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出逢いは世界を広げてくれた。

短大を卒業して数年、当時所属していたサークルの延長で新たにグループを立ち上げ活動を行っていた私たちは、卒業後も練習場所として短大に集まることが日常だった。練習が主というより、ただみんなで過ごした楽しい時間を続けていたかった。多分、それだけのこと。

そんなある日、メンバーのひとりKから「紹介したい人がいる」と話を受け、私たちはMに出逢う。彼、彼女、…つまりMは、その当時まだ私たちの中でも当たり前ではなかった≪性同一性障害≫を持つ人物だった。

M本人と出逢う前にKからは少しだけ話を聞いていた。驚かせないように、戸惑わないように、引かれないように、でも一番は…M本人が傷つかないように、だったんじゃないかな、と思う。私たちの反応次第ではこの出逢いが消えてしまうことだってあったんだろう。結果的にMとは、その後十数年、今も付き合いを持つことになる。

その当時、私がたまたま見て気になっていたドラマはまさに主人公が≪性同一性障害≫で悩み、ぶつかり、成長するというどんぴしゃなもので、こういう人もいるのか、一般的に言われる人達とまた違うんだな、大変だな、なんて…画面の中で奮闘する主人公を見ながら、自分とは別世界を生き、それを覗き見ているような、まだ少し他人事の感覚だった。
でも実際にMと出逢い、これまでの経験や話、対応、またその先の繋がり、周りとの関係性を通して具体的に考えられるようになった。これは本当に大きいと思うし、私を含め、メンバーの持つ世界も広がったと思う。

多様性についてはいろいろ言われていて、その当時と比べると年齢が下がると共にその入口の広さも変わっているように思う。人との関りは性別でなくその人個人、そう気づけた人の世界は広く大きい。この差はあるんじゃないかな。
もちろん、理解はしているつもりでもやっぱり受け入れられない、苦手だという意識があってもそれは仕方のないことなのかもしれない。性別うんぬんに限らず、ダメなものはダメなことだってある。それもまたその人個人の考えた結果なのだとしたら、否定はできない。でも、頭ごなしの否定や拒否を見聞きしているのはやっぱり少し悲しくもある。同時に、とてももったいないな、とも思う。

いつの時代も何が正しいのかなんてどこにもないんだろう。祖父母や親世代が受け入れられない世界を孫、ひ孫はすんなりと受け入れ世界を変えている。逆に、孫、ひ孫が新しい、エモいと騒ぐレトロな世界は、祖父母、親世代が作り、生きてきた世界だ。結局地球は丸い。その都度、肯定、否定を繰り返しながら巡っていくんだと思う。そうしてまた「あの時代は…」なんて語り継がれていくんだ。

Mと出逢ったこと、時に「分からないから聞く」と興味や好奇心を持って聞いたことも嫌な顔ひとつせずいろいろと話し、聞かせてくれたこと。失礼で強引なこともあったかもしれないけれど、そのおかげで私の中でどんどん消化され、当たり前になり、世界は広がった。とても感謝している。

「性別は付録みたいなもん」そう言うと妙な顔をした人もいたけれど、それもそれで構わない。ただそこだけに囚われていたくないし、私はこれからもいろいろな人間付き合いをしていきたい。ただ、関わり過ぎると疲れてしまうので、そこは私の心と相談しながら。

これからもあらゆる世界を広げていけるといいな。それに続く子ども達も、あれこれと決めつけず、いろんな人と出会って学び、世界を広げて欲しいと思う。その橋渡しを親として少しでも出来れば嬉しい。

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