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私の過去⑤~洗脳からの目覚め~



その後、両親の事は、一歩引いた視線で見るようになっていました。
そして、自分でなんとかするしかない、自分で生きていくしかない、と感じた気持ちは強くなり、
その気持ちは、自分の生活全般について、本当の自分はどう感じて、どう思っているのか。そして自分はどうしたいのか。その気持ちと向き合わせる事になりました。
私自身の本音は??
私自身、今までのいろんな事、どう感じて、どう行動してきた??
そう考えるようになりました。


考えの延長に、宗教の教義の1つ、輸血をしてはいけない、という教えが頭に浮かびました。
長年、私の中で、気づかないながら違和感になっていたからでしょうか。
この教義により、過去に宗教団体が世間から注目された事はよく知っていました。
私は、この事についても、一定の理解をして、正式な信者になったつもりでいましたが、
無自覚にいい子ちゃんとして、演じて信者になっていたので、
違和感に気づいて、教義と両親に対して疑問を抱くと、私の信仰心は脆く、疑問の気持ちが大きく膨らんでいきました。
そして、私が事故や病気になって、もしも輸血が必要になった場合、父親、母親はどうするんだろうか。
そう考えました。


以前の洗脳時の私は、もしも私に何か治療が必要になった時は、輸血の代替治療などでは両親は全力で助けようとしてくれるだろう。
でも、もしも代替治療ではなく、輸血が必要になった場合には、宗教上の理由ですからと、輸血拒否をされて、私は死んでしまうだろう。まぁ、それでも仕方がない...。それが、両親の私への愛情なんだろう。
そんなふうに、思っていました。今思えば、本当に有り得ない捉え方です。


洗脳は、ほぼ解けかけていました。


洗脳時の考えは、間違っている、と思えました。
万一、私に輸血が必要になった時、宗教上の理由と私の命を天秤にかけた時、父親、母親はきっと私の命を助けてはくれないだろう。
先日の、体調不良時の私への対応、両親の振る舞いなどを見て、冷静に、そう思いました。


両親は、私の命よりも、自分達が信じる宗教を選ぶだろう。私の命より、宗教教義への信仰心を選ぶだろう。
将来いつか来る楽園で、復活したら会えるから、と、そういう教義を言うだろう。
そして私は死んでしまう... ...。



それで、いいの...? ...本当に...?


...いいの...?? ...本当に... ??


おかしくない...???  ...

じゃあ、私の命って、なに ...?



なんのために、生まれてきたの ...??


自問自答を繰り返しました。


もしもの時、私、そんなふうに、死んでしまってもいいの??



いいの ... ???


... ... ...いやだ。 ... ... 私は、そんなのいやだ !
私は、万一にも、そんなふうに命を失いたくない。
私は、生きたい!
はっきりと、そう思いました。


私はそんな教義、ほかのすべての教義も、
もう信じられない。信じられない。
信じない。信じたくない。そう思いました。

全部、間違ってる。
信じてきたけど、間違ってるよね。
いや、信じてきたというより、


"信じさせられてきた..."
"信じているかのように行動させられてきた..."
"そうする事しか出来なかった..."

父親が入信したために、私も信じさせられ、
父親に逆らえないから、私も信じているかのような行いをし、
そう行動するしかなかった。


だけど、間違ってるよね。
間違ってる。... ...
両親も間違ってる。おかしい、おかしいもん。...


おかしい、間違っている、と感じる教義が、ほかにも浮かんできました。
気づいてしまいました。
私は、この宗教を信じて生きていく事は出来ない。
私の中で、すべてが、崩れていきました。



私、... どうする ... ... ???
戸惑いました。
でも、幼少期から長い間の、いろんな我慢、いろんな葛藤、いろんな事から考えた事、導き出された答えが、もう、ありました。


私、... どうする ... ... ???


...どうしたい ... ...??


...どうしたい ... ...??


私は...、この宗教、 ... もう ...辞める。


...辞める。



うん、辞める !



この答えに辿り着いた時、私は1人自分の部屋の学習机の椅子から思わず立ち上がりました。
足が震えていました。
足が震えて立っていられず、すぐ座りました。
身体全体が、震えていました。
自分の気持ちがはっきりわかり、洗脳からはっきりと解け、目が覚めた瞬間でした。
いい子ちゃんは崩れ去り、消えていました。



輸血禁止の教義については、
親が宗教上の理由から、子供への輸血拒否をして、子供の命を犠牲にする事は、親の愛情なんかじゃない。と、私は、そう思いました。
親の愛情と言うのならば、子供の命が危険にさらされた時、宗教上の理由とか、教義とか、そんなの一切もうどうでもいいから、子供を助けてください。使えるのなら、どうか私の血でも何でも使ってください。そういうものじゃないのかと。
当時高校生でしたが、もしも私が親だったら、そう言うだろうと思いました。
そして、子供の命よりも、宗教の教義などが優先されるなんて、絶対にあってはいけない。本当におかしい。絶対、ない。と、そういう思いが確立しました。


そして、私自身、万一の時には、輸血を受けて、可能ならば寿命までは生きたい。
私の(将来の)家族も、必要時には、必要な治療を受けて、自分の意思を持って生きてほしい。
人は命がある限り、可能な限り精一杯、命を大切にして生きていかないといけない、
人生は1度きりなんだから。と。
そして、自分の人生、
ほかの誰かではなく、自分で決めて、
未来じゃなくて今を、目の前の現実を、しっかり生きていかないといけないんだ。
「もう、後悔だけは、したくない。」
そう思いました。
もう、自分の内に違和感は感じませんでした。



高校3年生になり、自分の進路について決める時期になりました。
私は、この宗教から離れるのは、今しかない、このタイミングしかないと思いました。
私が体調不良の時にぐるぐる考え続けていた事の、まだ得ていない答えは、これから将来、自分自身で探していこうと思いました。



⑥へ続きます。




お読み頂き、ありがとうございました。
記事の内容はあくまで私自身が体験し、私自身が感じた主観です。


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