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甲子園ボウル考 〜西高東低は個々のチームの問題ではない〜

昨日、兵庫県の西宮市にある甲子園球場で、
76回目になる甲子園ボウルが開催されました。

甲子園ボウルとは日本の大学生の
アメリカンフットボール王座決定戦です。
昨日の試合は関東学生リーグの代表・法政大学と
関西学生リーグの代表・関西学院大学との一戦でした。

ちなみに、法政は9年ぶり18回目の出場、
関学は6年連続の出場でした。

試合は47−7と、点差だけで見れば関学が法政を圧倒し、
関西学院が4年連続の勝利、28回目の学生日本一に輝きました。
ここ10年間で関東が勝ったのは1回、
20年でも3回だけという「西高東低」がつづいています。

中学生の頃から37年ほどフットボールを見つめつづけてきた私から見て、
今回の甲子園ボウルから感じたことを少し書き記しておきたいと思います。

フットボールが好きな方も、そうでない方もいらっしゃると思いますが、
できるだけどんな方もお読みいただけるように書いてみたいと思います。

まず、今回の試合です。
結果として47−7という大差になったので、
フットボールをよくご存知ない方からすると、関学と法政の力量差は
ずいぶん大きかったのだと感じられるかも知れません。

しかし、フットボールは基本的に陣取り合戦である、という競技の性質上、
負けているチームは点差が開くほど、また試合の残り時間が少なくなるほど
不利な状況になってしまうため、後半にどんどん失点するというのは、
よくあることなのです。

試合は4つのクオーターからなっていますが、
その得点の推移をみても、1Q=7、2Q=6、3Q=10、4Q=24と、
第4クォーターに得点が集中しています。

後半開始早々に法政がタッチダウンしたとき、
13−7だったということを思えば、
実際には試合の流れ上、ここまでの大差になっただけであることが
おわかりいただけるとおもいます。

ただし、その上で、私は今回の試合を
関西学院の圧倒的な勝利だった、と結論づけようと思っています。
それは、関東のフットボール環境に
大いなる問題提起をしたいからなのですね。

今回の試合を見ていて、法政になく関学にはある「何か」を感じました。
それは、「背負っているもの」です。
そしてその大きさが、雌雄を決するような過酷な試合の場で、
大きな差となって出てくるんですね。

この試合、実は後半開始早々、法政がエースランニングバック星野選手の
目の覚めるような独走タッチダウンがあり
その後、関学のパスは法政守備にインターセプトされ、
試合のモメンタムが一気に法政サイドに流れた瞬間がありました。

モメンタムとは「勢い」というか「流れ」というか。
人が意図的に操作ができない、全体的な気運のようなものです。

その後、法政のキッカーが
距離の短いフィールドゴールを外してしまうのですが、
そこで試合のモメンタムが法政から離れた・・・という記事も読みました。
しかし、ことはそれほど単純なことではないと、私は思っています。

先ほど、私は「背負っているものの差」と言いました。

今回の甲子園ボウルでどうしてここまで関学が強かったのか。
その理由のひとつを一言で言えば、
それは「立命館大学」の存在だと思うのです。

ここ6年間、関西の雄である立命館は残念ながら苦杯を喫し、
関学に対して辛酸を舐め続けていますが、
いつの、どの年の立命館を取り上げても、
いつ日本一になってもおかしくないチームです。

そして、その存在が、関西学院をここまで強くしているのです。

関学ファイターズがチームの存在意義として掲げているのは、
フットボールゲームの勝ち負けではないと聞きます。

どういう人間になるのか。
それがテーマであり、つまり「人間教育」です。

私が学生だった90年代前半、関学のライバルは京都大学でした。
京大ギャングスターズに人々は、修行僧のような存在に見えました。
目前のプレーに一喜一憂せず、憎き関学を倒すのだという目標を
たった1秒でも曇らせることなく維持するために、
いつも心を研ぎ澄ませているようでした。

まるで痛みや苦しみという感情を超越したかのように、
恐ろしいまでに一心不乱に取り組むライバルの存在が、
関学をいつも恐怖の底に縛り付けていたと思います。

しかし、だからこそ関学も自分の力以上の努力ができたと思うんですね。
まさに「切磋琢磨」という状況です。
もちろん、その時代、すでに立命館もその実力を本物にしていました。
そして時代が流れ、立命館大学が完全なる常勝チームとなると、
関学を関学たらしめる存在は彼らになったのでした。

今回の甲子園に関して私がとても印象に残っているのは、
関学の大村監督が試合前のインタビューに答えて
「相手が喜んで、こちらが落ち込む。
その差がモメンタムと呼ばれるものだと思う。
そのギャップをなくせば、モメンタムは生まれない」と語ったことです。

フットボールはモメンタムのスポーツと呼ばれています。
どんなに強いチームでも、1試合の流れの中には
中弛みをしたり、集中力を維持できなくなるときが必ずある。

人間には避けられないその瞬間をいかに掴んで手繰り寄せるか。
フットボールゲームの勝敗は
モメンタムの取り合いといってもいいのが普通なのですね。

しかし、「目先の1プレーに一喜一憂しないこと」をいつも心がけて、
常に平常心でいることを心身に染み込ませるという指導が、
この大きな試合の中で「背負っているものの差」として
現れていたように感じました。

それを彼らに強いたものこそが、
ライバルである立命館大学の存在なのです。

甲子園で対峙している2チームには、
実はその背後に、それぞれのリーグで死力を尽くして戦った
他大学のチームすべての存在があるのです。

その自覚を持たなければ、
真のチャンピオンチームとしての資格がないでしょう。
では、そのようなものをどうやって身につけるのか?
関学は特別すごいのか?
きっと、そういうことではないのだと、私は思っています。

私がここで問いたいのは、
個別チームの凄さではなく、「文化」なのですね。
関西では、大学生のフットボールが文化になっています。
甲子園球場は関西学院があるのと同じ西宮市にありますから、
どうしても「地元」という意識も強いでしょう。

しかし、そのような有利不利も含め、
関西ではフットボールが文化になっている。
文化になっているとはどういうことか、というと、
フットボール環境を支えているのが、フットボールを実際にやっている
ごく一握りの人々だけではない、ということです。

関学が勝てば喜んでくれる地域の人がいますし、
それは他のチームも同じでしょう。
立命館だけでなく関西大学も常に強豪ですし、
フットボールの試合内容を見ると、関西では2部リーグでも
相当にレベルの高い、見ていて面白いフットボールをやっています。

高校生もそうですね。

地方に行くと、高校野球の名門チームを、
地元の住民の方々がみんなで応援しているという話を各地で聞きます。
そんな地域の代表となっているチームは、
やはり単なる競技以上の何かを背負って、
日々グランドに立っているんですね。

高校野球は、だから日本で数少ない「文化になったアマチュアスポーツ」
なのだと思いますよね。

そういえば、福島県で夏の甲子園の連続出場記録を持っていた
聖光学院高校のグランドには「不動心」と書かれているそうです。
それはまるで、「モメンタムの存在そのものをなくす」という
関学・大村監督の言葉と同じですね。

そのようなチームが常に行っているのは、
やっぱり「人間教育」なのだと思います。

相手に対するリスペクト。
競技に対するリスペクト。
支えてくれた方々や地域への感謝。
そして、ライバルへの感謝。
自分のためではなく、誰かのために。

みんなのために。

そういうひとつひとつの要素が、チームに競技以上の責任と、
それに応えようとする努力の中からでる「深さ」を生むのだと思います。

多くのメディアはこの試合結果を
「チーム力の差」や「組織力の差」と伝えるかも知れません。

けれど私はこう思うのです。
これは「関西のフットボール文化の差」だと。

おそらく、関東にあるフットボールチームの中で、
宿命的に言葉にできない「何か」を背負っているのは
日大フェニックスでしょう。
巷では様々な意見があるでしょうが、
2017年に学生日本一に返り咲いたとき、
フェニックスには「チーム文化」が復活したように
少なくとも私には感じられました。

しかし、その後の様々な出来事によって、
フェニックスは不安定な環境になってしまっているのかも知れませんね。

私としては、早く安定的な環境を取り戻し、
勝者として相応しいチーム文化を再構築して欲しいと思っています。
何よりも現役の学生たちのために。

そして、そのような「強い日大」がいてこそ、
関東の他のチームも自分らしさの文化化に取り組めるのでしょうし、
その中からチームの存在意義や使命を定義できるようになるのでしょう。

ちょっと偉そうに書きましたが、
来年、関学が地の底に落ちている可能性もあります。
学生スポーツは絶え間ない努力の金太郎飴のようなもので、
永遠に終わりがないものですからね。

関東の大学は、フットボールの文化化に
リーグをあげて取り組んで欲しいと思います。

そのときに必要なのは、残念ながらひたむきな努力しかないでしょう。

相手に対するリスペクト。
競技に対するリスペクト。
支えてくれた方々や地域への感謝。
そして、ライバルへの感謝。
自分のためではなく、誰かのために。

それらが、地域の人々や、フットボールに関係のない
学部生などにも伝わるようになっていくことが
学生スポーツの文化化だと思っています。

そもそも日本という国は「文化化」が苦手です。
経済一辺倒に走り続けてしまった結果、
とくに芸術やスポーツの分野を
文化にする方法がわからなくなったのでしょうね。
これは多くの人が
「他人に興味を持たなくなった」ことが原因のような気がします。

音楽も芸術も、スポーツも、
流行という域を超えて生活に根付くということがほとんどありません。

もちろん政治などもですね。

文化と日本人を考え直すきっかけのひとつとして、
学生フットボールをモチーフにするのも、面白いかも知れません。

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