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16. 三題噺3


16.1  名前を読んではいけないP
 ペンギンが道を歩いていた。
 中型犬くらいもある大きなペンギンで、別に迷っている様子もなく、通りをまっすぐに進んでいた。それを、周囲の誰もが気にしていない。しかしだからと言って、放っておくわけにはいくまい。わたしはペンギンを抱き上げ、とりあえず警察署に連れて行った。
 入口で事情を説明しようとしたが、忙しそうな係員に止められて、結局すぐに帰ることになった。近隣で大きな事件があったところらしく、人手が足りないのだそうだ。書類を作るにも、拾得物では後回しにされるだろうからやめた方がいい、とその警察官がアドバイスをくれたのだ。
 その代わり、動物保護施設の番号を教えてくれた。そちらの方が詳しく相談に乗ってくれるだろう、と言うので、わたしは素直にペンギンと手を繋いで、家に帰った。
 帰宅してすぐ、メモに書かれた番号をダイヤルする。三回程呼び出し音がして、相手が電話をとった。お役所なのに、こんなにすぐ繋がるのは珍しい。
「すみません、ペンギンを道で見つけたのですが……」
「なんですって? しっ! その名前を呼んではいけません!」
 電話の向こう側にいる女性が、ほとんど叫ぶような声で言った。わたしは驚いて飛び上がり、思わずその問題の生き物を、視界の中に探す。ペンギンはのんきにも、うろうろと家の中を歩き回っていた。
「あの、ペンギンを見つけても、触ってはいけなかったんですか? 何か問題が?」
「だから、その名前で呼ばないでください! 呼ぶなら、Pです。とんでもないことになりますから、人に聞かれたりしないように。すぐに役員を向かわせます」
 女性は慌てた様子で、わたしからこの家の住所を聞き出すとすぐに、挨拶もなしに通話を切ってしまった。すべての疑問は置き去りにされた。呆然と受話器を見つめたが、いくら眺めても無駄なことに気が付いて、台に戻す。
 『ペンギン』と、なぜ言ってはいけないのだろう。
 『とんでもないこと』とは一体何なのか。何にしても、警察でも道端でもわたしはペンギンに声をかけているし、周囲に姿を隠したりはしなかったので、何かあっても、もう遅いかもしれない、と思った。
 そして実際、遅かったのだ。
 悪さをしていたら困るのでペンギンを探しにいくと、拾得物は玄関のドアを見上げていた。鍵穴から何かが垂れている。それは次第に量を増していき、どんどん家の中に入ってくる。マーガリンだった。
 狼狽している一瞬の間に、マーガリンは床の上一面へ、足首へ、そしてとうとうひざの上にまで押し寄せてきた。わたしはペンギンを抱えて風呂場へ逃げ込む。あまりの事態に、思考回路が停止してしまっていたらしい。風呂場は玄関から一番遠いけれど、ドアを閉めてしまえば逃げ場もないのだ。
ドアから再び、マーガリンが垂れ始める。どうやら向こう側はすでに、家中が油脂の海になってしまったらしい。一応換気口や天井を調べてみたけれど、人が通り抜けることなど、できそうになかった。
 まさか、マーガリンで溺れて死ぬことになるとは。
 わたしはペンギンを抱きかかえたまま、これまでの人生を悔い改めた。浮かぶ涙を拭くハンカチのため、ポケットを探ると携帯電話が出てくる。両親に最期の挨拶をしようとしたのに、手が滑って修理工をしている叔父に電話をかけてしまった。そうこうしているうちに、マーガリンは胸まで溜まってきている。もうかけなおす時間はない。
「叔父さん? 突然だけと、もうお別れになりそうなの。さっきペンギンを拾ったんだけど……」
「しっ!」
 電話口、叔父が鋭い声で、わたしの言葉を遮った。
(ペンギン、マーガリン、修理工)

16.2 たぶん画面の左側
 十二月ともなれば、日が沈むのは早い。
 学校から家まで続く、道でのことだ。街路樹はとうに葉を落としていて、寒さに雲ひとつない空がとても澄んで見えた。赤から深い群青へ、あまりに美しい色の配置に目を奪われて立ち尽くしていたら、夜になるのが早かったせいだろうか、星のひとつが滑って転がり、わたしの目の前に落ちてきた。
わたしは何にも考えず、それを拾う。振ってみると、さらさらと砂のような音がする。それを手のうちで転がしながら、家路についた。
 星は若くて青白く、小さいくせに強い光を帯びている。発光はどうやら、電気を食べているためであるらしかった。近づき、そして通りすぎる街灯の全てが明るさを失って、道は後ろから暗闇に飲まれていく。それが自分と星のせいだと気が付いて、わたしは小走りでその場から逃げた。
 当然、家の中でも明かりがつかない。それどころか、電機の全てが機能しない。すっかり日の暮れた冬の家は暗くて寒く、わたしは少し困ってしまう。
 コートを着たまま調べて回り、かろうじてテレビはつけられることが分かった。しかし、明度はかなり落ちている。星をコップに入れて明かりの代わりにし、ソファに腰かけて毛布をかぶった。
 電磁調理器も使えないため、夕食の代わりにパンに固いバターを塗ってかじる。他にすることもなく、テレビのチャンネルを回した。
 星はソファの肘置きにおとなしく乗せられているけれど、忙しなくチラチラ輝くのは、家の中が物珍しいからだろうか。カートゥーンを付けたら、原色の画面と大音量の電子音に、目を白黒されていた。その後は、画面に釘付けになっている。
 それからふと気が付いて、わたしは持っているディスクから、宇宙を舞台にした映画をつけた。こんなに小さな星のことだから、ひょっとしたら夜空が恋しくて心細い思いをしているのではないか、と心配したのだ。
 ファンファーレが鳴り、星がいくつもちりばめられた漆黒の空がテレビに映し出されると、星はコップのふちにかじりついて目を見開いた。そして、次にまばたきした瞬間には、そこを飛び出して、画面の中に飛び込んでしまっていた。
 一瞬にして、家じゅうの電気が戻ってくる。部屋の中には、もう星の姿はどこにも見られなくなっていた。窓から天を仰いでも、さっきの星はどこにもいない。
 多分、プロローグの星空のどこかに、今でも紛れているのだ。
(星、電気製品、テレビ)

16.3 見上げると
 ある朝通勤途中通りを歩いていて何気なく顔を上げたら、大通りに向かって突き出たベランダに、犬が一匹佇んでいるのが見えた。
 犬ははっきりとしたレインボーカラーのパラソルが立てられたビーチチェアに寝そべって、優雅に週刊誌なんかを読んでいる。顔の半分を覆う程のサングラスがとてもおしゃれで、骨格の美しいブルーグレーの肌によく似合っていた。
 あんなふうに一日を過ごしたいものだ。
 ぼんやりその光景を眺めていたわたしは、ちょっと不公平なような、うらやましい気分になった。信号が青になり、架空の小石を蹴るようにして、横断歩道へと一歩踏み出す。
 しばらく経ったある日のこと、仕事から帰る途中に同じ場所を歩いていて、唐突に犬のことを思い出した。
 はたして犬はそこにいた。
 今日は籐編みの大きなロッキンチェアに腰かけて、タータンチェックの分厚いひざ掛けをひっかけている。ここからではよく見えないが、足元には電磁ストーブが置いてあるらしく、オレンジの明かりが布に反射している。犬は完璧な防寒に身を包み、夕日がベランダを照らすほんの短い間だけ、大きなハードカバーの本を膝の上で開いていた。
 そういえば最近読書をしていない。それで、今夜は何か読もうと思って帰宅したのだが、当然のようにそんなことはしなかった。玄関をくぐった途端、疲れがどっと背中にもたれかかってきて、無理やりご飯を食べ、お風呂に入ってさっさと寝た。
 また別の日のこと。
 休日の土曜日だというのに野暮用があって、通勤路であるそのベランダの下を通った。
 両手の紙袋が重たく、疲れていて機嫌が悪かった。人の通りが多いのも気に障る。イライラと信号を渡る途中、そこにあるものに気が付いて、わたしは顔を上げた。
 ベランダには、今度はレースクロスの飾られたテーブルが置いてある。その上にはガラスのシンプルな一輪挿しに、フリージアらしき花が生けられていた。ガラスの立体プレートにはそれぞれ、一番下にサンドイッチ、真ん中にスコーン、そして最後にボンボンやキャンディが三段乗っている。紅茶のポットは白くてまん丸だ。
 優しい日差しの当たる所にイスを移動させたらしい、少しテーブルから離れたところで、犬はシルクハットをかぶって、ゆったりとカップを傾けている。
 ふと、目が合った。
 犬は素晴らしく優雅な仕草で、帽子のつばを少しだけ傾けて、紳士的にわたしに挨拶をした。わたしは突然のことに慌ててしまい、ガサガサ音のする紙袋を手首に下げたまま、とっさにひざを折ってお辞儀を返す。
(犬、ベランダ、本(同時出題))

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。