見出し画像

お花見の花ってサルスベリでもいいのでは

今見頃のサルスベリ。夏から秋にかけて花を咲かせる落葉高木だ。その開花期間がざっと100日間であることから、漢字では「百日紅」と書くのが一般的。だが「猿滑」という別の漢字を当てられることも多い。それは読んで字のごとく(木登りの得意な)猿ですらすべってしまうという意味合いに由来する。そうサルスベリ最大の特徴は幹肌にあって、皮が剥げてすべすべとしているのだ。だから目が慣れてくれば、冬でもサルスベリを簡単に見分けることができる。
ただやはり、サルスベリの魅力が存分に発揮されるのは今の開花シーズンだろう。ユニークな幹肌からさらに枝先を見上げると、発色の美しいさまざまな色の花を楽しむことができる。濃いピンクや紫のほか、涼しげな白もある。一本の樹木に一色なので、あえて別の色のサルスベリを混在させてカラフルな調和を楽しむのもいい。そんな並木道があれば、通りは一気に華やかになるだろう。単純な美しさだけなら桜並木にも勝るかもしれない。
でも実際、サルスベリを見かける機会はさほど多くない。誰かの庭先や幼稚園の敷地内で1、2本。あるいは公園や河川敷でぽつぽつと見かける程度。こんなに美しいのに、まだまだマイナーな樹木なのである。

日本人にとって「花」といえばサクラ。たしかに僕も美しいと思うし、特別な花として位置付けている。ただ花や樹形の美しさだけでいうと、マイナーなサルスベリも全然負けていない。むしろ僕はサルスベリのほうが好みである。だからサクラばかりが神のように崇められるのはおかしいのではないか。実際に御神木とされるケースも多い。サクラの開花予報がはじまる時季の日本人のざわつきは嫌いじゃないけど、「特別視し過ぎだろ」と冷めた目で眺めている自分もいる。
サクラ以前、「花」といえばウメを指したのは有名な話。主に奈良時代までは「花」といえばウメで、「花見」といえばウメの鑑賞を意味していた。主に貴族たちがそれを歌に詠む、文化と密接に関わり合いながら「花見」は定着していったのである。だが奈良時代『万葉集』の頃にはウメが圧倒的な人気を誇っていたのに、平安時代『古今和歌集』の頃には逆転。サクラの歌を詠む数がウメを上回ることになる。その理由に挙げられることとして、遣唐使を廃止したことでもともと中国からの輸入品だったウメの流通が減ったことや、嵯峨天皇など時の為政者がサクラ好きでサクラの植樹を奨励したことなどが言われるが、おそらく一つの正解があるわけではなく、複雑な理由が折り重なりながら、その時代の空気にもあと押しされたのだろう。
それから優に1000年以上をかけて。じわじわと着実に日本中に根を張っていったサクラは、今や「花」の代名詞にまでなっている。

つまりサクラ人気は根強過ぎるわけだが、ウメからサクラの時代へと移行した事実を考えると、いつかサルスベリの時代が来ると考えても荒唐無稽な話ではないように思う。現にここに、一人の人間が「サクラよりサルスベリのほうが好み」と言っているわけだから。
でも「花見」の「花」として、サクラには本当に死角がない。花の開花時季や期間などの条件が日本人にベストマッチしている。出会いや別れと重なる季節。外に出たくなるような穏やかな気候は花見にもちょうどいい。長くても2週間程度という儚さ。ひらひらと散りゆく花びらに何がしかを投影したくなるのが日本人の感性である。このような条件がそろっているだけでもすでにサクラは「花見」における唯一無二の樹木だが、さらに政治的にも用意周到な計画をもって植樹されたのがサクラらしい。本当に死角がないのだ。

なぜサクラ並木は川沿いに多いのか?
その理由を、チコちゃんという5歳児に教えてもらった。今年の春のことだ。
発端となるのは江戸中期、享保年間。「享保の飢饉」で覚えている人も多いだろう。要は不況の時代。時の将軍・徳川吉宗が治める幕府は、財政難にあえぎ、質素倹約を奨励したという。新田開発に力を入れるもののなかなか成果が出ないなか、追い打ちをかけたのが隅田川の氾濫による水害だった。
いい解決策はないものか……。吉宗がひらめいたのが「サクラ」である。「サクラ」と「水害」。庶民ではそれがどう解決につながるのかわからないだろう。僕も実際、画面越しでチコちゃんに叱られた。まぁとりあえずは吉宗の指示により、隅田川や玉川上水に大量のサクラが植樹されたわけだ。

マリオやゼルダの生みの親として知られる任天堂の宮本茂さんにこんな名言がある。
”アイデアというのは複数の問題を一気に解決するものである”

僕が吉宗のサクラ案を知って思い出した言葉である。そう吉宗のサクラは、複数の問題を一気に解決するものだったのだ。
まず一つ。サクラはたくさん根を張る樹木である。よって川沿いに植樹しまくれば堤防の役目をはたしてくれることになり、土砂の流出を防ぐことができる。
さらにもう一つ。水害は雨が多い梅雨にもっとも警戒すべきなわけで、梅雨前に地盤を踏み固めておかなければならない。だが財政的に余計なことをこしらえる余裕はない。だから政治的な規制緩和と、町人心理・人間心理を利用する。花見の時だけは無礼講を敷き、誰でも刀を差してOKとし、歩きたばこもOKとし、女装ですらOKと打ち出す。当時定められていた倹約令に反するようなごちそうですら町人もオールOKとしたのである。そうなると当然、当時の町人は我慢や倹約ばかりを強いられていたので、ここぞとばかりに川沿いに押し掛けることになる。吉宗の用意した青写真通りに、春のうちに自然と地盤が踏み固められることになるのだ。この発端がじわじわと慣習化したからだろう。お花見とはいつしか、武士・町人などの身分差を超えてハメをはずせる国民的行事と化していったのだ。

今でも「桜を見る会」などがあるのは、政治とサクラの関係をよく表しているのかもしれない。
そう思うとますますサクラに勝てる気はしないけど、用意周到な計画と理屈をもって挑めば、いつかサルスベリでも「花」の代名詞、「花見」の代名詞になれる日が来るかもしれない。サルスベリの花言葉に「不用意」という意味があるのが気がかりではあるが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?