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【観劇記録#1】蝉灯す

少し前、8月24日に観劇した舞台「蝉灯す」の感想を残しておこうかと思います。

この作品は、4月に舞台「わかば自動車教習所で恋を学ぶ」を観に行って、宮下さんと私オムさんが気になって観劇したものです。

記録であり、日記であり、感想文。心の内とか記憶の世界をつらつら綴ります。

ほとんど当時書いたメモの内容。ネタバレを大いに含むので、要注意です。

なお、セリフや内容はニュアンスです。実際とは異なる場合があります!


会場は赤坂の草月ホール。
19時公演だったので、夏といえど外はすでに暗くなりはじめていました。この日は駅からちょっと歩いて、気温もまあ高いし蒸し蒸ししているし、暑がりの私はハンカチで汗を拭いながら、無事ホールに到着したのでした。

建物の中に入り、受付へ。開場時間を過ぎていたので、人はどんどん地下のホールの方へ吸い込まれていきます。引き換え券の手続きをしているうちに、「おや?」と気が付いたのです。

祭り囃子が聞こえるな。

これが最初の感動ポイントでした。

私の地元には神社があり、毎年夏祭りと秋祭りを開催していました。お祭りだけでなく、年末年越しの頃だとか、行事の際には遠くの方から聞こえるのです、お囃子が。

蒸し暑い夕暮れ。子どもの頃には必ずお小遣いを握りしめて向かったお祭りの境内。
いつからでしょうか?
面倒だし、行かなくていいや。
なんて思うようになったのは。

このお祭りも諸々も、神社の行事はコロナ禍ですっかり中止になってしまいました。だからもう、ずーっとお祭りには行っていません。

ああ、祭り囃子が聞こえるな。
そう思って私もホールの方へ階段を降り、屋台やテントが目を引く客席へ入り、導かれるように自分の席に着きました。

脚色だなあと思うでしょう?でもね、私にはこの音が本当に懐かしくて、舞台セットの屋台やテントのリアルさに感動して、わくわくそわそわしながら開演時間を待ったのです。

戻れないのに色濃い思い出って本当にノスタルジック。

これからお祭りが始まるんだ!っていう合図に、子どもの頃ワクワクした思い出が蘇ってくる。経験と表現がリンクする。          

こういう感動は、舞台を観に行かないと感じられないんだよね。配信でも円盤でも、映像からは受け取れない細やかな演出、気配り。

さて、お囃子の音が段々と大きくなり、暗くなった会場内。音は徐々に蝉の鳴き声に変わっていきます。

物語はそうして幕を開けるのです。(長くなってごめんなさい……)



「蝉灯す」

「蝉灯す」っていったいどういう意味なんだろう?
情報解禁の頃からずっと気になっていました。
(正直、蝉に火をつけて燃やされている図を想像していた私を殴ってほしい。)

この題の謎を紐解くような、むしろ謎を増やすような形で始まる舞台。

そこは、くたびれた神社。屋台が並んでいる今日は、祭りの前日。

せっせと祭りの準備をしていくのは、20〜30代くらいの若者たち。テントに「玉尾町青年団」って書いてあるから、きっと彼らがそうなんだろう。

ヨーヨー膨らませられるだのなんだ言い合ったり、
金魚がいない!とトラブルになったり、
荷物一人で運べるだの手伝うだの揉めたり、
提灯がどうしても1つ点かないと悩んだり、
和気あいあいと(?)お弁当を食べたり……

ゆったりとそれでいて慌ただしく進められていく前日準備。

そこに、15年前(うろ覚えです…合ってるかな?)に町を出ていった恭次郎が現れる。

久しぶりの友人、幼なじみ、仲間の登場に湧き立つ一同。思い出話にも花が咲きます。

ただ、恭次郎の兄・正輝だけは、彼が帰ってきた理由を察します。けれど、それにはあえて触れません。

祭りの前夜。
神社の境内で酒を飲む恭次郎を含む数名。
はじめは楽しそうにしていた彼らは、恭次郎の態度や発言に、徐々に不快さを露わにしていきます。
そして喧嘩別れ。一人取り残されて眠っていた恭次郎。そこに正輝がやってきます。

今の話にはついていけないだろう?

昔話でなら話の中心にいる恭次郎。しばらく町を離れてトウキョウに行っていた弟に、正輝は言います。
正輝の言葉は灯火のように暖かいようでいて、どこか、なんていうだろう。距離を感じるというか隔たりを感じるというか、諦めのようなものを含んでいるように感じました。
恭次郎はその場を去ります。

恭次郎が帰ってきた理由。
それは、金を借りるためでした。

この町ではスターだった自分。プライドの高さが邪魔をして、なかなか打ち明けることができません。
けれど先輩・藤田は早く金を用意しろと急かしてきます。時間はない。

そんなとき、頼みの綱であった金持ちの柳井になんとか金を借りる約束ができました。胸をなでおろす恭次郎。
誰にも言わないという言葉にもほっとします。
理由も聞かずに100万、貸してくれることになりました。

ここで翌日、柳井から金を受け取って、そのままトウキョウに帰っていれば、何事もなかったかもしれません。

この町における人間関係に一切荒波が立たず、何事もなく……

しかし、そう単純にはいきません。

なあ、恭次郎。蝉がどうして鳴くか知ってるか?

これは、恭次郎がトウキョウに旅立つ日、正輝に言われた言葉。彼はこの理由をわからないままでいました。

翌朝、同じく祭りの準備を進める青年団の皆。
けれど様子がおかしい。慌ただしく、ギスギスとしています。

正輝くんがいない。

青年団の団長で、みんなの頼りである正輝がどこにもいないのです。
慌てる皆。けれど祭りの時間は刻々と迫ってきています。

昼を過ぎ、やっと正輝が現れます。
何してたんだよ、と皆が駆け寄り縋ろうとする中、正輝は、家にあった青年団の荷物を運んできて、こういいます。

もう、青年団辞めるから。

母を亡くし、父を亡くし、弟を懸命に育てるために高校生の頃から朝夕バイトに明け暮れ、家のことをして、必死に生きてきた正輝。
大人になっても玉尾のために、青年団の団長をして、頼まれ事はなんでも引き受けてきた正輝。

だめになってトウキョウから帰ってきた弟を見て、また、昨晩藤田と話をして、恭次郎がこうなってしまったのは自分が尽くしてきたせいだと思ったのでした。

このままでは青年団もだめになってしまう。

そう感じた正輝は、青年団と距離を取ることにしたのです。

誰でもいいから団長を引き受けてくれ。
この言葉を言うときの正輝の心情とは一体どんなものだったのでしょう。
自分のしてきたことの価値について絶望したでしょうか?重荷が下りることに安堵したでしょうか?
いや、この一言は、彼のアイデンティティの喪失のように感じました。

そこに、藤田と恭次郎が現れます。
皆の前で、金については言及する藤田。

この場で話したくない恭次郎は、なんとかやり過ごそうとしますが、藤田は強引に金の入った封筒を取り出させます。

やっぱ持つべきものは優しい兄ちゃんだな。
え?違うの?
このクズに金貸した人〜?

砕かれる恭次郎のプライドと、皆からの期待や信頼。
トウキョウでなにしてきたの?
なんで玉尾のこと悪く言うの?

大人の言い合いでは、なにも解決しません。

一度、ちゃんと喧嘩をしよう。
そこで始まる本音のぶつけ合い。
相手のことが大好きだけら言える言葉の数々。
大人になると、素直に言えない本心。

トウキョウが無理なら、いつでも帰ってくればええんよ!

そして恭次郎は、トウキョウで諸々をしっかり片付けて、帰ってくることを約束します。
正輝は、帰ってきた恭次郎に、団長の仕事をさせることに決めるのでした。

そこに、子どもの頃にお世話になった中村のおじさんがやってきます。厳しくて、悪さをしてはげんこつを食らった子供時代。
今は車椅子に乗り、弱々しく、昔の恐恐しさはほとんどありません。

おじさんのげんこつは痛いからな。
そしてそっと下ろされるげんこつ。

どうや?痛かったやろ。

うん、痛い。ありがとう。

お前はげんこつをもらって、ありがとうと言えるようになったか。
げんこつをもらってごめんなさいと言えるやつはいくらでもいる。でもありがとうって言えるやつはなかなかいない。

そう言って恭次郎を褒めるおじさん。
父のいない恭次郎。中村のおじさんは、恭次郎を叱ることのできない青年だった頃の正輝に、叱る役は引き受けるからと言っていたのでした。

自分を叱ってくれる人がいる。これってどれだけ幸せなことか。他者がどうでも良ければ、叱るなんてことできない。
私の周りには、叱ってくれる優しい他者なんていただろうか?雷おじさんのような近所の恐い人なんてもうこの時代にはいないのかな。
ちなみにこのシーンで涙腺崩壊しました。いつも泣いてるね。

皆のわだかまりが無くなって、準備も無事に終わり、そして祭りが始まります。賑やかになりだす神社の境内。
和気あいあいと。そこには皆の笑顔が溢れているのでした――。

誰かの所為にして生きるんじゃなくて、
誰かの為に生きる。

後ろを向いて理由をつけるんじゃなくて、
前を向いて理由を付ける。
理由も生きがいも、自分で決めるんだ。



そしてこれは、観終わった後の感想。

私は東京で生まれて、東京で育ってきたから、正直「上京」が世の中でどんな扱いなのか良く知らない。

聞かなくてもわかるから無関心に見える「田舎」
ぶつかり合って関係性を築いてく「田舎」

一方で、関わり合いになると面倒だから無関心である「トウキョウ」
ぶつかったら関係性が終わる「トウキョウ」

うん、たしかにそういうものなのかも?
聞かなくてもわかる関係性、っていうのは少し意外だった。気兼ねなく、いや気遣いなく?ズケズケとものを聞かれてしまうのが田舎の関係性なのかなと勝手に考えていた。
でもそりゃあそうだ。場所が違えど、環境が違えど、人と人との関係性には変わりない。他人のことを察して、遠慮して言語化しないというのはある意味当然のことだろう。

コニュニティが狭いってどんなに気まずいことがあっても、過去の話掘り返される事があっても、ずっとそれを重ねて重ねて、濃くなって、決して離れられない関係性になっていくということ。強くなるしかないんだって言っていたけど、これはその通りなのかなって想像する。

東京には人がたくさんいる。それだけ代わりが効くってことで、人にはたしかに困らないかも。バイト飛ぶ人がいたりだとか、音信不通になる後輩とか、
来る者を拒むことがあっても、去る者は追わないよね。たしかに。だってそうするメリットがあまりないんだもの。

自分の力を試したい人と、トウキョウの力を借りたい人。
交通アクセスは良いし、観に行きたい公演とかライブとかは基本(それが埼玉や神奈川や千葉の会場だったとしても)行ける。買い物にも困らないし、働き先だっていくらでもある。ここにいて困ることがない。
だから私は自分は東京から出られないなあと思っていたけれど、上京してきている人たちの覚悟とか、思いとか、狙いとか、夢とか、そこまで考えたことがなかったかもしれない。

東京って力があるのか?人が多い分、機会に恵まれるってことなのかな?
そうなのかな?ここって埋もれてしまう場所だと思っていたよ。

田舎のネズミと都会のネズミじゃないけど、いや、むしろ逆だけど、過ごしてみないとその環境の欠点って案外理解できないように思う。

あとね、東京の人は冷たいって言われることもあるけど、物を落とせば「落としましたよ!」って追いかけてまで声をかけてくれるし、新宿駅でパスカードの中身全部バラ撒いてしまったときも、瞬時に周囲にいた3、4人が拾い集めてくれたの。

東京にいるのも、人だよ。

あとは、恭次郎にも正輝にも、藤田さんがいて良かったなって感じた。自分の過去にも未来にも、もちろん今にも向き合う理由をくれたから。

自分の昔を知っている人、帰ってきて良いって言ってくれる人、どんな自分でも受け入れてくれる人。
そうそういるものじゃないよね。

過去の自分を知っている人に、今の自分を知られるのはすごく怖い。
今の自分を見ている人に、未来の自分を見られるのだって怖い。
でも、今の自分を誇れないからといって、過去の自分を否定してはいけないって、その通りだと思った。

昔からこうだったって自分を納得させる言い訳に過ぎなかったんだな。

この言葉、大切にしよう。

蝉はなぜ鳴くのか。
暇だから鳴く?それしかすることがないから鳴く?
どうなんだろう。
でも蝉は、生きているから鳴いているんだよ。
短い一生を、ちゃんと生きている。
人間が呆けてだらけて、なんにもしていないのとは違う。ちゃんと役割を全うするために鳴いている。
鳴いているならいいじゃないか。それしかできないなら、せめて鳴いているだけでも。
そのほうがましじゃない。

最後に、
「蝉灯す」っていったいどういう意味なんだろう?
これは兄弟の心情、想い、もしくは信頼、いや、評価?ともかく関係性を表す言葉なんじゃないかなって個人的には解釈。

私オムさんの人間性の描写というのかな、こういう人いるなあ……!ていうキャラクター性の現実味が本当にすごい。
それを再現できる役者さんの演技も本当に心に染み入る。
こういう小学生いたなとか、このプライドの高さあるなとか、こうやって人を頼ることあるなとか……。

今作だと、自分に一番似ているのは恭次郎だなあ。
彼の行動や発言、私もやりかねないかもしれない。こういう状況に追い込まれかねないかもしれないって少し怖くなるくらいだった。
正輝みたいな人を頼って甘えてしまうところも、よく似ている。本当に怖かった。

他者に感謝をすることを忘れないで生きよう。そして素直に生きよう。同じ轍を踏まないように。笑

誰かの所為にして生きるんじゃなくて、
誰かの為に生きる。

この言葉を胸に刻んで、筆を置きます。
長くなりました。いつか自分の記憶が消えてしまっても、このときの感動が私を思い出すきっかけとなるように。

私オムさんの作品が、宮下さんや清水さんをはじめとした他の役者さんの演技がまた観たい。
その機会にはあなたもぜひ。それではここで。


たかはしゆき


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