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子どもの命を奪うということ

千葉県で飲酒運転の疑いのある男性が事故を起こし、
その場にいた児童2人が亡くなり、3人が重症とのこと。

本当にひどい事故だし、痛ましいことです。
事故の直接的な原因についてはまだ確定していないでしょうが、
この日本において子どもの命が奪われるということの意味について、
しっかり考えたいと思います。

前提として、すべての人の命の重みは同じであると私は思っています。
しかし、命の意味は、多少異なる場合があるのも事実です。
(これは決して死んで良い人がいるという意味ではありません)

例えば、数年前に科学者のホーキング博士が亡くなりましたよね。
日本でもつい先日、知の巨人と言われる立花隆さんが亡くなりました。

人間には一人に一個、脳というものがついていて、
人格も、思考力も、この脳によるものであって、その脳の性能によって、
その個体が人類にどれほどの影響を与えられるかは、現実としてちがいます。

ホーキング博士が死ぬことと、私が死ぬことでは、
例えば私の子供たちなどの限定的な範囲では
ホーキング博士より私の死の方が影響が大きいでしょうが、
人類にとってはホーキング博士が亡くなることの方が影響が大きい。

そんなことです。

これは「人権」や「尊厳」の話ではないことに注意してくださいね。
単純に、彼の方がCPUの性能が遥かに高いので、
人類に与える恩恵や影響が大きい、という事実の話です。

さて、人類というのは、今、その存在の危機に直面している状況です。
そうですね。気候変動や格差などの問題を抱えているからです。

そして、それらの問題を解決するには、
今までの人類の常識とはちがう常識をインストールされた人類の存在が必要です。
Z世代と呼ばれる若者たち、そしてこれから生まれてくる子どもたちですね。

彼らは人類を救うために、今までとはちがう解決手段を生み出し、
それを実行していかなければならないという宿命を背負った世代です。
我々はまず、そういう認識を持たなければいけないです。

その上、我が日本は、忘れてはならない
「少子化・人口減少」という大問題を抱えていますね。

人類の課題を解決するのに、新しい世代の人材が必要なのに
その総数が極端に少ないことがもう確定している。
それが日本の現実なのです。

人類がこれからの危機を乗り越えるためには、
ひとりひとりの「質」を高めていかなければなりません。
しっかり考え、正しく判断し、行動できる人材が一人でも多くなければ、
人類はまた誤った道へと進んでしまうからです。

そう考えると、今の人類にとって、中でも日本にとって、
子どもたちと、彼らが受ける教育の質というのは、
本当に重要な、命運を握るファクターなのです。

彼らのひとりひとりに関して、命の重みは老人と同じだったとしても、
命の意味はだいぶちがうのです。
老人は、よほどのことがない限り、これから人類の永続性に寄与しにくい。
しかし、これから脳に情報をインストールする段階の子どもたちには
無限の可能性があるのです。
(老人は死んでも良いという意味ではないです。わかりますよね?)

そして、世代が彼らにとって替わられることによって、
人類はこれからやってくる大いなる危機を乗り越えていくはずなのです。

子どもたちは、その主役であり、ひとりひとりが超重要な人材なのです。
子育てや教育は、そのまま「国づくり」や「時代づくり」そのものなのです。
そんな子どもたちを、成長の途中で失うということは、
人類にとって、あってはならないことなのです。

齟齬なく伝わるでしょうか。

子どもたちの命は、いつだって奪ってはいけないものだったはずですが、
今の時代はその重要性が
人類史上最高に上がっていると考えてまちがいないのです。

そういう目で、千葉の事故も解釈しなければいけません。
これは単なる痛ましい事故なのではなく、
人類全体にとっても大きな大きな損失なのです。

だって、亡くなった子は、将来どのように成長し、
人類に対してどのように影響を与えるか、わからないのですから。
彼らひとりひとりの命、頭脳、心が、
新しい課題解決方法を発明するかも知れないし、
新しい選挙の結果を生み出し、新しいリーダーを生むかもしれない。
いや、リーダーそのものになる可能性だってある。

どんなに少なくても、その可能性はゼロではないのです。
しかし、成長の途中で命を立たれたなら、
そういうあらゆる可能性がゼロに確定されてしまうのです。

わかるでしょうか。

私はここで、子どもたちの命を合理的に考えたいわけではありません。
そうではなく、子どもの命が失われるということの、
副次的な、そしてものすごく巨大な意味と影響について
みんなで共通認識を持っておくべきだと言いたいのです。

最近では、子どもの声が煩いから近所に幼稚園を作るなとか、
そんな大人がいるという話も聞きますよね。

子どもは人類の宝だというのに。
そう思えなくなってしまったとしたら、
それこそ種としての害悪なのではないでしょうか。

子どもたちこそ未来の希望であり、課題解決の無限の可能性そのものなのです。

私は今年50歳です。
私が今から人類に対してできることは、非常に限られています。

せめて、子どもたちの未来が明るいものであるように、
大人にできることはないか?と考えています。

そんなときに、自動車事故で子どもたちの命が失われるというのは、
たくさんの未来の希望を失うことそのものなのです。

亡くなられた子どもたちのご冥福をお祈りするとともに、
怪我をした子たちの1日も早い回復を祈ります。

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