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科学的助言と認識的不正義

科学技術の哲学と歴史の国際連合 (IUHPST) が2年に1回出している、科学技術の哲学と歴史・論文賞を、ケンブリッジの院生の Ahmad Elabbar 氏の 「アセスメントのキュレーター的見方と科学的助言の倫理:意思決定の自律から分配的認識的正義へ(The curatorial view of assessment and the ethics of scientific advice: Beyond decisional autonomy towards distributive epistemic justice)」という論文が受賞したというニュース。

History and Philosophy of Science Essay Prize Winner Announced by IUHPST
https://dailynous.com/2023/05/10/history-and-philosophy-of-science-essay-prize-winner-announced-by-iuhpst/

本文中のリンクから全文が読めます。以下、読んでみてのまとめと感想。

科学的専門家が助言をするというのは、しばしば医師と患者の関係に喩えられるけれども、現実の科学政策的な問題はものすごく複雑だし、価値観もいろいろ入ってくるので、もうちょっと考えようと。科学的助言はむしろ博物館におけるキュレーションのようなもので、限られた時間や空間に何を配置し、何を目立たせるか(salience 配分)ということをやっている。

そうしたキュレーション的な助言で科学者が(特に価値観が入ってくるような話で)どんなふうに振る舞うべきかというと、著者によれば3つのモデルがある。(1) 価値判断の停止(deferral)、(2) 価値判断が対立した場合の調整(alignment)、(3) 科学者自身の価値観をとことん透明にする(transparency)ということだそうだ。こうしたモデルは、専門家の役割と価値判断というしんどい問題について、距離のとり方を3つに分けたものといえる。しかし、いずれにしても最終的に決める側=意思決定者の自律は尊重されねばならない、という価値を中心に据えている点で、それに応じた限界が生じていると分析されている。

著者が代えて提言するのは「認識的分配的正義モデル」といったもので、これはフリッカーの「認識的不正義」論からインスパイアされたものだ。たとえば気候変動問題などの場合には、意思決定者(重要:民主的政治過程においては政治家や官僚だけでなく、広く市民一般を含む)が適切な情報へのアクセスを欠いていたり、判断にバイアスがかかっていたりする。深刻な影響を受ける当事者こそ、認識財に不足しているというのもよくある不正義の状況である。なので、科学的助言は単に科学的知識を提供したり、自身の価値観とどう折り合いをつけるかを悩んだりするだけでなく、意思決定者の認識の歪みを矯正するような助言こそ倫理的になりうるという。これは結果としての意思決定の正しさに寄与するとともに(あるいは、するかどうかにかかわらず)意思決定の正統性向上に寄与することになる。

というのが著者のいう科学的助言の認識的分配的不正義矯正型キュレーターモデルというもので、なかなか面白いので、このへんの科学コミュニケーションとかに関心のある方はご覧になってみるとよいかと思います。その認識財の分配って、政治家でもない科学者とかができることなのか?というか具体的に何をすればよいのか?といったことは今後の課題としてありそうですが、それはみんなで考えよう。

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