4. いつか、レモンの木にでも
休日の暇つぶしに近所の山を登っていたら、隣の棟に住むおばあちゃんを見つけた。
それは奇妙なことだった。
近所と言っても車で一時間近く来た山の中でのこと、しかも整備された散策道のないこの岩場で、足腰が悪くて滅多に外に出かけないはずのおばあちゃんが、どうして一人で歩いているのか。
茂みの中をふらふらしているので、わたしは声をかけてみた。元々おばあちゃんは少し耳が悪いので、聞こえなかったのだろう。反応さえしなかった。しかし近寄ろうにも、岩場が険しくて難しい。わたしは途方に暮れた。
付き合いがあったというほどではないし、だが放って行くわけにもいかないし。わたしはしょうがなく、しばらく離れた所から、おばあちゃんを見守った。
小柄なおばあちゃんは白いスモックのようなものを着ていて、足元はなんと裸足だった。いくら暖冬とはいえ、十二月になったところだ。以前よりも痩せて見えたが、肌はもうちょっと張りがあるような印象を受ける。
時々枯草に顔を近づけたり、小石を拾ってみたりするので、その度に口にいれてしまうのではないかと、ひやひやした。元気そうに見えるけれど、人としてあるべき表情がなく、わたしは痴呆という言葉を思い浮かべる。
「すみません、この辺で年配の女性を見かけませんでしたか」
背後から唐突に声をかけられ、飛び上がる。振り向くと、いつからいたのか、男の人が立っていた。
日に焼けた顔とアーモンド製の杖を持っていて、一目で羊飼いだとわかる。野外仕事に従事する者の常で、皺がとても深かった。
男の人はおばあちゃんを見つけると、ああ、いたいた、と軽く息をついた。
あれは隣の棟のおばあちゃんではないか、と訪ねると、男の人はちょっとだけ目を見開いたが、穏やかに微笑んで、「そうですよ」と返事をした。
「元々この辺の出身でしてね、今はうちの方で預かっています」
促されてついて行くと、岩場のすぐ下で、たくさんの老人が徘徊していた。男の人は、老人の群れを率いているのだ、と言った。
誰もが白いスモックを着ていて、裸足で、切り立った岩場を自由に、しかしゆっくりと動き回っている。たくさんの人がいるのに、とても静かだ。楽しそうでも悲しそうでもなく、老人たちは無表情に散策を続けている。
男の人が促すと、おばあちゃんは群れへのろのろと合流した。
わたし達は群れが見える切り株に腰かけて、一緒に少しだけ休憩した。
午後になって、少し涼しくなってきたように思う。保温瓶に入った温かなコーヒーをコッヘルに分けてもらい、わたしからは行動食代わりに持ってきた、チョコレートバーを出して薦めた。男の人は、うれしそうにそれを受け取った。ピーナツ入りの、キャラメルの入ったチョコレート。
「この辺では、老年になると山に返る人が多いんですよ。そういう人たちを集めて、毎日放牧してやる、わたしはそういう仕事をしています」
チョコレートをかじりながら、男の人はにこやかにそう説明した。美しく弧を描く唇の下、糸切り歯が金色をしている。金歯は最近では珍しく、つい目がそれを追ってしまう。
「こっちの女性は弁護士で、その男性は地理の先生、あっちの男性は昔有名な歌手だったそうです」
昔はもっとこういう人が多かったそうだが、最近では風習も廃れ、知られなくなってしまったのだそうだ。最近では、ボケてしまったと誤解されてしまうことも多いらしい。しかし、そういう人間としての退化ではなく、これはどちらかというと、動物的な退行であるのだ、と男の人は言う。
「山に入る老人たちは、言葉を使わなくなります。やがて、食事もとらなくなる。水は飲みますし、山で何かを拾って食べる人も、中にはいるようですが」
話の間、老人たちは誰も群れからはぐれることなく、なんとなくまとまって少しずつ移動していく。
「そして、これという場所を見つけると、群れから離れて、木になると言われています」
だからこの山では、木を切ることはしないのだそうだ。たまに山に登るのは木になった老人をお参りに来る家族くらいで、しかしその場所はまちまちだから、散策道のようなものが一向にできないらしい。
「そんなところに散歩にくるなんて、物好きなんですね」
男の人は笑ったが、それはからかいよりも同情を多分に含んだ、親しみのあるものだったので、わたしも自然に微笑み返すことができた。
濃く、甘く、ぬるいコーヒーを飲み干すと、底に溜まった豆の欠片が、ざらりと舌の上に残る。けれども不快ではないその苦さに、来る途中に生えていた木々を思い出していた。ススキの野原の中で、火掻き棒の引っ掛けられた栗の木や、防風林の中で首飾りをかけていたリンゴの木、など。
そして、わたしだったら果物がなる木になりたい、と願うでもなく思った。
男の人はチョコレートを食べてしまうと、ごみを丁寧に畳んでリュックのポケットに仕舞う。群れはもう先に行ってしまっていたが、老人の歩調なので、すぐに追いつくことができるだろう。
少し外れたところで、ひとりの痩せた老人が、山のふもとの町を眺めて立ち尽くしている。
「じゃあ、わたしはもう行かないと」
男の人は立ち上がり、軽く会釈すると、ごく自然な姿勢で群れへと足を向けた。杖の乾いた音が遠ざかっていくのを、わたしは座ったまま見送る。
男の人が群れの最後に追いついたとき、おばあちゃんが丘の向こうに消えていくのが見えた。
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