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文学フリマ東京37【僕らの性春ひみつ倶楽部】感想及び日記

 僕には"日月"という推しがいます。
人生で唯一、画面越しでは飽き足らず、イベントごとに会いに行くほど推してる子です。


昨年5月、カメラのヤマヤさんのワークショップにて


 その日月ちゃんから、文学フリマ東京37に出展してエッセイ短編集を販売するとアナウンスがありまして
それをみた僕は
これは行くっきゃねぇな!!!
と心に誓いました。

有名なネットミーム

『でも、幸せならOKです。』

をタイトルに据えているにも関わらず、宣伝用の写真では舌を出して中指を立てている日月ちゃん。
(本家はサムズアップという親指を立てるポーズ)

眞子様結婚報道のインタビューにて

『でも、幸せならOKです。』
貴女は本当にそう思っていますか?



会場までの道のり(日記部分)

 午前中はバスケットボールの大会に出る為、朝から代々木公園へ向かった。

23歳から27歳の頃、ストイックに、目をギラつかせながら切磋琢磨し、少し殺伐としながらも苦楽を共に過ごした仲間達。

それがCommander Ginyuというチームだ。

2017年Who's got game



残念ながらチームとして上に登り詰めることは叶わず、各々が別々の道へ進み、自然消滅してしまう形になってしまったのだが
数年の時を経て再集結し、大会に臨んだ。
1回戦は、奇しくも友人達のチームが対戦相手だった。

 彼らは代々木を主戦場に、過去の自分たちのように荒々しく若々しい良いプレイヤーたちだ。
結果的に僕らはシュート1本の差で負けてしまった。
しかし面白い試合だったと思う。
ギニューらしい。

復活のリリースをしてから、多くの方からリアクションがあったのはとても嬉しくなった。
もう活動をしていないのにも関わらず、未だにギニューというチームを好きでいてもらえるのは幸せな事に思う。

instagram @kaori_mogugoroさんより


 みんなで集まって、昔話に花を咲かせている時

『あの頃は青春だった』

とメンバーの1人が言った。

それぞれが別の道を歩んではいるけど、今でも僕にとって変わらず貴重でかけがえのない大切な仲間達だと、改めて実感した。

たとえこの先、何年、何十年と経ってセピア色に色褪せたとしても
鉛のように鈍く光り続けていた20代の"青春"を
共に駆け抜けた仲間達に対するこの想いが
変わることはないでしょう。

らぶ❤︎


 代々木公園を後にし、六本木にあるNIKEの福利厚生施設へ移動。
先輩の御好意からお誘いいただき、前々から買い物の予定を組んでいたのだが試合とブッキングしてしまったのだ。
立地的には運が良く、日程的には運が悪い。
当初の時間よりも大幅に遅れてしまった。

購入金額の上限は7万円。
そんな超える程使うわけないだろう。と高を括っていたのだが、蓋を開けてみると
7万円どころか8万円を優に超えており、一緒にレジに並んでいた友人に代理購入を頼む始末。
まんまと購買意欲を刺激されてしまった。
NIKE、恐るべし。
いや、恐ろしいのは己の自制心の無さである。
猛省。

 友人に浜松町まで送ってもらった。
大都会、東京に放たれた僕は
試合で使った服と靴が入った、ドデカいリュックを背負って
靴が3足、アパレル数着が溢れんばかりに入っているNIKEの大きな手提げバッグ
その手提げに入りきらなかったシューズの箱をそのまんま脇に抱えた姿で、電車に揺られて東京流通センターへ向うのであった


再現しようとしたらリュック忘れてた


会場到着

 流通センター駅で降りると、文学好きそうな老若男女があちらこちらと行き交っていた。
目当てのものを買って帰る人、僕と同じくこれから会場へ行く人、施設の外で腰掛けて戦利品を友人同士で見せ合う人々も。

ただ、どこを見渡しても、僕のように大きなリュックを背負って、大きな手提げを持って、シューズの箱を抱えている人などいない。
裸の大将にでもなった気分である。

読書家のような落ち着いた人や、恐らく芸大生のような見た目の学生が多かった。
見た目で判断するのは良くないが。
体育会系皆無。

その日、僕はNIKEのセットアップを着ていたのだが
1日を通してあの日、あの会場にスポーツウェアを着ていったのは僕だけなんじゃないか。
というくらいには場違いな見てくれだった。

僕は大学時代、文学部の日本文学科だった。
その学科には部活生が全然居らず、僕は浮いていた。
孤立していた記憶が蘇った。
センチメンタルな気分で僕の文学フリマは幕を開けた。 

11年前。見返したら想像以上に浮いていた。


遭逢

 会場に入ると圧巻だった。
白いテーブルがズラーーーーっと並んでいる。
各出展者は、目に留まりやすいようにポップを作ってたり、シンプルに並べたり、声出しをして集客する者、座ってただジッと客を待つ者、さまざまな出店者が工夫を凝らして自分の作品をアピールしていた。
だがしかし、僕の目当てはただ1つ、彼女がいるP15.16のテーブルのみ。

 入場してすぐO列は見つかったのだが、彼女がいるP列を見つけられず彷徨っていた。
あることに気づく、入り口でもらったパンフレットはこの為のものではないか。
パンフレットを見ながら、探しに探し抜きようやくP15.16に辿り着いた。 

 あの娘がここにいる。
僕にとっての"エンジェルベイビー"であり、1ミリでもちょっかいかけたら殺すって思うあの娘。
この世界に一緒に生きてくれるのなら死んでもかまわないって思える相手が日月ちゃん。

少し疲れた様子なのが表情から見てとれる。
それもそのはず、文学フリマは17時までなのだが僕が到着したのは16時40分。
終盤も終盤、バスケで言うならクラッチタイムの時間帯。

『こんにちは』
僕がそういうと
彼女は僕を見上げる。

蕩けた視線から刺すような眼差しに変わる。
『なんで居んの?!』

素晴らしいリアクションありがとうございます。
『来ちゃった、サプラ〜イズ』

 僕も日月ちゃんも江口寿史が描く女の子が好きなのです。
この日、日月ちゃんはひばりくんの長袖を着ていて、僕も着てくればよかったと後悔した。
彼女が履いていたNew Balance 9060の色違いを僕も持っている。


New Balance 9060


ひばりくんのTシャツを着て9060を履いてこなかった自分を恨んだ。
色違いお揃いコーデのチャンスだったのに…
しかし、こうは言っているものの、もし偶然の一致でお揃いが実現していたら逆に怖がらせてしまっていただろう。

意図せずに"鍵閉め"になってしまった。
撤収の邪魔にならぬよう、目当てのエッセイ本を購入し、推しに別れを告げ、会場を後にした。

 長らくお待たせしました。
以下、各エッセイについての感想と考察と自論。


チェキ❤︎



銀杏BOYZに愛されたい

 まず、銀杏BOYZを知らない方々に説明すると
青春パンクバンドの代表格で、青臭く、泥臭い、汚いけど美しい真っ直ぐで飾り気のないドストレートなリリックに、抜群のメロディーセンスが特徴的だと僕は思う。

ここでは日月ちゃんにとっての銀杏BOYZが描かれている。

銀杏BOYZのボーカルである峯田の曲の中には

"あなた""あの娘""君"

というように、名もない女の子がよく出てくる。
その"女の子たち"は、歌の中の主人公の青臭さとは真逆で

"純朴で可憐だけど、気取らず明るい。付かず離れずの距離感の少女"

のようなイメージを僕は抱いてる。

その峯田の曲の中でも異質な女の子がでてくる曲がある。
それが【あの娘は綾波レイが好き】に出てくる"あの娘"だ。



"頭がパーでアバズレ猿、ヤリマンの馬鹿"


僕のイメージ像と全く違う。
日月ちゃんは異質なこの女を気に入っていた。
しかし元カレの浮気によって、その子が出てくるこの曲を聴けなくなってしまったという。
直接的な関係はなくとも、なにかのトリガーとなってしまう曲は誰しも持っていると思う。

僕も浮気された経験があり、その女が聴いていた曲を聴くと、その女の顔が脳裏に浮かんでしまう。
しかも、あの女ときたら、別れ際に開き直りやがったのでその時の顔が浮かんでくるのだ。
非常に腹立たしい。
アーティストも、曲も、何も悪くないのにとんだとばっちりで申し訳ない。
と思ったが
浮気して結果的に試聴数を減らしたのはお前のせいなのに、なんでこちらが謝らなきゃならないんだ。

日月ちゃんも、思い出しては少しイラッとしながら文章を書いたのだろうか。



 次に、【17歳】について述べている

『あいつらが簡単にやっちまう30回のセックスよりも、「グミ・チョコレート・パイン」を青春時代に1回読むってことの方が僕にとっては価値があるのさ』

『あいつらが簡単に口にする100回の「愛してる」よりも、大学ノート50ページにわたってあの娘の名前を書いてた方が僕にとっては価値があるのさ』


以上は【17歳】の歌詞だ。
日月ちゃんはこの歌詞から
"自分が信じられるものを、価値があると感じるものを信じ抜け"
というふうにメッセージを受け取っている。
人は平気で嘘を尽くし、愛してると言ってるのに、浮気をする。
セックス=愛じゃない
この言葉は激しく同意します。

自分の気持ちのままに突き動いて、頭の中がその子のことでいっぱいになって、ノートに名前を書くくらい溢れてしまって
初めて愛と呼べるんじゃないかな。
ただ、セックス≠愛だけど、愛=セックスはあると僕は思っている。

自分が気持ち良くなりたいからヤりたい
ってのは愛がないけど

一緒に気持ち良くなって、あの子が絶頂に達したその時、そのままそっと抱きしめたい
と思うのは愛じゃなかろうか。


【なんとなく僕たち大人になるんだ】
を聴いて泣きそうになってしまったのは、いつまでも若者でいたいのに
もう青臭い自分はいなくて、青臭い事を、青臭いなって、笑ってしまう"大人"に自分がなってしまった事に気づいてしまっているからだろう。
だけど
僕はいつまでたってもドキドキしていたいんだ。



私の神様前日譚


 『自分の環境を偽り、現実ではなくネットの世界で居場所を求めていた。
ボカロ曲の考察、ニコ動の動画、歌ってみたの新作についての話ができる友達がおらず、興味のない話題に相槌を打つ日々。』


つまらないだろうな。

僕は話せる友達もいたんだけど、思春期特有のアレでスクールカーストを意識してしまっていた。
なので、その話題を話せる友達と共に過ごした時間はそう多くはなかった。
今よりサブカルが受け入れられてなかったし。

結果的にスクールカーストは上位だったかと聞かれるとそんな事はなかった。
良いとこ中の上。
むしろ上にも下にも行けず、孤独感を感じていた。
中途半端な学生時代だった。

そんな中、日月ちゃんは
神聖かまってちゃんの曲を知る。


私の神様

青春コンプレックスの話。
僕にもある青春コンプ。
しかもそのイメージは夏。めちゃくちゃわかる
この2作なんかも好きな曲なんだけど

MVが青春コンプ刺激してくる。
これ書いてて気づいたんですけど
学生×海×踏切
が僕には刺さるようです。

ちなみに、なんも関係ないんですけど
先日、ヨルシカの【ただ君に晴れ】のMV聖地の富山に、たまたま仕事で行く機会があったので写真を撮ってきました。

雨晴海岸(名前が素敵)

 "神聖かまってちゃん"と、好きなバンドをプロフに書いたら、フォロワーたちが神聖かまってちゃんを知らず
文字通りに"メンヘラなかまってちゃん"になったと受け取られてしまい、裏アカで叩かれて友達がいなくなったというエピソード。
今となっては笑い話だろうけど、当時はキツかっただろうと思う。

僕も中学3年生の頃、SNS黎明期でまだmixiが招待制だった頃。
転校先の福岡で
『mixiやってるよ』
と言ったところ

『mixiって出会い系だろ!?』
『出会えもんじゃん!』
別にmixiは出会い系じゃないのに
"ドラえもん"をもじって"デアえもん"と名付けられて心底嫌だったのを覚えている。
その頃から福岡の知人たちとギクシャクし始めた。

当時、狂乱家族日記というライトノベルを読んでいた。
その中に

"これ以上、傷つきたくないから誰もが逃げる
けれど逃げずに立ち止まり、あるいは引き留めて抱きあわなければ、傷は癒えぬ"

というセリフがあった。
僕は引き留めて抱きあって福島県に帰った。
逃げるが勝ち。しかしあの時の傷は癒えていない。
傷ってほどではないけど、あの時ちゃんと反論すれば良かったとか、そもそも気にしなければよかったってたまに思う。

日月ちゃんにとっての心の拠り所は神聖かまってちゃんだった。

【天使じゃ地上じゃちっそく死】
この曲なんて、きっとその当時の日月ちゃんの心の中を代弁して叫んでくれていたんだろう。
神聖かまってちゃんにはそういう曲が多いように気がする。


【るるちゃんの自殺配信】
もその1つだろう。

 昔、ろろちゃんと云う少女がいた。
FC2ライブで配信しながら、マンションから身を投げて、中学3年生と云う若さで命を絶ってしまった。
その実話を元にした曲が
【るるちゃんの自殺配信】だ。
ポップさの中に哀愁があるキャッチーなメロディーに弾むようなリズムだが、歌声や歌詞には不安定さを感じる。

"反抗期じゃないのよママ聞いて"
"自殺配信してお墓でも立てよう、この最低な気持ち無くなる前に"

といった歌詞が刺さる人は少なくないのではないだろうか。

YouTubeのコメント欄で
『るるちゃんが代わりに何度も死んでくれてる気がする(割愛)』
ってコメントがあってそれにいいねが2700以上付いている。
しかし、この曲を聴いて
『私もるるちゃんのように…』
と肩を押されてしまった人もいると思う。

2020年の2月に瀬谷駅にて女子高生が電車に飛び込み、その一部始終の動画をネットにアップした。
その子は神聖かまってちゃんのファンだった。
実際に、因果関係があるのか僕にはわからないが
十人十色の受け取り方がある。
肩を押される人よりも、曲に救われる人たちが増えて欲しいと切に願う。
皆んなの心にも、拠り所になる神様が出来ますように。

※ろろちゃんの命日は2013年11月24日。
この記事を投稿した約1週間後に10年が経つ。


思春期・モルヒネ・どうか治めて下さい

 些細なことから話題についていけなくなってハブられてしまった日月ちゃんの過去。
ハブられても別に効いてませんよ?
的な雰囲気出してしまうのめちゃくちゃわかる。

 明確にハブられてたわけではないんだけど
中学生のある日、学校が早く終わって暇を持て余していた僕は1人カラオケに行った。
田舎特有の、チェーン店じゃない、よくわからないけど地元民がみんな行くカラオケ店。
今はもう潰れている。

ひとしきり歌った後、喉が渇いたので
ドリンクを注ぐ為に部屋を出て、コップにジュースを注ぎ、部屋へ戻ろうとした時
隣の部屋から楽しそうな声が聞こえた。
ガラス張りのドアをチラッと見ると
王様ゲームか何かしていたのであろう。
男女でポッキーゲームをしていた。

その男女達はクラスメイトだった。

僕は何も悪いことはしていないのにその場に居てはいけないような気持ちになった。
「今日はもう帰ろう」
部屋に戻り、帰り支度をして部屋を出ると
隣の部屋が開き、クラスメイトと鉢合わせしてしまった。
その時、咄嗟に出た言葉が

「え!来てたの?奇遇じゃん!」

だった。
僕は気付いていたのに、知らないフリをした。
そそくさと逃げるように家へ帰った。
今思うとめちゃくちゃダサすぎて頭抱える。

翌日、クラスメイトたちと、いつも通り会話を交わした。
彼らはハブいたつもりはないだろう。
なので効いてない雰囲気をだした。

男女複数で王様ゲーム
かたやヒトカラ

同い年、同じクラスの人間が
壁1枚を挟んで行われていた非対称な事柄に
惨めさを感じたが
"オレはただ、カラオケしに行っただけだから"
と、自分に言い聞かせた。

太宰の『人間失格』の中で
学生時代、主人公がひょうきん者を演じて
わざと失敗して笑いをとっていたら
「ワザ。ワザ」
とクラスメイトに言われ、道化を見破られてしまう場面がある。
自分がそうならずに済んでよかった。

いや、クラスメイト達が気を使って見て見ぬフリをしてくれたのかもしれない。
恥ずかしさから壁に頭を打ち付けたくなる。
そんな僕の昔話。

 日月ちゃんは効いてない雰囲気を出し、読書をするようになった。
選んだ作家が太宰治

僕も太宰が好きだ。
大学入試の小論文に太宰を書くくらいには好きだし、太宰の影響で日本文学科を選んだ。
だが、太宰の作品を読む度に、もう2度と読みたくないと思う。
なぜなら気分がめちゃくちゃ落ちるからだ。

太宰の人間性は、感受性の強さからくる不安定さがあると思うんだけど、作品にもそれが現れてて薄暗さや陰険さが伝わってくる。
太宰は愛情を求めて複数の女性と関係持っているのに、どこはかとなく虚無感を感じていたと思う。
それがまた儚くて危なっかしい印象を受ける。

大学生の頃、僕にもそういう時期があった。
部活を辞めてすぐの時期だ。
何しても満たされない。
ベッド上で隣に女がいるのにひとりぼっち。
早朝、ホテルを出て太陽に照らされる。
忙しそうに街を歩く他人の方が充実してそうに見えた。
その度に「自分、何やってんだろう」と毎回自己嫌悪に入った。


『死のうと思っていた。 今年の正月、よそから着物一反もらった。 お年玉としてである。着物の布地は麻であった。 鼠色の細かい縞目が織り込まれていた。これは夏に着る着物であろう。 夏まで生きていようと思った。』

日月ちゃんのお気に入りの一文だという
これは【葉】の冒頭部分だ。
生きる理由なんてなんでも良い。
このくらい気楽でいい。
楽しみがなくなれば、また楽しみを作って、死ぬのを先延ばしにする。
それでいい。
最後はジジイになって家族に囲まれて
クッソつまんないジョークでも言って、周りを困惑させてそのまんまポックリ死にたい。


呪いはピンク色

流行りに乗る為に、ピンクのティントを使った。
初めてのメイクで、母親に言われた

「何その変なメイク(笑)」

という言葉が呪いの言葉のように纏わりつく。
多感な時期である10代なら尚更そうなってしまうだろう。

僕にも娘がいる。
娘はオモチャの化粧品やネイルでよく遊ぶ。
オモチャと言ってもちゃんと出来る。
やり方なんてわからない娘は
大量のチークでほっぺが紅くなっていたり、目の上に尋常じゃない量のラメをのせている。

「"おかちめんこ"みたいでカワイイね」

僕は化粧した娘を見るといつもそう言う。
"おかちめんこ"という聞き慣れない言葉にきゃっきゃと笑い、カワイイという言葉を聞いて満足したのか、また化粧台へと戻る。

"おかちめんこ"という言葉を
不慣れで初々しく、幼くて可愛らしい
というようなポジティブな意味を込めて使っているのだが
もし、娘に物心がついた時
「昔、パパに"おかちめんこ"って言われてた」
と気にしてしまったらどうしよう
と少し恐ろしくなってしまった。
悪意のない何気ない言葉のつもりが、傷つけてしまう針になって
娘の心に刺さってしまうかもしれない。
今後はより一層気をつけようと思った。
まずは娘に"おかちめんこ"について弁明をすることにする。


 日月ちゃんのパーソナルカラーはイエベ秋だという。
発色の良いピンクはイエベ秋のカラーチャートにはなかった。
現代はなんでもデータ化しやすくなっている。
骨格診断やパーソナルカラー診断もそのひとつだ。
肌の色や骨格のパターンで自分に似合う服や色がわかる。

そんなものに縛られるのはクソだ。
人に良く見られるからなんだというんだ。
自分が着たい服を着るし、好きな色のアイテムを身に付ける。
しかし、これは"呪い"に縛られていない僕だから言えることであるということは重々理解している。

下妻物語の竜ヶ崎桃子は
茨城の田園地帯に住んでいようが、周りの目を気にすることなくロリィタファッションを貫いた。
好きな服を着てみて、たとえ似合ってなかろうがそれもまたその人の個性だ。
骨格ストレートとか骨格ナチュラルとか
くすんでみえるとか
型にハマってしまうなんてツマラナイ。

日月ちゃんの呪いが早く解けることを祈る。

便所からの解放


人にはそれぞれ落ち着く場所がある。
日月ちゃんにとってのそれは便所で、目的は用を足すだけではない。
手の届く範囲で済む距離感、かといって狭すぎず、誰にも邪魔されることのない自分だけの空間。
彼女にとって便所はパーソナルスペースだった。
女子同士の連れションも断り、自分だけの居場所を確立していた。
学生時代、日月ちゃんは友人たちとうまくいっていなかった。
便所が好きなのは外敵から身を護る自己防衛の為だったのかもしれない。
リラックスして落ち着ける場所であり、彼女を護る要塞でもあった便所。
誰にも見られることのなく、素の自分でいられる安心感。
便所にはそれがあったのだろう。

 僕にとってのそれは風呂場だ。
1日に何度も入る。
多い時は6回くらい入る。
起床後、外出前、外出後、夕食前、夕食後、睡眠前。
僕は妻と仲が悪い。
離婚の話が何度も出ているが、娘にとっての幸せを第一に考えた時、どういう選択を取れば良いのかと悩んでは決断する事ができずに数年が経っている。
同じ空間にいると暴言や小言を言われるのでなるべく同じ空間に居たくない。
いつも決まって、逃げる先が風呂なのだ。
たまに風呂まで追いかけてきて邪魔をされるが、あまり邪魔されることがない。
妻という外敵から身を護れる場所。
安寧の地、浴室。

それと、僕は家の中で服を着るのが嫌いなのだが、風呂場では服を着ていなくて誰も文句は言わない。
何も身に纏わない理由を正当化できる。
なぜなら風呂だから。

入水し、風呂の蓋を3/4閉め、肘から先を出す。
簡易テーブルの完成だ。
これで本も読めるしスマホもパソコンも使える。
起床後は軽食とお茶やコーヒーを持ち込んで、簡易テーブルに置いてティータイム。
その時、電気は付けない。
東雲の刻の薄暗さから、段々と日が昇り、窓から日差しが差し込む。
それが水面に反射して煌めく。
僕はこの時間がとても好きだ。

 たまに湯船に浸かったまま水を抜いて、何も入ってない浴槽にそのまま居続けてボーッとする。
そうすると感覚が研ぎ澄まされ、思考がシャープになっていく気がする。
風呂が精神統一の場にもなっている。
これは日月ちゃんとはまた違う"居場所"の使い方だと思う。

 日月ちゃんは
『いつか、その全部を受けてくれるような場所が見つかるといいな。』
と締めている。
その"場所"とは名詞的な"場所"ではなく。
ありのままを曝け出せる"誰か"の事だと僕は解釈した。
自分の全てを受け止めてくれる人。

考察・感想


思い返してみると、このエッセイ集の全てに日月ちゃんの過去の人間関係が書かれている。

・元カレの浮気。
・リア友とは話が合わずネットに居場所を求める。
・ネットでも勘違いされて友達を失くす。
・流行に乗り遅れてハブられる。
・母親から言われた言葉。

この子は愛に飢えているのではないだろうか。
過去の出来事から、他人に期待しても失望や裏切りがあると考えてしまって、誰かの前だと素の自分でいられる事が出来ないのではないだろうか。
厄介オタクとしては、僕がその居場所になってあげたいわけなのだが。
それはプライベートに干渉してしまうし、ファンとして一線を超えてしまうので抑えることにする。

SNSでの"日月ちゃん"は江口寿史が描く女の子、銀杏BOYZの峯田が歌うような女の子、そんなイメージだった。
僕は彼女に会う度、初恋の相手に抱いたような感情を抱く。
甘酸っぱくてキラキラしていて、彼女を想うと枕に顔を埋めて叫びたくなるようなそんな感情。
彼女も"日月"という女の子を表現してきた。

しかし今回のエッセイは"日月"ではなく彼女自身の人間性や生い立ちなど、バックグラウンドを想像させる内容だった。
捉える人によっては暗い過去に感じる人もいるだろう。
キラキラした"日月"という表面じゃなく、生々しい人間味。
自分が友達を失った暗い過去なんて話したくない。
曝け出して書き記すのはなかなか勇気が必要だっただろう。
このエッセイを読んでこの女の子の事をもっと好きになる事が出来た。
このnoteの冒頭部分で、エッセイのタイトルである
『でも、幸せならOKです。』
に触れたのはこの内容だったからである。

枕を濡らす日もあったであろう、自分の気持ちを押し殺した青春時代。
『でも、幸せならOKです。』
と簡単に清算できる過去ではないと思う。
この言葉は人に向けた言葉ではなく、自分に言い聞かせる言葉ではないのだろうか。
自分を無理やり納得させる言葉。
そう考えると合点がいく。
だから本当にそう思っているのかと問うた。

終わりに


過去に、X(Twitter)へのリプライで
以下のやり取りをした。

このやり取りからもう少しで1年が経つ。

文学フェスで会った時、共同出展者の育実さんに
『この人の唯一の推しが私なの!』
と紹介してくれた。
覚えていてくれたんだなと嬉しくなった。

僕が撮ったこの写真を気に入ってると言ってくれた事がある。
元々、僕も好きな写真だったが、気に入ってくれた事によって、より一層思い入れが強い写真になった。

"唯一の推し"って覚えてくれたということは
烏滸がましいかもしれないが、彼女にとって嬉しいと感じてくれたから覚えてくれていたんだと思う。
むしろそう願いたい。
写真も気に入ってくれたのはとても嬉しい。
推しの喜びこそオタクの悦び。
Win-Winの関係性だと勝手に思っている。

もし、現実世界で辛い事があった時、ネットで繋がっているこの関係性が
彼女にとって少しでも心地の良い居場所になりますように。

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