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虫ピンで標本にされるといいぐらい、「世界一ばかな男」 。【物語・先の一打(せんのひとうち)】35

隣の部屋との壁はうすい。

一度は眠ろうとした高橋だった。が、うとうとすると体ごとひっつくように、隣へと持っていかれる。

まるで……
「ゴルフの池ポチャ」とか。
「バイクのコーナー転倒」とか。
「野球のイップス」とか。
「ボウリングのガーター」のように。

全身がひっついていく。耳から隣へとひっついていく。

(「耳をそばだてる」って日本語は、ほんとにあるんだなあー……っ)
歯をくいしばりながら、高橋はとぼけた思考で気をまぎらわそうとした。

ムリだ。
隣へ、隣へと、耳から全身の意識がくっついていく。磁石のようにくっついていく。

隣の部屋との壁はうすい。

布団のすれる音。「……俺がええの……」と泣くようにも聞こえる四郎のあついささやき声。奈々ちゃんの、いつもは鈴をころがすような声が、ひっそりとため息のように。

若いというには幼いほどの男女の一途な気配が、容赦なく高橋の耳から、皮膚から、押し入ってくる。


高橋はがばっと布団をひっかぶった。自分の息が荒い。こういうときには……どうするんだ……どう。どうして自分は、こんな袋小路に自分を詰めた!


……二十歳そこそこで理性の歯止めがきかなくなり、身内に始末されてしまう「峰の先祖返り」たちは、高橋にとって身につまされる切なさだった。

三十六歳を越えては生きられる気がしない高橋より、さらに短い夭折のタイムリミットの中で生きる親友……

初恋の相手が十八歳になったら、もう一緒にいられないだろう親友。
四郎は今、あと一年の秒読み時期にさしかかっている。

どうせ会えなくなるならと、何度も、何度も、何度も自分に恋をゆずろうとした、せつない親友の、わずかなチャンス……

高橋自身が好きになった女の子の初恋だからこそ、初恋どうしの片羽根をもぐような無惨なふるまいは、したくなかった。
四郎にとって最初で最後の恋かもしれないのに。

「どんなに難しかろうと恋をゆずるな」と、四郎をつっぱねた。
難しすぎるのは四郎にとってだけではない。高橋にとってもだった。

ご先祖さまたちのように女性の首を折ってしまうような凶行をおそれて、なるべく近くにいてくれないか、と、秋ごろ四郎はうなだれて高橋に頼んだのだ。

急ハンドルを切ることには慣れている高橋にとって、こんな……ことは……なんでも……ない……はず……だ……っ……た……

いやはっきり言おう。想定外だった。予想してなかった。ここまで生々しい想像は、ぜんぜんできてなかった!

隣の声が、隣の衣擦れが、二十三歳の若い体にひしひしと迫ってくる。

(だめだムリだ)

高橋は、がばっと布団から出た。

灯りをつけ、預かり作業中の東安寺さんの屏風(びょうぶ)を広げて、棚から金箔の保存容器とピンセットを取り出した。中学生のとき、師匠の神林 現(かんばやし げん)にもらったピンセット。ホントは昆虫標本セットのやつだと言っていた。

マスクをして金箔を、あらかじめマークした場所に乗せる。裏箔という技法だ。

ピンセットと金箔は、息が整っているかどうかを求める。
高橋は仕事に没入しようとした。寒いやばい。エアコンの暖房つけようか。いやだめだ、裏箔が飛ぶかも。暖房器具に気が回ってなかった。むこうの部屋においてある。終わった。

高橋はフリースと毛布を体に巻いて作業をつづけた。ピンセットに集中する。まだ息が荒い。落ち着け。おちつけ自分。しずまれ。しずかに。四郎の方が耳がいいんだ。起きてる気配を聞かれたらどうしようもない。そっと。そっと裏箔をのせる。ピンセットで。

昆虫標本の横に、自分を虫ピンで止めておくとしたら……

「世界一のバカ」

ラテン語の辞典をしらべて、そういう命名をしてやる。かすかに防腐剤の匂う静かな静かな部屋に、見世物にしておいてやる。ボルネオの六時虫と、ナナフシと、いっぱいに羽をひろげたモルフォ蝶と同じ部屋に。

なんで好きな女の子をあっさりゆずられてしまわない。一度決めた親友だって、ここまでご先祖ごとが錯綜しているのなら、なんで距離を置けない。
なぜ生涯ひとりの親友なんてほしがった。
いくら頼まれたからって、なんであっさり断って外泊しない。そもそもどうして奈々ちゃんを名古屋へ呼んでしまった。


なんで、なんで、なんで自分はここまで笑っちゃうぐらい自分を追い詰めちゃうんだ!

そっと……そっと、六枚目の裏箔を置き終わった高橋は、それでも耐えきれなくなった。かろうじて箔が飛ばないように処理をしたあと、こんどはティッシュボックスをうろうろと探し、おもむろに自分の……

「高橋ごめん、起きとるやろ?」

ノックの音とともにがちゃっと四郎がドアをあけ、高橋はビクンと飛び上がって「何!」と叫び返した。セーフ……

四郎は本当に泣いていた。その顔を見て高橋は、自分の妄想とは真逆に、どんなにみじめな状況が隣で展開していたかを知った。

「どうした」

「どうしよ俺ほんとに、人にひっつくとおちつかん、人にひっついて気持ちええっていうのがわからん……! 奈々瀬のこと、困らすばっかや……!」

さんざん殴る蹴るをやられたからか。好きな相手に緊張の極みになるからか。まるで因幡(いなば)の白兎が大国主命(おおくにぬしのみこと)に「体に海の水がしみるんです」と泣いて訴えるように、四郎は高橋にそう言った。

「おちつけ四郎……」

自分に言い聞かせていたのと同じように、高橋は息をしぼりだし、声をかけた。

「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!