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「仕掛学」から考える広告と教育

最近は、ここに書くことで
頭のエンジンを回しているような気がします。

そもそも考えて言語化することが仕事なのですが、
朝起きて、いきなり本題にはなかなか入れないので。

・・・ということで、お付き合いください。

今日は「仕掛け学」という本を読んで、今思うことを少し書いてみます。



「仕掛け学」というのは
大阪大学教授の松村真宏先生が提唱されているもので、
本のサブタイトルにある「人を動かすアイデアのつくり方」というのが、
もうその本質を表現していますね。

男性の方なら、公衆便所の小便器にハエがとまっているようなプリントや、的(まと)のようなものが貼ってあるのを見たことがありますよね。

あれがいちばんわかりやすい例だと思うのですが、
人が立って小便器に向かって用を足すとき、
そこに的があると「つい」狙ってしまう。

その習性を利用して、利用者が一歩前にスタンスして
飛び跳ねを防止できる最適な場所に射出できるようにする。

そうすることで、利用者にとっては
「図らずも」トイレを綺麗に利用できる。

そういうものです。

私も高速道路の休憩所かなにかで初めて見たときに、
「これはすごいアイデアだ!」と思ったものです。

こんなふうに、本人の意図とは関係なく、
知らない間にいいことをしてしまう。
そんな「仕掛け」について、松村先生は研究していらっしゃるわけです。



この「仕掛け学」の最大の功績は、なんといっても「仕掛け学」という
名前をつけたことだと私は思っているんですね。

最近はよく「暗黙知から形式知へ」なんて小難しいことを言いますが、

要は頭の中でモヤモヤしたものを、
しっかり言い当てられる言葉で言語化することで、

より意識がハッキリとしていくということです。

昔は病気とは思われていなかったものが、
病名ついたことで病気と認識される、
という一連の思考の変化も、そんなもののひとつだと言えます。

人間は意識に大きく左右されるのですが、
意識とは言語によって明確化されるのです。

国会での安倍政権の答弁に対してつけられた
「ご飯論法」もそのひとつですね。
法政大学の上西充子教授がつけたものですが、
名づけられることによって初めて、
問題として世間からハッキリと認識されるようになりました。

話を仕掛け学に戻しましょう。
この本。もちろんとても参考になる内容なのですが、
もう、そのネーミングのインパクトだけで、
いい意味で充分だと思うんですね。

「仕掛け学ーなるほど!!」そんな感じです。

仕掛けを学問にしてしまった発想が、
すでにゴールに到達しているということです。

そうすることで、
自分なりに「仕掛け」に対する考察が頭の中で始まっている。
思考の源泉としてのすばらしい言葉設定だと思います。

さて、その中身でいちばん重要なことは、
「やってる本人の気持ちと行動の意図が、同じではない」ということです。

さっきの便器のハエに関しても、
利用者は「ハエを撃ち落としたい」という気持ちだけです。

しかもそこにゲーム性というか、楽しさがある。
だから「つい」やりたくなる。ここがポイントです。

これはつまり、トイレを綺麗に使わなければ!という使命感などなしに、
もっと言えば、まったくその気のない人、無関心な人に
トイレを綺麗に使わせるという行動をさせてしまうわけで、
本人の意図が関わらない分、仕掛けにかけた労力と効果の差し引きは
非常に大きなものになりますよね。

成功すればものすごく効果が大きいということです。



この手の発想は、実は広告の分野と非常に親和性があります。
広告というのは、そもそもそのことに興味や関心のなかった人に対して
存在を知ってもらい、好きになってもらい、試してもらうという
心理と行動の変容を促すことが目的です。

ほら、「仕掛け学」と同じですよね。

しかし、二つに共通していることとして、
利用者にあまり頭を使わせない、考えさせない、
ということでもあるんですね。

広告の限界として、心理的負荷や行動の負荷が高いものに関しては、
あまり効果がないということが言えると思います。
(これは、「特に日本では」という注釈をつけておきます)

例えば、選挙に行こう!とか、差別をやめよう!
というメッセージを広告で送っても、
まぁ、おそらくあまり効果はないでしょう。

これは、トイレの壁に「綺麗に使ってください!」という
メッセージを書いたポスターを貼っても、
ハエにはかなわないということと似ています。

そう考えると、心理的ハードルが高いものについては、
広告は仕掛けよりももっと力が弱いのかも知れません。

人は、面倒臭いことは嫌なのです。
楽しませてくれないと、嫌なのです。
そこに、広告表現の限界があると思っています。

どういうことか、というと、今、人々に本当に必要なメッセージって、
・・・それは端的に言えば気候変動対策とか、格差の解消とか、
SDGsへの対応なのですが、
恐らく、ちょっと面倒臭い行動変容を伴わないといけないものであって、
それは、人々にとって、できれば避けたい、目を背けたいものなのです。

そういう類の事柄を広告ごときに指図されたくない、というのが
生活者と広告の関係性なんですね。日本では。

広告は視聴者にサービスして、気分を良くさせてくれればいいのであって、
それ以外のメッセージなんか要求していないよ、ということなのです。

それでも、意識を圧倒してしまうほどの物量に晒されれば
人の心は包囲できるかも知れませんが、
それにはとてもお金がかかるし、企業もそこまではできません。

そうなると必然的に、
今の人類が抱える諸問題を解決するには教育から変えていくしかない、
という結論にたどり着くんですね。

課題を自分ごと化する教育です。



今、人類が直面している問題というのは、
ちょっとあまりにも大きく、しかも深刻なので、
図らずも、知らない間に、楽しみながら、
実現できるものではないように思えるんですね。

そのとき必要なのは
「それが必要だと本気で思っている」というマインドです。

企業のソーシャルグッド案件を見ていても、継続性があるのは、
その企業のトップが「個人的に本気でそう思っている」
というものだけです。

スポーツチームのコーチたちは、恐らく全員認識していると思いますが、
例えばその競技である一定以上のレベルにまで到達したかったら、
「知らない間に」とか「図らずも」「いつのまにか」では無理ですよね。

「図らずも」は入り口や、興味をもつきっかけとしては機能しますが、
ある一定上の効果を求めるなら、
やはり向き合って本気になるしかないのです。
比較的到達が簡単な課題なら「楽しんで」だけでもありなのですが、
到達レベルが高いものだと、
本気・自分ごと化なしには達成はできないんですね。

YouTubeなんかでも、
「すぐできる~」という誘い文句が乱れ飛んでいますが、
(そして、そういう動画が数字を伸ばしていますが)
信頼できそうな人は必ず「近道はありません」と言っています。

つまり、広告や仕掛けというのは、
ある一定のものに対しては大きな効果があるかも知れないけれど、

これからの持続可能社会の実現のような課題には、
「意図せず」ではなく、「意志を持った」参加者が必要で、
そのような人材は教育によって育成される、ということなんですね。

メディアを鵜呑みにせず、
自分で考え、意志を持って行動できる人材がいないと、
これからの人類の課題に太刀打ちできないでしょう。
そういう人材は、今の教育から生まれます。

教育が、いちばん大事なのです。

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