違いではないと私は考えている。ハフポスはWEBメディアなのだし、この注目の引き方は理解できる。
1回目のゲストが氏であると知ったとき、私は少し楽しみでもあったのだ。インタビュアーが高崎さんであることへの期待もあった。

結果、裏切られたような気持ちになってしまったのだが。

だれをゲストに呼び、どう料理して「伝達」しようと、それはそのメディア次第だ。つまりそのメディアがその素材をどう料理するのかが、とても重要なはずなのだ。

第一回目は、その料理が大失敗だったように思う。

たとえば、差別という社会的構造の問題についての話なのに、頭っから個々人の価値観や基準でどういうという語りにされていたり(「社会」と「個」の話をごっちゃにしている)(社会の問題を「自分ごととして考える」ことと、「個人のもの」として捉えてしまうことは別物)、インターネット上にかつては女性がほとんどいなかったことになっていたり、本当にいろいろあるのだが……

基本的には、料理に臨む際の姿勢の問題なのだろうと感じた。
なぜ、専門家・研究者の声を入れなかったのだろう。
ゲストはひろゆき氏でいい。でも、専門家の声を排除する必要はなかったのでは。
声ですらなくとも、視点をお借りして「これをこのまま流すのはリスクがある」とか、アドバイスもらうくらいの事はできなかったのだろうか。

それとも
「フェミニズム」くらい、専門家の声を聞かなくても全体像を理解し、解像度を上げて提示することができると思ったのだろうか。
保育や介護に関し、専門家の専門性の軽視はとてもよく見られるものだが、「フェミニズム」についても同様なのだろうか。
これが「女性学」と言われるものではなく、医学、法学、国際政治学、英文学などであっても、専門家の声などきかず発信してもいいと、今回同様に思われたのだろうか。

軽んじているのでは?
だから、この問題に当たっている専門家の声を聞くことすらしていないのでは?

専門家・研究者たちが日々、莫大な時間と資本をかけて向き合っているものについて、それを本業としているわけではないメディアが、同等の精度でその問題を把握できるとは思えない。
把握できないまま「可視化」されても、それは本当に全体像と言えるのか。
まして今回のゲストは、関心すらない門外漢である。

(それとも私が気付けなかっただけで、実は監修など入れているのでしょうか)

繰り返すが、ゲストが誰でも別にいいと、私は考えている。
ゲストの問題ではない。問題の軽視による料理の「雑さ」がまずいのだ。


2、「差別の解消には対話が必要」というスタンスは、前進ではなく後退である

こちらが本題なので、タイトルをそのまま持ってきた。

日常生活において「噛み合わない相手」と無理に話す必要はないし、ヘイトスピーチやハラスメントを繰り返す人と「対話をする義務」は誰にもない。むしろ怒る権利がある。無知は「免罪符」にならないし、仮に法律に抵触する場合は捜査機関などに通報するべきだと私は思う。

という文章があった。その少し後では、このように綴られている。

ただ、私はメディアの編集長としては「時には必要だ」と思っている。
意見が違う人にインタビューをするとき、どのような取材手法で相手に接しているのか、お伝えしたい。主に2種類ある。

私が気になったのは、「ヘイトスピーチやハラスメントを繰り返す人」にあたる部分が、後述では「意見が違う人」と言い換えて表現されている点だ

この変化から感じたのは、「ヘイトスピーチやハラスメントは、ただの意見や考え方の一形態と思われているのではないか」ということだった。
ひいては、女性差別もまた同様なのではないか、と。

ヘイトスピーチを”擁護”する思考のなかに、「ヘイトスピーチも表現の一種だ」というものがある。ヘイトスピーチもまた表現の自由で守られるべきである、と。

これは誤りだ。

ヘイトスピーチとは、差別の扇動である。分類としては、言論ではなく「暴力」にあたる。
表現の自由は、当然暴力を免罪しない。
ヘイトスピーチを守る「表現の自由」などないのだ。

これは「差別」においてもまた同様である。

差別の分類は「考え方」「価値観」などではない。
差別とは、社会が持つ構造的問題なのである。
「意見の違う人」という次元の話ではない。

『わかり合えない人の話を、あえて「聞く」ということ。 #表現のこれから 』は、『「 #私たちのフェミニズム 」をみんなで語ろう。』記事に関して書かれたものではない。
しかし、女性差別の問題もまた「自分とは違う意見」というような枠組みで捉えられているのではという危惧を抱くのに、ちょっと十分過ぎてしまった。

今回、『「 #私たちのフェミニズム 」をみんなで語ろう。』記事に関し、「多数派も味方につけないと女性差別は解消されない」という声を多くみた。

記事のスタンスや、『わかり合えない人の話を、あえて「聞く」ということ。 #表現のこれから 』で述べられてた”社会の課題の解像度を高め、微力ながらその解決に貢献していきたい。”という文章を見る限りでは、ハフポストもまた、「多数派も見方につけないと女性差別は解消されない」と考えているのではないかと感じた。

この姿勢を打ち出すことは誤りであると、私は考える。

この姿勢はつまり、「マイノリティはマジョリティを味方につけ、マジョリティの『理解」を得られなければ差別が解消されない」「マジョリティを味方につけられなかったマイノリティ(のやり方)に原因がある」という論を当然視し、力を与えてしまうものだ。

「被差別者たるマイノリティは、差別者側であるマジョリティに歩み寄る姿勢を見せろ」ということ。

「ここまで言ってない」という人もいるだろうし、「そうやってマジョリティ/マイノリティって線引きするからダメなんだ」「相互理解が必要だ」みたいなことを言いたい人もいるだろう。

正直、そういう人たちに対しては「だからダメなんだよ」という感情がわく。

差別は、マジョリティが抱える問題だ。
「なぜマジョリティは、傲慢にも、少数派を周縁化して憚らないのか」。それは本来的に、マジョリティが率先して、マイノリティがどうであれ勝手に(自発的に)考え、解消に向けて動いていくのが筋なのだ。

「言っても無理」「待っていても無理」というのはわかるのだが、まずこの前提がある、というところにスタート地点を合わせるべきだ。

「勝手に弱者(≒マイノリティ)って決めないで欲しい」
そういう声もあるだろう。
しかし、差別は構造の問題だ。
個々人がたとえどうであろうと、マジョリティ/マイノリティという線引きは、社会によってすでになされている。(だからそれを可視化しようつってんでしょ?)
すでにあるものを「ない」と言って目を逸らして何になるのか。

それに、安心して欲しい。
何かの軸でマイノリティだったり「弱者」だったりする人だって、また別の軸ではマジョリティだったり「強者」だったりするのだ。
誰だってそうだ。私だってそうだ。「社会」で生きている限り、その構造からは誰ひとり抜け出すことはできない。
だから<この問題に関しては>「弱者」であることから逃げなくていい。

それに、「社会的弱者」であることは、あなた個人が弱者であることを意味しない。
社会と個人は違うのだから、ごっちゃにせず、ちゃんと切り分けて考えたらいい。
「わたしは弱者じゃない」という人も、だから安心して大丈夫。

少しずれたので、話を戻す。

つまりこうした不均衡がある以上、意図があろうとなかろうと、どうしてもマイノリティがマジョリティの都合に合わせなければならないスタイルになってしまうのだ。
「マジョリティの理解を得よう」というスタイルは、そういう構図を生む。

それは端的に、後退である。

少しずつでも進歩していこう。現状を変えて行こう。
たとえそういう気持ちによるものであっても、残念ながら、これは後退だ。

「マイノリティはマジョリティに慮らないと差別が解消されない」という思考に(ますます)お墨付きを与えてしまうこと、私は恐ろしいと感じる。

ヘイトスピーチと似ている。
ヘイトスピーチに対して必要なのはまず口をつぐませることであって、「対話」により歩み寄って、「まず被差別者側がヘイターを理解しよう」なんてステップから始める必要はない。

「歴史戦」とも同じだ。
「あの虐殺は実は存在しなかったのかもしれない」なんて声と対話をする必要はない。
デマはデマだ。デマの流布を止めるために、「まずデマを撒き散らす人に歩み寄り、その思考を理解する」なんてスタートじゃなくていい。
議論や対話をすることで、議論や対話の余地・価値のある説なのだという箔が付いてしまう。議論や対話は、むしろしてしまうことがリスクになる。

「理解があろうとなかろうと、差別はしてはならない」
その揺るがしてはならないラインを、率先して譲るようなマネをするのは危険だ。
そうした「対話」は進歩ではない。そのラインを譲ってしまったら、後退なのである。

……という危機感が、ハフポスさんにはなかったように思われる。
もしくはごく薄かったか、こうしたリスク判定を甘読みしているか、リスクとして勘案する必要はないと思っているか。

そも「被差別者が」「ナチュラルに差別に加担できてしまうマジョリティを」理解しなければならない、という思考の方向性に、私は大きな疑問がある。

逆ではないか。

「差別に加担してしまう側の人間が」「差別は絶対にしてはいけないということ」「差別とはどういうものなのか」「それをしないためにはどうしたらいいのか」を、理解しなければならないのだ。

「まず理解が必要」といったとき、「マジョリティにマイノリティである自分たちのことを理解してもらおう」という話もよく出るが、ついでに語ってしまうと、これも私は誤りであると考えている。

マジョリティに必要なのはマイノリティの理解ではなく、自分が加担している差別についての理解だ。
差別とは何か。公平とはなにか。平等とは何か。

必要なのは「相互理解」ではないのだ。
マイノリティとマジョリティの「相互」ではない。「差別」というものの理解。それが社会的構造であるということへの理解。

自分のツイッターでも呟いたのだが、おそらく『「 #私たちのフェミニズム 」をみんなで語ろう。』の記事には、好意的な声も多いだろう。
もちろん批判的な声も山盛りあるのだろうが、総数で言うなら、好意的な声の方が多いと思う。

だってこの記事は、とてもやさしいのだ。
マジョリティにやさしい。
「特権」とも思わずに強者性を保持している人にやさしい。
「自分の力で男社会を生き抜いてきた」自負があり、そうでない人は基本的に努力か実力が足りないのだろうと思う人にやさしい。
そういう人たちの鬱憤を晴らし、溜飲を下げ、「わかる〜っ!」となれるワードに溢れていたと思う。

そしてそれは、上で推察した企画のターゲットを思えば、メディアのとる戦略としておそらく間違いではないのだろう。

ターゲットがそうなのだから、これはきっと仕方がないことだ。

……と、あきらめてしまうばかりでは残念だ。

企画はまだ1回目。
しかも、前編だ。

後編ではもしかしたら、ひろゆき氏のお母様が登場して、前編でのひろゆき氏の専業主婦観を「論破」してくれるかもしれない。
わからない。
可能性はまだある。
ある、と、信じたい。

けれどこうした差別に関する問題は、しんどい人から削ぎ落とされ、息の根を止められる。
問題に対する「冷静さ」や「粘り強さ」は、個人の資質だけで決まらない。
育ってきた環境や、今おかれている生活環境によるものも大きい。
差別で人は死ぬ。
本当に死ぬ。

だからどうか『「 #私たちのフェミニズム 」をみんなで語ろう。』企画も、どうか、どうか、もう少し「こちら」を向いてくれる事を願っている。

具体的には、
研究者の監修が入ったり、せめて事実誤認(を招くような表現)のないよう校閲が入ったり、編注もいっぱいいっぱい入ったりしますように。

私は後編も、第二回以降も読みます。
どうか素敵な企画に育ってくれますように。

以上、いち読者からでした。


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