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初めて観た現代演劇。『夢の旧作』感想

 数ヶ月前に、とある現代演劇を観た。映画やドラマのような台詞はなく、台本と称された詩をもとに抽象的な演劇が繰り広げられる、そういったものだった。この劇団は本編の映像を公開して下さっている(ありがたいことに!)。これまた公開されている台本と見比べて、数ヶ月ぶりに感想を述べていきたいと思う。

0幕

 白服の集団が吐息とともに画一的な動きを行う。なるほど現代における抑圧の象徴と思われる。ときどき嗚咽じみた呻き声が聞こえてくるのは、抑圧に耐えきれない悲鳴のようだ。

1幕 「前略 どこかとおくへ消えてしまった夢」

 「色彩が溶ける」詩の記述と色彩のない白い服の対比が際立っていた。奇妙なポーズに耐えきれないかのごとく胸を掻き毟る演者が印象に残る。

2幕「番号」

 画一的集団の謎めいた点呼とそれについて行けなくなった者に加えられる容赦ない暴行が、現代社会のプレッシャーを抉り出していた。子供の時に武道を嗜んでいたときの、声を只管張り上げていたときの記憶が思い起こされた。それは現代の問題とは別物なんだろうけど。
 個人に属する自我が集団に染め上げられる不気味さが、音量とテンポが上がっていく点呼で表現されている。個人の自由が制限される世界は集団の意思で実現される。しかし集団の意思とは如何に?そう考えさせられる。

3幕「DDT」

 前幕で排除され暴行を加えられた白服が叫ぶ!叫ぶ!叫ぶ!悲しみと怒りがこもったような演者の悲鳴と、壁に投影された悲観的な詩と紅い照明で強調される。

4幕「故郷」

 ここまでとは打って変わって、詩の文体がより口語的になる。忙しない日々と詩が表現し、それに反してゆっくりと演者たちが動いていく。足にしがみつかれて立っている演者のバランス感覚に感心してしまった。妙にムーディーなBGMで絡み合う演者が描かれるのは、人間の本能の現れの表現だろうか。
 時代が進むにつれて増えていく情報量に、人間の能力が釣り合うのか疑問を呈してこの詩は終わる。人間の進歩に疑問を呈しているのだ。私としては人間は進歩していると思う……

5幕「からあげ(平和)」

 お間抜けなBGMの鳴る中で、縁者が能天気にから揚げを食べる。言ってしまえばそれだけなのだが、この幕に独自性を付加するのは詩だ。平和とからあげを照らし合わせて、平和(そしてからあげ)が不変であることを疑わないことへの警鐘を鳴らすような内容である。時間が経過するにつれて、BGMに「番号」の点呼や生き物の鳴き声が混じって不穏さが増していく中、それとは関係なくからあげを美味しそうに食べる演者のギャップが不安感を増幅していく……今作では一番怖いぞ。

6幕「忘却」

 個人の出来事がただの数字として埋没し忘れられてゆく悲しみが描かれている。「番号」のメンバーがやってきて、点呼の代わりに机をハンマーで叩き始める。打音は毎日失われる命の声のようであり、日々繰り返される作業のようでもある。叩けなかった者がやはり集団から引き剥がされ、その無念を代弁すべく他のメンバーは激しく机を叩く。やがて指示をする者がいなくなったとき、机は再び自発的に叩かれ始める。フラストレーションの爆発のようだった。最後にメンバー達は思い思いの行動をして、ハンマーを捨ててステージから退場していく。現代人が最後にできる、破れかぶれの抵抗の表れかもしれなかった。

終幕「夢の旧作」

 詩のみ。夢と幸福についての詩が、戦場跡のようなステージに投影される。自分らしさを捨てたくても捨てられない矛盾の苦しみがそこにはある。必見!

おわり

 感想は以上である。詩の抽象的な表現が演劇で肉付けされる、というのは音楽と似ていると思えた。いつものように過ごしていれば絶対になかったインプットをこうして得られたのは貴重な経験だった。今後も、ほんの少しでも自分の琴線に引っかかったものがあれば媒体問わず経験していきたいと、本記事を執筆しながら改めて感じるのであった。

この演劇を作った団体「ぺぺぺの会」のURLはこちら!

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