#8. ヴィパッサナー瞑想を終えて
こんにちは
今週も週の折り返し、Wednesday Chanceの時間がやってまいりました。修行で6kg痩せたライフパートナーの翔です笑
今日は10日間での瞑想合宿での氣付きや学びをどういったことをやっていたのかを解説しながらお話ししていきたいと思います。少し長くなるかもしれませんが適当にお付き合いください。
ヴィパッサナー瞑想合宿とは何か
10日間といっても最初のオリエンテーションと最後の解散日を合わせると12日間あり、しっかりと10日間まるまる瞑想するような仕組みになっていますので申し込みしたい方は注意してください笑
合宿に参加する経緯などはこちらをチェックしてみて下さい!!
0日目
茂原駅に到着し、そこからバスで30分。到着すると車での送迎があり、10分ほど走ったところに施設はあります。わたしは奥さんとラインをしながら不安を抱えながら車に揺られてました。ここでハプニング発生!!
施設に到着して、最後に奥さんに連絡しようとしたら、電波がもうない。。
心の準備なくして、外の世界との接触が絶たれたところから、わたしの長い聖なる沈黙が始まりました。(聖なる沈黙とは、戒律の一つで10日間、目を合わせる、会釈、会話といったすべてのコミュニケーションを禁止されること)
1日目
4時に起床。4:30分から早速瞑想開始だ。正直普段から全く瞑想を長時間やったことなかったわたしは、1時間も座ってられるかと心配してましたが、思っていた以上に座ることができました!
1日のタイムスケジュールはこんな感じです。
食事はお米、味噌汁、ちょっとした野菜が2食でて、午後は果物1つ(リンゴやキウイなど)が食べれます。
2日目
朝目覚めて思うこと。まだ後8日ある。。。ここでさらにダメージが来るのは10日目で終わりではないということ。10日やって11日の朝7時に解散するからです。この日2名の生徒がリタイアして帰りました。講話の中でも2日目と6日目が一番苦しいといってましたが、わたしの中では2日目が一番辛かったです。ずっと雨が続いていたので外に出ることもできません。休憩中に何をしているかというと2畳の部屋で天井を見つめることしかできません。この日の夕方、わたしはパニック症状に陥りました。閉鎖恐怖症の人が狭いところに閉じ込められたかのように、終わりが見えない孤独を実感したら呼吸が早まり、パニックになりました。ただ、誰も助けてくれません。そしてパニックになろうが泣こうが残り8日という事実は変わりません。呼吸を整えながら、少しずつ現実を受け入れました。
コントロールできないことを考えても心が不安に襲われるだけ
コントロールできる「いま、この瞬間」にもっと集中していこう
3日目
この日は0日目から換算して4日目にして、初めて晴れました。
日光がこんなにも気持ちがいいものなのか。本当に嬉しかったことを覚えています。晴れるとみんな休憩時間に散歩をしだします。
晴れるって気持ちいい、歩けることって素晴らしい。そう心から実感した3日目でした。
4日目
この日から瞑想の方法が変わります。今まではアーナーパーナー瞑想といって鼻腔を底辺に唇の頂点までの三角形に集中して、呼吸を観察していました。今日からヴィパッサナー瞑想です。どうやってやるかというと頭の頂点から足の先までをひたすら観察し続けるという行為を繰り返します。
頭→顔→喉→右肩→上腕→前腕→手→左肩→上腕→前腕→手→首→背中上下
→右大腿部→膝→脹脛→足の先→左大腿部→膝→脹脛→足の先→左大腿部
この順番でひたすら観察していきます。そこの部位に何が起きているか。痛みや痒みは反応するのではなく、ただ起きていることを観察する。簡単に言えば物事を俯瞰する練習みたいな感じですね。
この日は、ヴィパッサナーの日ということもあり、2時間動いてはいけない、目も開けてはいけないという時間が1度あり、汗だくになりながら瞑想しました。
5〜7日目
ヴィパッサナー瞑想にも慣れてきた頃、悟りの境地に対して疑問が生まれました。悟りとは何か、簡単にいえばすべての物事に対して反応せず、俯瞰して物事を捉え、受け入れられること。嫌なことがあっても「いま、嫌なことが起きてるな」という事実を観察する。自然の摂理として生まれたものは消えることを知ってるから受け入れたら消えるのを待つだけ。これがわたしの悟りの解釈です。そのために、反応しない訓練がヴィパッサナ瞑想なんだと思いました。常に何が起きているのかを観察して、反応せずに起きている事実に氣付くだけ。これを繰り返していくと、確かに日常生活にも活かされて感情の浮き沈みもなくなるんだろうなーとも感じました。
でも、それって楽しいこと、好きなことに対しても同じことをしなければいけません。なぜなら、楽しいことや好きなことに反応してしまうと執着心が生まれるからです。執着心が生まれると失った時に渇望します。つまり、反応が渇望を生み、心を汚してしまうという解釈です
故にポジティブにも反応せず、ネガティブにも反応しない。ただそこで起きているという事実を受け入れる。それって無関心ってこと?とも思いたくなるが決定的な違いがありました。それは、愛と慈悲を持ち続けるということです。利己的な思考ではなく、利他的な思考、心を持ち、反応しない。
もしこれが悟りであって、そのための修行だとしたら
それはわたしの求めている境地ではないことに氣付きました。都合のいい解釈ですが、人生に楽しみや好きに反応しなくなったら、それこそ人生に色がなくなるのではないかと思います。きっと悟りを極めると、好きとか嫌いとかそういうレベルの領域ではないのかなとは思いますが、それでもその人生に意義を見出せずに7日目にして方向変換しました笑
生きると生きているは違う
朝目覚める、必要最低限のご飯を食べる、呼吸をして時間が流れる、お風呂に入る、歯を磨く、夜になり眠る
これは「生きる」という事実があるだけであって、「生きている」という実感はありませんでした。
生きているという実感は人それぞれあり、それは自分自身しか答えを知りません。人と会うこと、挑戦していること、食べていること、推し活などさまざまです。
これを日常に当てはめるなら
世の中に怒りや不満しか抱けない人たちは、生きるに該当していて
世の中に喜びや希望を抱ける人たちは、生きているに当てはまります
生かされる人生から生き切る人生にを歩みたい
8〜9日目
最後の二日間は方向性を変えました笑(本当はけないんだけど、、)
どう変えたかというと、何が起きているかという「今この瞬間」を観察するのをやめて、自分の考えたい領域に対してひとつずつを観察し、向き合うことにしました。つまり、2日間、自分に対して徹底的に問いを投げる時間にしたということです。
そんな中で氣付いたことをいくつか共有したいと思います。
本当はもっと書きたいことはありますが
キリがないので、最後にまとめて終わりたいと思います。
(他の氣付きは、また違う記事で紹介します)
生涯の中で10日間も自分と向き合う環境に身を置く経験があるでしょう
誰とも話すこともできない
電子機器を使うこともできない
外部との連絡も取ることもできない
人が最もきっかけになり得る要因
それは「失う」に触れた時、言い換えれば「死生観」に触れた時です
でもそれって意図的に体感することってできないですよね
大切なひとを失いたくないし、自分自身が死ぬような経験もしたくない
「失う、死生観を感じる」これを意図的にできるのがこの合宿です
今回を通しての一番の学びは「有ることは難しい」ということです
家族、仲間、時間、食べ物、環境
何に追いてもあたりまえはないということ
そのことがわかると終わりを意識するようになります
「もしもこれが最後だとしたら」
この問いが自分の人生の質を上げてくれるのかな
最後まで読んでいただき有難うございました。
どんなきっかけの種が見つかりましたか?
もし見つけたらコメント欄にて教えていただけると心から喜びます。
週も折り返しです
あなたにとって素敵な今日であり、週でありますように。
それではまた来週の水曜日に会いましょう。
Wednesday Chanceでした。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?