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他人を決めつけない、という自分への挑戦。

昨夜、NHK BS-1で放送された番組、
「独占告白 渡辺恒雄~戦後政治はこうして作られた 平成編~」
を見ました。
あまりの驚きと、衝撃に、しばらく放心状態になってしまいました。

それは爽快ささえ感じるような、とてもいい意味のものと、
また別の得体の知れないモヤモヤ感が同居したもので、
ずっと考え込んでいました。

そしてそのモヤモヤのヒントが少しわかった気がしたので、
忘れないうちに記すことにしました。



実は2年ほど前に放送された同番組の「昭和編」も録画してあります。
けれど、ずっと観ていなかったのです。

その理由は、知らなければならないことなのだろうけど、
観ると嫌な気持ちになるのだろうな、という想像があったからです。

私にとっての渡辺恒雄(以後ナベツネ)は、
決していいイメージではなかったのです。

読売巨人軍のオーナーであり、読売新聞の主筆。
新聞の世界だけでなく球界、角界、そして政界で暗躍する
悪しきフィクサー的なイメージを持っていました。

なぜかはわかりません。
恐らくメディアによって形作られたイメージを
そのまま自分も鵜呑みにしていたのでしょう。
普段からメディアリテラシーを意識している自分としては、
本当に己の浅はかさを痛感させられました。まだまだだな、と。

番組に登場したナベツネは御年95歳。
風貌はかつてのふくよかで何かを企んでいそうな
(それも私の偏見ですが)表情ではなく、

痩せて穏やかで、理知的な眼光と、
それでいて包容力のある語り口がとても印象的で、
「これがナベツネなのか」と思ってしまったのが正直な気持ちです。

ナベツネは保守である。ナベツネは改憲論者である。
だから戦前賛美であると、私は決めつけていました。
彼は確かに保守思想も持っているようですが、
それだけではありませんでした。



作家・平野啓一郎氏が提唱する「分人主義」にもあるように、
人間には様々な側面があります。
けれど、人は他人を把握するときに、
あまりにも多様な側面を把握する面倒臭さから逃げるために、
相手を画一的でシンプルなイメージに押し込めようとしてしまいます。

今回の私で言えば、
ナベツネは保守で改憲論者だから戦前賛美だ、というイメージです。

しかしリアル・ナベツネはちがっていました。

彼は「自民党をぶっ壊す」でお馴染みの小泉純一郎の
ワンワード・ポリティクスを批判していた。
その理由は、政治とはそんなに簡単なものではないという
リアリズムからです。

彼は小泉純一郎の総理大臣としての靖国参拝を批判していた。
それはあそこに戦犯が祀られているから。
郵政民営化に至っては、目立つだけで意味はないと切って捨てました。

彼は憲法を改正すべきと述べています。
その理由は、「あの憲法は本当のリベラリズムではないから」
「あれではまだまだ手ぬるいから」
「あれでは過去と同じこと(戦争)を繰り返す可能性があるから」
というもので、圧倒的な反戦・平和主義が改憲主義の発端なのです。

最初、彼が「リベラリズム」という言葉を発したとき、
自分の聞き間違え、文字も出るので読み間違えかと思いました。

しかし、彼は確かに「リベラリズム」と言いました。

その前には、東西冷戦の終わりをして
「今までの嫌な左翼ファッショが変わることを期待した」
という言葉が出たのですが、
そのときまではイメージ通りのナベツネだと思って観ていたのです。



話が憲法観になり、
「あれは占領下でGHQに忖度して作られたものだ」という話し出しからは、
そのあとにつづく展開は予想できなかったのです。

ナベツネは戦争を悪と考える平和主義者でした。

彼は軍人として戦争体験があります。
だからこその
「どんなことがあっても戦争をしてはならない」という言葉には、
実体験を伴った何よりも強い信念を感じました。

彼が政界の中に入り込んでいったその気持ちの裏にも、
ダメになっていく日本をなんとかしなければ、という本物の気持ちが
そこにあったことがヒシヒシと伝わってきます。

新聞記者、新聞社の人間という立場を使い、
政治家と政治家をつないだり、そのときの自分にできる動きをすることで、
己の利権のためではなく、
国の未来のために、あるべき姿を実現しようとする。
それは基本的に、過去のまちがった方向に二度と行かないように、
というビジョンに基づいていました。

本物のナベツネは、私が想像していたナベツネではなく、
「真剣に考えているレベルが普通とまったくちがう人」
であることが分かったのです。

彼は同時に猛烈な勉強家でもあり、自分に任された領域に関して、
自分で調べ、自分で考える人であったからこそ、
表層的に見える部分が、ちょっと変わったものとして見えてしまう。

それもまた「大きくなりすぎた人間社会の弊害」だと感じました。

以前、国政選挙に出たこともある三宅洋平氏が、
沖縄の基地問題の最前線だった高江の現場に
安倍昭恵を連れていったことがあります。

私は、なるほど、すごい手法だと心からの賛辞を送りましたが、
多くの人には理解されず、逆に批判されてしまいました。

彼は世の中を変えなければいけないと本気で考えていたのです。
そのためにできることは何か、と。

安倍昭恵は、家の中で安倍晋三と過ごしているのです。
当たり前ですが・・・
そのことをどう利用できるのか、というところまで考えなければ、
本気で世の中を変えることはできません。

かつて徳川家康は江戸築城のとき、東北からの進軍を避けるための
大きな堀を作るのですが、その作業を、
東北から攻めてくる可能性の筆頭である伊達政宗自身にやらせました。

そういう発想ができることが、
本当のリーダーだと感じるのですね。

平成19年、ナベツネは政界が不安定になってはいけないという思いから、
自民党と民主党が連立すべきと考え、
当時の福田首相と小沢一郎氏を直接結びつけます。

話し合いは閣僚を何人出す、という具体的なところまで行ったそうですが、
民主党内での反対に遭い、この構想は消えてしまいました。
しかし、後の民主党政権の失敗の原因が
「圧倒的な経験不足」によるものだとすると、
ここで大臣経験者を生んでおけなかったことは
民主党自身にもマイナスだったし、
当時、それを見越せる力を持った人が民主党にはいなかったのは、
高江の件で三宅洋平が一気に批判されたことと似ていて、
人間社会の難しさを思わせるエピソードです。

ナベツネは、思考が普通の脳とはレベルがちがっていたからこそ、
様々な考えを述べ、具体的に動いたのでしょう。
そしてまた、世の中からはなかなか理解が得られず、
自分勝手な振る舞いをする人間に見えたのですね。



私は渡辺恒雄氏の本当の思いがどこにあるのかを知って、
それまでの彼の言動の辻褄が理解できたし、
そのことは実はとてもいいものなのであった、ということに気付けました。

それが爽やかさにも似たいい気分の方です。

そして逆のモヤモヤというのは何かといえば、
それは、世の中を変えていくということは
「あのナベツネでさえ困難なのだ」という現実を知ったことが原因です。

今、世の中は大転換期になっています。
それはまちがいないでしょう。
地球環境の大崩壊は、否が応でも我々に変化を強いるのです。

しかしだからこそ、大崩壊に受動的に対応するのでななく、
そうなる前に自ら変化する必要があるし、
だからこそ、そのビジョンを掲げている政治家を私は応援しています。

でも、「あのナベツネ」がやっていたことは、
実は世の中の人々が
まちがった方向に行かないようにするための暗躍であり、
行動であったとするなら、今の政治の世界はあまりにも非力であり、
それに対する現実の課題の大きさが
尋常ならざるサイズに肥大化していると感じてしまい、
その空前絶後感が自分をある種、空虚にさせたのだと気づきました。



人というのは、ちゃんと話をきいてみないといけません。
イメージで他人を決めつけてはいけない。

人は、観たいものだけを見るし、世の中を自分の観たいように解釈する。
そんな生き物であることが、脳科学の発達で明確になっています。

あなたの大嫌いなあの人は、本当はそんな人ではない可能性が高い。
だから、相手を決めつけずに理解しようとする試みを
自分に対して挑戦していかなければいけないということです。

本当に勉強になりました。
昭和編も観てみよう。

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