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『8月32日』

 僕の名前は吉川翔太。公立小学校に通う小学4年生だ。
 今日は夏休み最後の8月31日。僕は大変困っている。もう絶望的なまでに困っている。
 なにに困っているかと言えば、当然夏休みの宿題だ。夏休みの自由研究は全然できていないし、国語算数理科社会の問題集も1ページもやっていない。
 こんな状況で徹夜して宿題を終えることができるのだろうかと思うのだが、お父さんとお母さんに手伝ってもらっても、100%無理だと思う。
 ここまで書けばわかってもらえると思うのだけど、つまり、絶望的な状況だ。
 こうなったら、無駄な努力をするよりは、いっさい宿題に手をつけないか、それとも少しでもやって頑張ったアピールをするべきか、僕は決めあぐねている。
 でも、宿題やるのは面倒くさいし、ちょっとやったところで頑張ったアピールは無理なので、せめて半分は終わらせないと、アピールは無理だろう。
 だとしたら、やっぱりなにもやらないほうがましなのか。

 そうこうしているうちに、とうとう夕方になってしまった。
 こうなったら、なにもせずに明日学校で開き直るしかない。誠意をもって謝れば、先生もそこまで叱らないかもしれない。
 でも同級生の「あいつ宿題やってないのかよ」っていう視線が刺さってくるだろうな。「俺たちは頑張ってやったのに、あいつズルしやがった」とか思われでもしたら、クラスの暴れん坊リーダーの竹本君に目をつけられてしまうかもしれない。
 先生に叱られるのも憂鬱だし、同級生に白い目で見られるのも嫌だし、お母さんに怒られるのも嫌だし……あれ? そういえば、いつもは宿題をしないと、夏休みが終わりに近づくにつれて、「宿題はやったの?」ってせっついてくるお母さんが、今年に限ってはなにも言ってこない。
 昨日もお父さんと大喧嘩していたから、僕の宿題どころではないかもしれない。
 だとしたら、先生、同級生、お母さんのうち、先生から叱られることと同級生から一時的に白眼視されることだけを我慢すれば、乗り切れるかもしれない。
 そうは言っても、今日眠れば明日は9月1日。学校に行かなくてはいけない。さすがに宿題を全然やっていないままで学校に行くのは憂鬱極まりない。
 こんなことなら、夏休みの始まりに少しでも宿題をやっておけばよかった。そうすれば、毎日少しずつ宿題をやる習慣づけができたのに。
 もう仕方がない。今日は明日に備えて早く寝よう。眠っているあいだだけは嫌なことを全部忘れられるから。
 ああ、明日が永久に来なければいいのに……。

 朝日があまりに眩しすぎて、僕は目が覚めた。
 しまった! 寝坊した。
 時計を見ると、8:30だ。完全に遅刻じゃないか。
 カレンダーを見ると……。
 あれ? カレンダーがない。どうしたのかな?
 それにいつもは目を三角にして起こしに来るお母さんが、なにも言ってこない。おかしいぞ。
 僕は眠い目をこすりながら、ダイニングに向かった。
「あら、翔太、おはよう」
 全然怒っていない。どうしたんだ?
「ごめん。寝坊して」
 僕が謝ると、お母さんはからからと笑った。
「まあ、休日だからね。仕方がないわよ」
 ん? 休日だって。今日は9月1日じゃないのか。
 僕は恐る恐るお母さんに訊ねてみた。
「き、今日って、休日だったっけ?」
「ええ、そうよ」
 お母さんはこともなげに答えたあと、僕の顔を覗き込んだ。
「どうしたの、翔太。まだ寝ぼけてるの?」
 たしかに寝坊はしたけど、今日が休日だと聞かされ、目はすっかり覚めている。
 いつもはダイニングの壁にかかっているカレンダーもなくなっている。
「ちなみに今日って、何日なの?」
「8月32日よ。決まってるじゃない」
 なんだって? 8月32日だって?
「僕をからかってるの?」
 お母さんは怪訝な表情をした。
「なんであなたをからかわなくちゃいけないのよ」
「8月って31日で終わりだよ。今日は9月じゃないか」
 僕がそう言った瞬間、お母さんは顔をゆがめて心配そうな顔をした。
「どうしたの翔太。本当に変な子。9月なんてあるわけないじゃない。今年は8月32日まであるわよ」
 お母さんはおかしくなっちゃったのかな。そう言えば、お父さんがいない。
「お父さんは?」
「昨日も言ったじゃない。長期出張に出かけたって」
「そんなこと言ってたっけ?」
 お母さんはかぶりを振った。
「今日はあなた本当に変ね。9月とか言ったり、お父さんの出張のことを忘れちゃったり……」
 僕はわけがわからなくなった。
 僕が頭を抱えていると、お母さんは僕の顔をまじまじと見つめた。
「翔太、あなた本当にどうかしたの?」
「どうかって?」
「だって9月なんてあるわけないじゃない」
 僕は驚いた。
「9月がない?」
「当たり前でしょ。1年は8月までって決まってるじゃない」
 僕は頭がおかしくなりそうになった。
「1年は8月まで? そんな馬鹿な」
「馬鹿なのはあなたのほう。寝ぼけるのもいい加減にして」
「じゃあ、8月32日の次は?」
 お母さんは困ったように首をひねった。
「8月33日に決まってるじゃない」
「じゃあ、その次は8月34日なの?」
 お母さんは吐息をついた。
「当然よ」
「じゃあ、8月35日、8月36日、8月37日……って、ずっと続くの?」
「そこまで続けばいいけどね」
「どういう意味?」
「そういう意味。そんなことより、翔太、今日はお母さんと旅行に出かけない? もうホテルは予約してあるの。あなたの好きな海の見えるO市のホテルよ」
 ここで僕は考えた。どうやらお母さんは宿題をやっていない僕に罰を与えようとして突拍子のないことを言っているのではなさそうだ。お母さんの表情は、どちらかというと、いつもより優しく見える。
 それにお母さんは僕のことを本当に心配しているようだ。だとしたら、お母さんがおかしなことを言っているのではなく、本当に8月はずっと続くようになったのかもしれない。だからダイニングやリビングにはカレンダーがかかっていないのだ。
「もしかして8月がずっと続くって、法律で決まったの?」
 お母さんは僕の頭を撫でた。
「そうよ。ずっと前に翔太には言ったでしょ」
 僕はやっと合点がいった。つまり、今年からは8月は長くなったのだ。だから今日は8月32日で、夏休みはまだ続いているのだ。
 お母さんは僕の顔を覗き込んだ。
「どうするの? 旅行に行くの、行かないの?」
「もちろん行くよ。でもお父さんは出張なんだよね?」
「そう。だから今回は二人で旅行するの」
「車は? お母さん運転できたっけ?」
「いちおう免許は持ってるわよ。お父さん程運転は上手じゃないけどね。そんなに遠い場所じゃないから、車で行きましょ」
「うん。今から旅行の準備をしてくる」
 僕はいそいそと部屋に向かった。

 部屋に戻ってから着替えながら僕は少し考えた。
 どうやら今年は8月は31日で終わりじゃないらしい。お母さんが言うには法律でそう決まったそうだ。
 休みには限りがあるから、いつかは宿題を忘れたことを言わないといけないときが来るかもしれないけど、お母さんの話によるとしばらくは大丈夫みたいだ。
 ただ「そこまで続けばいいけどね」というお母さんの言葉は少し気になった。
 でもだったらお母さんが僕を旅行に誘う理由があるわけない。つまりはしばらくは夏休みってことなんだ。
 着替えを済まして、リビングに行くと、お母さんは旅の準備を終えて待っていた。
「さあ、行くわよ」
 僕らはいつもお父さんが運転する車に乗りこんだ。
「今日はお母さんの運転よ。お父さんほどうまくないけど我慢してね」
 だんだん僕はワクワクしてきた。お父さんがいないとはいえ、僕の大好きな旅行だ。しかも行先は海岸沿いのOホテル。僕の一番好きなところだ。
 後部座席に目をやったとき、大きな荷物があることに気づいた。
「あの荷物はなに?」
 お母さんは一瞬戸惑ったような表情をしたあと、優しく微笑んだ。
「今回の旅行の着替えとか荷物よ」
「でももう一つキャリーバッグを持っていってるよね。2つも荷物があるの?」
「そうよ。今回はいろいろ準備していくのよ」
「へえ」
 何日旅行に行くんだろうなあと思った。

 車が走り出してから、僕はあることに気づいた。
「ねえ、カーナビはつけないの?」
「それがね、いつもはお父さんがやってるから、どうやって電源を入れたらいいのかがわからないの。でも行き先はいつもの場所だから、頭にバッチリ入ってるわよ」
「ちぇっ、テレビで面白い番組やってないか見たかったのに」

 お母さんの運転はお父さんほどうまくなかったけど、なんとかO市までたどり着くことができた。9月1日……あ、8月32日か。32日だから海には入れないけど、天気が良くてとても気持ちがいい。
 ホテルにチェックインして、僕とお母さんは海に出かけた。まだ休日なのに、海岸はなぜか人がまばらだった。
「まだ休日なのに、人が少ないよね」
「もうお盆を過ぎたから、海水浴シーズンは終わったんじゃない」
「たしかにそうだね」
 海に入れないとはいえ、裸足で波打ち際を歩くと、ひんやりしてとても気持ちがいい。
 僕はお母さんと鬼ごっこしたり、貝拾いをしたりして、宿題のことも忘れて楽しんだ。
 夕方になって、僕らはへとへとになってホテルに戻った。お母さんがコンビニで買ってきてくれた弁当を二人で食べた。僕も着いていくって言ったけど、「そのあいだにお風呂に入っていなさい」と言われて、部屋の中で待たされた。
 コンビニ弁当は、面倒くさがりのお母さんがわざわざ容器を準備していた。「弁当のパックじゃ味気ないでしょ」と。
「お腹が空いてるから、買ったそのままでいいよ」
 そう言ってコンビニの袋を漁ろうとしたけど、半ば強引に取り上げられ、容器に盛りつけてくれた。
 弁当を食べたら、僕は昼間の疲れもあってか、すぐに眠りについた。

 翌朝8月33日の朝、僕は物音に気がついて目が覚めた。
 半身を起こして部屋を見渡すと、お母さんの姿はない。シャワー室からシャワーの出る音がしているので、たぶんシャワーを浴びているのだろう。
 昨日は本当に楽しかった。あんなになにも考えずに遊んだのも久しぶりだし、いつもは「もう疲れちゃった」と言って部屋に帰りたがるお母さんも、夕方まで僕にずっと付き合ってくれた。
 正直言って、今までの旅行で一番楽しかったかもしれない。
 夏休みが終わらないってのは、実に幸せなことだ。毎日毎日お母さんといつまでも遊んでいたい。学校なんて、行きたくもない。
 喜びに浸っているうちに、僕は突然あることを思い出した。敬介叔父さんが去年の夏話してくれたことだ。敬介叔父さんはお母さんの弟で、東京の大学の大学院まで行って、量子力学なんてよくわからないものを研究していた。
 今は就職しているけど、無類のゲーム好きで、僕とゲームの話で盛り上がった。
 その敬介叔父さんが以前話していてくれたことがある。
「なあ、翔太。この世の中が実は仮想現実だって話を聞いたことがあるか?」
 聞きなれない言葉に、僕の頭の中には「?」マークが飛び交った。
「カソウゲンジツ?」
「そうだ。Virtual Reality(バーチャルリアリティ)って言葉を聞いたことがあるよな?」
「うん」
「コンピューターの中に作られた仮想的な世界を、あたかも現実のように体験させる技術のことなんだけどな。マトリックスって映画を観たことがあるか?」
「うん、それならアマプラで観たよ。面白かった」
「実はこの世の出来事はマトリックスと同じ世界ではないかって、アメリカの科学者や大富豪たちが言っているんだ。そしてその可能性は50%とも言われている」
「どういうこと?」
「俺や翔太もしょせんはだれかの作ったプログラムの上で動作してるってことだよ」
「まさか」
「仮想現実である根拠も上げられているんだ。例えば、量子もつれとか、光より速い速度はないとか、時間が伸び縮みするだとか、いろいろと根拠はあるんだ」
 僕はぞっとした。
「怖い話だね」
 敬介叔父さんはうすく笑った。
「昔『ぼくのなつやすみ』ってゲームがあったんだ。叔父さんも子供の頃よくやったもんだけど、ゲームクリア後、ある操作を行うことで、ボク以外の人間が消滅し、様々な怪奇現象が発生する『8月32日』がプレイできるというバグがあったんだ。ゲーム史上もっとも怖いバグのひとつとして、ゲームファンのあいだではしばしば話題となっていた話なんだけど、あのゲームの主人公が、実は翔太だったとしたらどうなると思う?」
「ありえない8月32日を過ごすことができるね」
「そうだ。そして、8月33日、34日……とずっと休むことができると思うだろう?」
「うん」
「ところがもともとプログラムの制作者は8月32日以降の日付なんて想定してプログラムを作ってないから、動作がどうなるか想定不能になる。そしてたいていの場合は8月36日くらいまでに、プログラムがエラーで終わってしまう」
「それってどういうこと?」
「もし翔太が『ぼくのなつやすみ』の主人公だとしたら、そこで世界が終わってしまう、ってことだよ」
「死ぬ、ってこと?」
「死ぬだけじゃない。この世の中もすべて消滅してしまうってことだよ」
 背筋にひやりと冷たいものが走った。
「じゃあ、もしこの世の中が仮想現実だったとしたら、この世の中は作った人のバグがあったら、消滅してしまう可能性があるってこと?」
「そういうことさ。だから、いつもと違っておかしなことがあったら、それはこの世の中を作ったプログラマのバグかもしれないってことさ」
 敬介叔父さんはそう言って、いたずらっぽく笑った。

 そのときはピンと来なかったけど、いまがまさにそのいつもと違って8月32日、今日は8月33日ってとじゃないか。もし僕が「ぼくのなつやすみ」の登場人物だったとしたら、せいぜい8月36日までの命ってこと?
 いろいろ考えていたら、僕はだんだん不安になってきた。
 もしかしたら、敬介叔父さんの言う通り、僕は仮想空間の人間で、だれかの作ったプログラムの上で動作してるんじゃないかって思えてきた。
 だとしたら、なんらかの操作ミスで、プログラムのバグを引き起こした。そして8月31日の次の日が9月31日ではなく、8月32日になったんじゃないかって。
 そうして敬介叔父さんの言う通り、プログラムの想定外の処理なので、なにが起こるかわからないって。なにか起こったときが、世界の終わりじゃないかって。
 ひょっとして、僕が夏休みの宿題をやらなかったから、こんな特殊なことが起こってしまったのかな。だとしたら、誤動作を生んだのは僕の動きだったって考えられはしないだろうか?
 僕は激しくかぶりを振った。
 そんなことがあるわけがない。僕が仮想空間に生きているなんて、そんなのは突拍子もない想像に決まっている。
 不安になった僕はテレビをつけて見ることにした。
 だけど、リモコンがない。
 しばらくリモコンのありかを探してみたけど、テレビのリモコンが見つからない。
 おかしいなあ。部屋にテレビはあるのにリモコンが見つからない。
 それからしばらくリモコンを探してみたけど、リモコンはどこにもなかった。
「どうしたの?」
 気づくと、お母さんがシャワーからあがっていた。
「テレビのリモコンがなくてね、探してたの」
「たしかにリモコンが見つからないわね。でも、なんでテレビが見たいの?」
 僕は敬介叔父さんの話をしようと思ったけど、なんだか相手にしてもらえなさそうで、口ごもってしまった。
「いいじゃない、テレビなんて見なくても。いまは旅行中でしょ。そんなこと忘れて今日も遊びに行きましょう」
「今日も遊びに行くの?」
「そうよ。今日は山のほうに行こうと思ってね」
「なんか夏休みの楽しいメニューが満載って感じだね」
「そうよ。今日はせっかくの夏休みの旅行だからね」
 でもどうしても気になることをお母さんに聞いてみた。
「ねえ、僕、まったく宿題ができてないんだけど、大丈夫かなあ」
 お母さんは微笑んだ。
「旅行のときなんだから、宿題なんてしなくていいわよ」
 少し違和感を覚えた。いつもガミガミ言うお母さんが、どうしてそんなことを言うんだろう。
 お母さんが僕の背中を勢いよくたたいた。
「さ、早く準備をして。今日は朝早く出て、A山に行わよ」
 隣の県にそびえたつA山は僕が小学校に入学したときに、お父さんとお母さんが連れて行ってくれた山だ。道が曲がりくねっていて車酔いしそうだけど、山頂付近に草原が開けていて、とてもきれいな場所だ。
「わかった。すぐ準備する」
 僕が準備を終わって部屋を出るときに、ユニットバスの洗面台にテレビのリモコンがあることに気づいた。
「お母さん、あんな場所にリモコンがあるよ」
「あれ? どうしてあんなところに置いたのかしら。朝起きてすぐシャワーを浴びちゃったから、寝ぼけてたのかなあ」
 お母さんはそう言ったけど、なんとなく空々しい言い訳のような気がした。もしかして僕にテレビを見せたくないんじゃ……。
「行くわよ」
 お母さんは半ば強引に僕の手を引っ張った。
「フロントで精算してるから、あなたは早く車に乗ってなさい」
 お母さんはそう言って僕に車のキーを渡した。それから追い立てるように、僕を車に乗せた。
 しばらくしてお母さんは戻ってきた。
「ねえ、お母さ……」
 僕が訊ねようとしたら、お母さんは僕を押しとどめた。
「さあ、目的地までちょっと遠いから、急いで行くわよ」

 車を運転し始めてからも、お母さんはいつもと変わりないように思えた。
 でもテレビのリモコンを隠したり、謎めいたことを言ったり、いつものお母さんと違うような気がする。
 横目で運転しているお母さんの表情を窺うけど、別段変わった様子はないように思える。
 でもじっと観察していると、どことなく張りつめた空気が漂ってくるような気がする。
 僕は夏休みの8月31日までに、なにがあったのかを考えてみた。

 たしか8月30日の夜、お父さんとお母さんは大喧嘩していた。原因はよくわからなかったけど、僕のことだって言うのはわかった。
「おまえの育て方が悪いからこうなったんだ」
 とお父さんのことが聞こえたり、
「あなただって、なにもしてくれなかったじゃないの」
 とお母さんの声が聞こえたりした。
 ところが僕がリビングに行って、「どうしたの?」って聞くと、二人ともあわてて取り繕うように「なんでもない」って言っていた。
 お母さんがいろいろな物を投げつけたようで、部屋の中は滅茶苦茶になっていた。あそこまで滅茶苦茶にしておいて、なにもないわけがないとは思ったけど、僕が原因のようだったから、なにも言えなかった。
 そして8月31日を迎えた。以来お父さんの姿を見ていない。
 翌日になり、お母さんが9月1日ではなく8月32日だと言った。僕は永久に9月が来てほしくなかったから嬉しかったけど、実際に8月32日があるという話をお母さん以外から聞いていない。
 なぜか家のカレンダーもなくなっていたし、いつもはつけるカーナビもあえて消している。コンビニ弁当に書いてある消費期限の日付表示もお母さんが全部どこかに捨てている。テレビで確認しようとしても、お母さんは明らかにリモコンを隠した。
 もしかしたらお母さんは僕に本当の日付を知らせたくないのかもしれない。だとしたらなぜお母さんは僕に日付を知らせたくないのか?
 そこまで考えて、僕はある考えが頭に浮かび、ぞっとした。
 お母さんは夫婦喧嘩の果てに、お父さんを殺したんじゃないかって。
 そして、僕と無理心中するつもりで、最後の旅行に出かけたんじゃないかって。
 後ろの座席に置いてある大型のキャリーバッグ、あの中にはお父さんのバラバラ死体が入っているんじゃないだろうか。
 そう思って考えてみたら、後部座席からそこはかとなく生臭い臭いが漂っているような気がする。これが血の臭いってやつなんだろうか。
 横目でお母さんをちらりと見たら、もうなにもごまかそうとはしていないのか、怖い表情をして運転している。その瞳の色は明らかに、いつものお母さんとは違っていた。
 やっぱりお母さんはお父さんを殺していたんだ。
「さあ、着いたわよ」
 車を停め、お母さんが抑揚のない声でそう言った。
 いつしか車は山の上の草原ではなく、森の奥深くに入っていた。周りにはだれも人がいない。
「この先にいい場所があるの。ここからは少し歩くわよ」
 お母さんはっきりと僕に命令するような言い方で言った。その声は僕に対する死刑宣告のように思えた。
 僕はもう逃げられないことを悟った。
「私はこの先の道が間違いないかどうか、少し探索してくるから、しばらくここで待ってて」
 お母さんはそう言って車を降りた。それから大きいキャリーバッグを持って、山の奥へと歩いて行った。
 きっとこんな場所で逃げ出しても、僕が山に遭難することを、お母さんは知っているのだろう。それにあんな距離、歩いて帰ることなんかできない。
 お母さんはお父さんの死体を埋める穴を掘っているのだろう。そしてそのあと、僕も殺される。
 いま僕はこれまでのいきさつを日記に書いている。この日記をだれかが見つけてくれたらいいのだけれど、こんな山奥、だれも来やしないないだろうな。
 お母さんは僕を殺して、そのあとで自殺するつもりなんだ。
 ああ、僕は死にたくない。でももう遅い。
 もっと早くにお母さんの計画に気づいていたらと臍を噛んだ。どうして8月32日があるなんて信じてしまったのか。僕は自分の愚かさを呪った。
 お母さんがこちらに向かって歩いてきた。どこかうつろな表情でいて、確固たる殺意の意志を持っているようでもある。いつもは化粧を十分にするお母さんが化粧もせず、髪の毛をボサボサに振り乱していて、その姿は妖怪の山姥のように僕には思えた。
 蛇に睨まれた蛙のように体が動かない。もうだめだ。

[9月2日 吉川翔太]

「残念ですが、旦那様は先ほど病院で息を引き取りました」
 鳥飼という刑事が静かに言った。
「そうですか」
 私は病院のベッドに寝たまま、かすれた声で答えた。
「旦那様と奥様が寝ているところに、旦那様を出刃包丁で何度も刺したみたいですね」
「途中で起きましたから、翔太がやったところは私も見ています」
 鳥飼刑事がかすかに頷いてから、訊ねた。
「いつから翔太君が人とは違った性質を持っていることに気づいていましたか?」
 あの子には思いやりや愛情という感情が微塵もなかった。自己中心的で善悪の区別がまったくつかない、いわゆるサイコパスだとわかったのは、翔太がまだ小さいころだった。
「物心がつく頃です。4歳になった翔太がハサミを持って夫を刺そうとしたあと、『僕はいつかお父さんとお母さんを殺したいんだ』とニコニコ笑いながら言ったときに、はっきりと他の子とは違うことを感じました」
「どうして翔太君をそのままにしておいたんですか?」
「あの子はとてもIQの高い子でした。4歳の時点でもう小学6年生の算数の問題を解けるようになっていました。ですから、話せばいつの日かわかってくれると思って……」
 私は唇をかんだ。
「近所でも、近寄ると危険な子供と言われて、有名だったみたいですね」
「なんとか治してやろうと苦労したのですけど……」
 鳥飼刑事は大きく息を吐いた。
「どうやら翔太君は『8月32日』という日記を書いて、自分の無罪を証明するつもりだったみたいですね。あなたを殺してからバラバラにして、キャリーバッグに詰め、それをA山とはまったく違うH山の山奥に持っていくつもりだったと、さきほど自白……」
 そこまで言って鳥飼刑事は首を振った。
「いや、あれは自白ってもんじゃない。得意気に話していたというのが正確な表現でしょう」
 私は目を伏せた。あのまま私も殺されるところだったのか。
 鳥飼刑事が上目遣いに私の顔を窺った。
「それにしても、どうして翔太君の殺意に気づいたんです?」
「あの子の様子がいつもと違っていたからです。『もうずっと夏休みだったらいいのに』とも呟いていました。その様子は明らかに私たちに殺意を持っていたと確信しました。それで胸騒ぎがして、その夜は眠りが浅かったんです」
「なるほど。だから旦那さんが刺されたときに、すぐに気づくことができた、と」
「はい」
「そのあとは家から逃げ出して、110番をしたわけですね」
「はい」
「翔太君は旦那様の死体のそばにじっと立っていて、ニコニコ笑って、『あーあ、計画失敗しちゃったー。日記まで作ったのにー』と得意そうに何度も言っていたそうです。さすがに現場に駆けつけた警官もぞっとしたと話していました」
 あの子は昔からそういう恐ろしい気質を持ったモンスターだったのだ。
「9歳とはいえ、さすがに父親を殺して、無罪放免というわけにはいきませんから、翔太君は警察で保護してから、矯正施設に入ってもらうことになります。詳しい話は奥様が少し落ち着いてからにでも」
 そう言い残すと、鳥飼刑事は病室を出ていった。

 刑事が去ったあと、私はひそかにほくそ笑んだ。
 うまくいった。
 これで血のつながっていない翔太と、DVを繰り返す夫の両方を同時に始末できた。
 翔太は私の子供ではない。翔太が1歳の時に、夫の浩一と元妻は離婚した。
 そして翌年、私は浩一と出会って、結婚を前提に付き合うようになった。
「あいつ(元妻)が、翔太が怖いって言って、逃げ出したんだよ。まだ1歳の生まれたばかりの子供が恐ろしいわけがない。彼女はどこか心の病を患っていたのかもしれないけど」
 そのときは深くも考えずに、私は浩一に同情した。そして一人で翔太を育てている彼を見て、翔太の母親になって、支えてあげようと思った。
 ところが一緒に暮らすようになってから、浩一は豹変した。酒を飲むと暴れだして暴力をふるう。私は浩一の暴力に悩まされ、結婚したことをすぐに後悔した。
 それどころか、夫の子供の翔太が恐ろしいモンスターだったのだ。他人に対してまったく思いやりがなく、冷酷で、一度交通事故の現場で怪我で唸っている人を見て、ケタケタ笑っていたことがある。
 3歳のときには、小さな虫を殺して遊ぶようになり、小学校に上がるころには、小動物をバラバラにして遊び始めた。
「生き物を殺しちゃダメでしょ」
「なんで? 僕以外の生き物なんて虫けら以下だよ」
 と真面目な顔をして言われたときには驚いた。
 そのときになって初めて浩一の元妻の言っていた本当の意味がわかった。
 小学校4年生になってからは手がつけられなくなった。
 隙があると、刃物を持ち出し、だれかれとなく傷つけようとした。そのときにはさすがに「吉川家の子はおかしい」と近所でも有名になっていた。
 近所でも猫や子犬のバラバラ死体が頻繁に見つかるようになり、近隣住民は吉川家の子供のせいだと噂した。
 そんなおり、私は翔太のアリバイ作成のための日記を発見したのだ。
 どうやら翔太は、浩一と私を殺して、自分だけは無理心中から逃げ出したストーリーを考えていたようだった。
 そこで私は、翔太が犯行を8月31日に決行するように誘導した。宿題をやっていないと、お父さんからきつい折檻があるとか、このままだと夏休みが終わったら、あなたはお父さんに殺されるかもしれないとか、ありもしないことを翔太に吹き込んだ。
 私がそそのかすにつれ、翔太はすっかりその気になったようだった。IQが高いとはいえ、まだ小学生。ものの見事に洗脳された。
 ただ翔太が私にも殺意を持っていることはあくまで知らないふりをした。知らないふりをしたまま、相手を油断させて逃げ出そうとの魂胆だった。
 当然このことは浩一には秘密だった。これを機にDV夫と、血もつながっていない翔太と一気に決別できる。そう思ったからだ。
 私はその夜一睡もせず、翔太の様子を窺った。
 深夜になり、翔太が部屋に忍び込んできた。最初に浩一に飛び掛かり、包丁を喉元に一気に突き立てた。そのあと何度も何度も夫に包丁を突き立て、やがて夫が動かなくなりかけたのを見計らって、私はベッドから飛び起きて一目散に逃げだした。
「なんだよ、ババァ、逃げやがって。あーあ、一匹しかクリアできなかったじゃん。つまんねえのー」
 翔太ののんびりとした口調の言葉が後ろから聞こえた。
 そのあとは安全なところまで逃げて、こんなこともあるかとポケットに入れておいた携帯から110番通報した。
 周りに人が集まり、完全に安全になってから、私は心労で倒れたふうを装った。

 DVを繰り返す最低な夫だったが、浩一は資産家の息子で、この家も、彼らの財産も、全部私のもの。機を見てすべてお金に換えて逃げ出せば、さすがの翔太にも追っては来られないだろう。ゴミはまとめてゴミ箱にポイだ。
 あとは見知らぬ土地に引っ越して、お金のある限り贅沢をする。
 今回はかなりまとまったお金が入りそうだから、しばらくは大丈夫。
 もしお金がなくなったら、またお金を持っていそうな男を見つけてたぶらかせばいい。浩一が暴力をふるったのは想定外だったけど、ガキも含めてうまく2人を始末できたからよしとしよう。
 翔太がサイコパスだったから、今回は私の手を汚す必要もなかった。前回も前々回も、私は夫を虫けらのように殺してやった。だって彼らは私に奉仕するためだけに生きてきたのだから。
 これからも世の中の人間どもは、私に奉仕するためだけに存在し続けるのだ。
 当然なんの罪悪感もない。
 なぜならば、私も翔太と同じサイコパスなのだから。

(了)











【あとがき】
 数十年後、老いさらばえ、すっかり尾羽打ち枯らした母のもとに、翔太が訪れる。
「お母さん、矯正施設で僕は生まれ変わった。お母さんの老後は僕が見るよ」
「あ、ありがとう翔太」
 一緒に暮らすようになって数日後、母親が目覚めると、体が身動き取れない。
「な、なに?」
「これから惨殺ゲームの始まりだよ」
 母親は許してと懇願するが、翔太は拷問道具を母親の周りに並べ始めた。
「これでやっとババアを殺して、二匹目クリアーだぜ♪」
 翔太は舌なめずりをしながらそう言った。



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小説が面白いと思ったら、スキしてもらえれば嬉しいです。 講談社から「虫とりのうた」、「赤い蟷螂」、「幼虫旅館」が出版されているので、もしよろしければ! (怖い話です)