ぞうのハナコさん

ぞうのハナコさんが死んだ。

今年年長になる長女は、一年半くらい前から「死」について興味を持ち始めた。ある時、「お母さん、死んだらその後どうなるの?」と突然聞いてきたことがあった。私はハッとしたものの、何かの作業中だったので「地獄か天国に行くんじゃないかな。」と少し適当な返答をしてしまった。娘はその答えには納得できなかったらしく、帰宅した夫に改めて同じ問いを投げかけていた。夫は「お父さんは死んだことないから、わからないな〜。」と言ったもんだから、娘は「お母さんは死んでないのにわかっていた!」となり、なぜか私が「ごめんごめん、タハハハハ…」と謝るはめになってしまった。その話を「子供に聞かれて困ったあるある」としてママ友にしたところ、「そういう時は『諸説ありまして…』って言えばいいんだよ。」と教えられ、「なるほどな」と思った笑い話がある。

長女は、認知症を患っている私の祖母と一緒に生活するという経験をしていた。私の祖母は10年ほど前から認知症になり、長年、母がデイサービスなどを使いながら家で介護してきたのだが、今年春に老人ホームに入ることができた。長女が生まれた頃はまだ実家にいたので、実家に帰るたびに彼女はその姿を見てきた。

彼女は「みどりばぁば」と祖母のことを呼んでいた。年齢があがるにつれ「なんで、みどりばぁばはお話できないの?」などと質問するようになり、その姿を不思議に思うこともあったようだが、共に生活することで祖母の存在を彼女なりに咀嚼していた。それは、食事の介助やトイレの介助に始まり、母が祖母に対して時折イライラしてしまう姿も、祖母が母が見えなくなると不安になりオロオロしてしまう姿も、言葉にならない言葉で自分に話しかけてくれる祖母の姿も、全て見てきたからだと思う。祖母を朝、デイサービスの送迎車まで送る際には、長女も必ず同行し、祖母を見送ってきた。彼女の言動を見るに、「みどりばぁばは、周りの人が助けなければいけない家族の一員なんだ」「歳をうんととると、こういう姿になるのだ」と理解していたように思う。

家の近所で、朝夕老人を送迎しているバンなどを見ると「みどりばぁばと一緒だね。」と言い、それがデイサービスの車だときちんと理解していることがわかった。そんな具合に、彼女の言葉の端々にそれは現れた。彼女のそういう理解で一番ハッとした瞬間がある。ぞうのハナコさんのドキュメンタリーを一緒に見た時だ。

我が家は、行くところに困ったら井の頭動物園、という程、この施設にお世話になっているので、ハナコさんは子供たちにとって身近な生き物であった。2歳になる次女はその影響もあり、ぞうが大好きで「大きくなったらアンパンマンか、ぞうさんになる!」と言っているほどである。

まだ、ハナコさんが存命の時、NHK『ドキュメント72h』でハナコさんとその周りに集まる人々の定点観測をした回の放送があり、家族揃って見た。そのとき初めて、ハナコさんがいつ死んでもおかしくないほど歳をとっていることを知った。私が「ハナコさんはもうすぐ死んでしまうかもしれないんだって。」と言うと、長女は「みどりばぁばと同じということだね。」と言った。続けて「ハナコさんは、みどりばぁばみたいに、話せないのかもしれないね。」と言った。私はびっくりした。

私は彼女に祖母のことを説明する際、「死」なんていうワードを出したことがなかった。だから、彼女が祖母のことを「死に近い存在」として認識していたということに、大変驚いた。改めて考えると、「老い」=「死に近づくこと」と理解していたのは自然なことなのだが、私は、元気な祖母を知っている私は、祖母がどんどん老いていってるとは思っていたが、勿論いつかは死ぬとは思っているが、「死に近い存在」であるとは…思っていなかったのだ。私にとって祖母は、どれだけ認知症になって老いていっても、近い将来、この存在がなくなってしまうことに想像をはせることができる相手ではないのだ。この2つのことに同時に気づかされ、私はハッとした。

ぞうのハナコさんが死んだというニュースを家族皆で見た。夫は休みの日に、子供たちを動物園に連れて行った。沢山の献花が置かれた檻の前で、次女は「ハナコさんいない〜。ハナコさんに会いたいよ〜。」と泣いたそうだ。

その後、次女は時折思い出したように「ハナコさん、もういないね」「ハナコさん死んじゃったね」と言うようになった。それを聞いて長女は「死ぬってわかってる? もう目が覚めないってことだよ!」と、さも自分はわかっているとばかりに、どこかで聞いたのであろうことを教えていた。その姿を見て、あぁこの子は持続して「死」について考えていたのだなと思った。

だんご虫を採ったり、死んだ蜂をツンツンしてみたり、野良猫を追いかけたり、アリをつぶしてみたり、好きかどうかは別として、虫や動物などにどうしても魅かれてしまう子供たちを見ていると、「生命」のもつ吸引力のようなものに改めて気づかされる。色々な「生」に触れ、触発されている長女にとって、祖母もまた「生」であった。

「生」に触れるということは、「死」にも触れるということだ。

そんな子供たちを見ていると、「生」に触れるということは、この後に続く「性教育」とか「道徳」などの始点なのではないかと、そんな風に思うようになった。

…とは思っていながらも、だんご虫や猫を「家で飼ってもいいよ」と言えるほど、心が広くない私であった。

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