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読書感想文『世界の中心で、愛をさけぶ』「さらば、愛する人よ」

ネタバレありなので、要注意!——————————————————————
あらすじ

主人公の朔とアキ。2人は、同じ時間を共有し、共に夢を語り、若く、そしてまだ蕾のような愛を分かち合いました。2人で一緒にいる時間は、とって最も幸せな瞬間。そして、私たちは静かに結婚を誓い合いました。しかし、それは突然に訪れました。彼女の病気と、そして、その悲劇的な結末。彼女がいなくなったのは、冬が始まる季節。彼女の失去は、朔の心に深い傷跡を残しました。彼女がもうそこにいない現実は、寒冷な風が朔の中に吹き込みました。

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読み終えた第一声は「ふむ、なるほど」だった。

TVで映画の番宣がよく流れていたのを覚えている。「誰か助けてください!」というセリフがこだまするCMだった。なんでそんなことになってるんだろう?と不思議だった疑問が解けたから、「ふむ、なるほど」という第一声になったわけだ。

感想の第一声としては、軽いように聞こえるかもしれない。この『世界の中心で、愛をさけぶ』が流行っていた大学生のころに読んでいれば、もっと違う第一声だったかもしれない。

だが、40を過ぎたオッサンには、ちょっと青くさく感じ取れてしまったのだから致し方ない。でも、名作だと思うし、ビジュアル化されたものを見ればもっとグッときたのかもしれない。そんなことを読了したあとに感じた。そして、思った。「この状況になれば、「助けてください」というだろうなぁ」って。

主人公の朔とアキの恋模様は読んでいて、とても好印象だった。特にテンポよく進む会話は、高校生らしい若さ溢れるもので、ちょっと懐かしいなぁと思えるほどの描写だ。その若さ溢れる雰囲気に照れ臭さを感じるほど、キャラが立っている。

そして、時が流れるにつれアキの容態が悪化していく。本当ならこの辺りの描写も悲しみを誘うところなのだろう。そして、2人だけの秘密の脱走劇。若いのだ、描写が。描写が若過ぎて、愛を語るには幼過ぎ、恋を語るには重い話となっている気がした。歳をとるのは嫌なもんである。純愛物と素直に読めば良いのに、なにかしら批評的になってしまう。

しかし、もう一度明記しておこう。名作だと思う。その昔、ケータイ小説というのが流行ったのを覚えてる人もいるのではないだろうか。その本格版といった位置付けとして、という条件はつくが名作だと思う。

特に死について考えるところと散骨のシーンは、よく練られたストーリーだと思った。この小説には、2人の女性の死が描かれている。主人公の1人アキと、祖父の元恋人の死だ。2人の死に様は違う。だが、愛する人を失くすという共通点があり、どちらも成就しないというのも特徴的だ。

私はシスジェンダーとして生き、学生時代に結婚をした。結婚後にパートナーが病に伏せ、現在も介護中である。だからこそ、主人公2人の恋愛模様よりも、死や散骨のシーンに目が行ったのかもしれない。

パートナーとたまに話す時がある。「死ぬなら一緒に死のう」と。どちらかが残っても不幸だね、なんて会話をするのだ。朔はどうだったんだろう?不幸ではあるだろう。悲しみの中にいるのも確かだろう。しかし、彼は若い。アキを思いながら生き、そしてかさぶたのようになった思い出を胸に新たな人生を切り開くことができる。暗い話ではあるが、まだ先のことはなにも決まっていない若者だ。心を癒す人にも出会えることができるだろう。未来ある若者だ。その点でこの小説には救いが残されている。

しかし、私とパートナーにはそんな時間は残されていないだろう。だからこそ、先に書いたような会話が為される。

そして、散骨のシーン。ここも考えさせられた。想像してみよう。愛する人の骨を撒くときのことを。

パートナーの遺骨を手に持ったとき、私の心は悲しみと寂しさでいっぱいになるだろう。そこには彼女の優しさ、愛、夢がすべて凝縮されているのだから。しかし、同時に、彼女の人生が一部であり、彼女が私に遺してくれた愛と思い出の象徴でもあることに感謝をするかもしれない。

静かにパートナーの遺骨を空へと散骨する時、私はパートナーへの深い愛と感謝の気持ちでいっぱいになることだろう。パートナーは私の生活を明るく照らし、私を愛し、そして私の生命に意味を与えてくれたのだから。パートナーがいなくなったら、パートナーの愛は私の中に深く刻まれ、永遠に私の一部となったのだから寂しさよりも感謝の気持ちで心が泣くかもしれない。

もし、パートナーが散骨を望むのならば「さらば、愛する人よ」と言葉をつぶやきながら、私は彼女の遺骨を風に任せよあ。その瞬間、私の心は深い悲しみと愛で満たされ、時間が止まる。私の心の中で、パートナーは永遠に生き続けるのだから。

パートナーを失った悲しみは、決して消えることはないと思う。しかし、その悲しみの中にも、パートナーと共有した愛と喜び、思い出が存在する。私はこれからも、パートナーと過ごした時間を大切にし、その愛を胸に生きていこうと誓うだろう。パートナーの愛は、私を強くし、私の生活を豊かにし、私に希望を与えてくれるものになるだろう。そう信じたい。信じられなければ、生きてはいけまい。もう一度だれかを愛することなんてできないだろうから。

「さらば、愛する人よ」、しかし、心の中では「ありがとう、そして、いつまでも愛しています」と小さく小さく囁くだろう。パートナーは私の中に、永遠に生き続けるのだから。

なんか想像したら、悲しさや寂しさよりも感謝をするんだろうなぁと思い始めた。私は世界の中心で、愛を叫ばないだろうとも思った。

ただただ小さく世界の片隅で愛を囁く。私は主人公の朔のように若くはない。そこが本書を読んで、強く思ったことだ。嘆きはするが、叫びはしない。世界でたった1人、愛した人のために囁く。心を込めて囁く。「愛してる」と。

ということで、ここら辺で片山恭一『世界の中心で、愛をさけぶ』の読書感想文を終えようと思う。批評的に読もうと思えば、いくらでも読めるのかもしれない。でも、それは野暮な話だ。

三回目だが書いておこう。読む年齢によって着目するポイントは異なるだろうが、純愛小説として名作だと思う。サクッと読めるのもオッサンだからかもしれないけど、読んで損はしない作品だ。

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