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虚無を経由し自由へ~人の考え方は千差万別~



先週の休日に、車の保険の専任担当者さんと保険の更新手続きが必要だった為お会いしました。
保険内容の確認等をして、手続きし、近況報告等からその後、何故かどういった経緯だったか、話題はロシアのウクライナ侵攻の話しになりました。


その保険担当者さんにお世話になってから、たぶん15~6年以上経ちます。
その方は歴史的な話題、日本史、世界史、世界情勢の話し全般がとても好きな方でした。
近年はコロナ禍で、手続きも飲食なしで、短時間で済ませていましたが、今回は数年振りに喫茶店で、コーヒーを飲みながら行っていましたので、手続きの後しばらく話す事になりました。


私は、歴史関連は学生の頃から1番苦手な分野でしたし、この話題自体、内容的にも心情的にもとても重く難しい物と思い、聴き手に徹しました。
私のほうは、新聞やTVニュースで入手した位の情報しか持ち合わせてなかったですし、その見聞きした情報が本当に今起きている事で、正しい情報だろうと捉えていました。
でも、その担当者さんが語られた、侵攻についての(その方の捉え方での)事実や、背景や、当事国や近隣各国の内情、思惑、侵攻に到るまでの歴史的経緯、その他の報道について等々、詳しく語られた内容は、私は全く知らなかった事で、見聞きしていた情報とは全く違った内容でした。
私の捉え方がすぐにそちらへ傾くような事は無かったですが、聴いているうちに、話しには興味を持ちましたし、話しの内容(詳細は省きますが)には素直に驚きました。
そして、一般のマスメディアでは、なぜそういう報道はあまりされていないのだろう?と疑問に思いました。


担当者さんにそう言うと、敢えて語られない事で、語られない背後には、世界的な国家間の暗黙のルールのような物があったり、お金の流れがあったり、力関係とか、簡単に言うと、いろいろ表には出せない事があるから、...というような説明(実際にはもっと難しい言葉での説明)でした。
私には理解できない分野、違う世界の事がたくさんあるのだろう、想像もつかないけどそういう事が存在するのだろうと思いました。
何よりもこれ以上一般市民や子供達が巻き込まれて犠牲になってほしくない、1日も早く戦争が終わってほしい、と話して解散しました。



帰宅後、どうしてこういう話題になったんだろうと思いました。何からこの話題になったのか、覚えていませんでした。
私は世間一般、新聞やニュースで報道されている事を、本当に起きている事、正しい事実と捉えていたので、担当者さんの捉え方で、正しいと信じて話された内容との違いに戸惑いました。
世間一般のマスメディアで報道されている事と、担当者さんが話していた事は、1つの出来事に対して全く違う、180度違う見方でした。
だけれど、私から見たら、事象が大き過ぎる事ですし、私の知識不足ももちろんの事ですが、どちらが本当の事なのか、それは「わからない」と思いました。
突き詰めて調べていけば、どちらが正しいとか、何が正しいとか、辿り着くのかもしれませんが、例えば立場が違えば、見方も違い、調べ方が違ったり、答えも違い、全てが違ってくるような気がしました。


帰宅後もしばらく釈然としなくて、モヤモヤしていましたが、今日の事からの学びはなんだろう...と考えました。最近、起きた事から、すぐに学びはなんだろう...と考えてしまう事がクセになってしまっていました。
この日、私が学びだったと思ったのは、
何が正しいとか、間違いだとか、無いんだ...という事でした。
何が正しくて、何が間違っているかという事の、
結局そのどちらも、その人自身の考え方があって、それらが判定されて、決められているのだから、
何が正しくて、何が間違っているかなんて、
その人その人、個人個人によって違うんだ...と思いました。


今まで、私は、絶対に何がなんでも...という程の強さではないまでも、自分の考え方がある程度正しい、と思って生きてきました。
他人軸ながらも、自分の意思はあったほう、だったと、振り返ってそう思います。
日々暮らす中で、何かを選択する場面はたくさんあって、その選択は、迷いながらも自分自身がしていく物だから、自分の考え方や価値観、価値基準は、それぞれ1人1人が必要なものだと思います。
そして日々、自分は自分基準で、自分がその時に正しいと思う物事、感情を選択していると思いました。
きっと、誰も、自分は自分基準しかわからない。
他の人の基準を想像したり、推し測ってみる時があったとしても、他の人の基準は、自分とは違い、別のもの。
自分にとって正しいと思う事柄が、別の誰かにとっても正しいと思われるとは限らない。
逆も然り。
という事は、結局、何が正しいとか、正しくないかなんて、人それぞれだから、わからない。
ある1つの事象、事柄があって、それに対する見方、考え方、捉え方、解釈等は、1つではない。人の数だけ、たくさんあるんだ、と思いました。
だから、何が正しいとか、正しくないか、間違っているとか、間違っていないかなんて、答えが無いのでは...?と、思いました。
あるとしたら、自分基準の答えだけだと思いました。


その翌日、調べ物をしている時に、どなたかのblog記事で、人生に意味なんて無い、という内容の記事が目に入って来て読みました。
私は、自分の人生に起きた事の意味がきっとあると思っていましたし、その意味をいつか知りたいと思っていたので、その記事に触れた時は少なからずショックでした。でも、記事の内容は頷ける物でした。
私は、初めて、冷静に、もしかしたら、自分の人生に、意味は無いのかもしれない...と思いました。
今まで、いろんな事があった、辛く大変だと思いながら生きてきた人生、きっと何か意味があるに違いない、と、つい先日までそう思っていて、そういう思いに救われてきました。
でも、たぶん、きっと、ニュートラルに捉えられるようになったからか、人生に意味があるという考え方に執着していませんでした。
辛く大変な人生だったけれど、もしかしたら、それらに意味は無い...のかもしれない。ただ、そういう人生があっただけ...、なのかもしれないな...。と、静かにそうも思いました。複雑な心境でもありました。
でも、もしも人生に意味があって、私が知る必要があるのなら、いつか知れるかもしれない...、そうも思いました。
そして、それらは、わからない事、と思いました。


そんな事を考えながら、夕方日常の家事をしている時、フッ...と虚無感を感じました。私の頬を掠めたように一瞬でした。
いつもと変わらない日常の中に、一瞬の虚無...。
その瞬間、あっ... 虚無感だ... 来た... と思いました。
今まで、あまり感じて来なかった虚無感でした。
以前、虚無感を感じる事を恐れて、敢えて自分を忙しくしていた頃がありました。
電話越しの父親の言葉を聴いた後日、実家へ行こうとして、行けなかったあの頃。(note記事'私の過去'⑩)
その頃、両親への怒りや悲しみを生きていく原動力にしていた私だったので、会いに行き、万一にも関係が改善されてしまい、怒りや悲しみの気持ちが緩んでしまうと、生きていく原動力が弱まってしまうのではと、生きていく原動力が無くなってしまうのではと、そうしたら私は生きていけなくなるのでは、と、そういう恐れがありました。間違った思い込みの中にいました。
生きていく原動力を失った後には、きっと、大きな虚無感があるのではないか...と、当時、そう思い、恐れを感じていたと思います。当時は、その虚無感を感じる事を考えただけで、無理だと思っていました。
当時の私は、虚無感を感じたら、倒れ込んでしまい、その後何を支えに生きていけばいいのかわからないと思っていたと思います。迷い、戸惑いを感じ、立ち上がれず、その後生きていけなかったかもしれません。


ただ、今の私は、自分との向き合いをした後だったので、内面に変化が起きていました。
虚無感を感じても、ニュートラルな自分でいられました。冷静に、虚無感が来た...と、これが虚無感か...と俯瞰して眺める事が出来ました。...私...大丈夫みたい...と、そんな自分に少し、驚きました。
一瞬の虚しさを感じました。虚しさを、実感しました。
ただきっと、今回のそれは、長い間、縛られていた両親との関係性や気持ちから解放された、手放せた、その事から来た反動と余韻に感じました。
まだ慣れない世界にいきなり産み落とされたような解放の反動と、心身が自由になった余韻。
それから、人の考え方は千差万別で、何が正しく、何が間違っているかなんてわからないと、自分を含めてすべての事象をそうあてはめた時の拠り所の無さと、そして、もしかして自分の人生には意味が無いかもしれない...という揺らぎと空虚感、それらが混ざりあって来たように感じました。
その一瞬の虚しさが通り過ぎた後、私は不思議と自由へ繋がる感じがしました。
あぁ...ここを通過して...自由へと繋がって行くのだろうか...。頬を掠めた虚無感、その時に感じた感覚、感情、それらを経由して、まだ知り得ない心身の自由へと繋がるのだろうか...と思いました。
そして、今まで長年課せられていた心身の内側の制限から解放されて、これからの生き方は、すべて自分次第なんだと思いました。
すべて自分次第...。頭ではわかっているように思います。私は自分を自由に生きていい...。
ただ、'自分'という物がよくわからず、実は'自由'もよくわからず、まだ少々戸惑ってしまう私にとっては、きっとここから、なんだろうと思います。これから、どう生きて行くのか...。
きっと、これから、何度も虚無感も感じながら、今はまだ慣れていない自由を手探りで、確かめていくと思います。
心身が何にも縛られる事無く自由、という感覚を、自分で味わって行動してみて、慣れていく。
本来の'自分'、という物を日々確かめていく。
今まで私なりに精一杯生きてきた事から形作られた、私の本質の大切にしたい部分を守りながら、変わっていく部分は、言わば、自分の育て直し...だと思うので、大切に育て直して。これから、焦らず、自分のペースで、と思います。





お読み頂き、ありがとうございました。




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