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17.七面鳥とわたし

 空を覆う雲は薄いのに、妙に暗い日曜日の午後のことだった。
 わたしは外出用のノートパソコンを食卓において、次の原稿の草案を眺めていた。たった数行しか書かれていないそれを、書き足すこともしないまま、ただ薄目を開けて見つめ続けて、もう二時間にはなろうとしている。
 わたしの執筆は趣味なので、興が乗らないのであれば、別に無理をして書く必要はない。締め切りなど存在しないし、読者といえば世界に一人しかいないのだ。
 それは出来上がった原稿を、買い取ってくれる男である。
 出版関係のものではない。本人は否定しているが、所謂アーティストというやつだろう。
 唯一の本を作る、職人なのである。
 芸術家なのか職人なのかはっきりしないか、とわたしの優柔不断に憤りを感じる読者がいるかもしれないが、言い訳をさせてもらえるなら、こういうことだ。
 おそらく歴史的にみても、一冊の書物を成立させるのに、単独の手で行われるということはほとんどあるまい。
 内容を考える者、それを記すための紙や皮を用意する者、複製ならば写生者、それらを本の形にする人あり、装飾によっては別の職人がそれを行う。制作工程の数だけ、人の手が入る。そして最後に、本が本として存在するためには、読者が必要なのは言うまでもない。
 物語ることを除くこれらのほとんどを、原稿を求める男がひとりでこなすのである。
 わたしの書き上げたものを読み、それにあった紙を選び、なければ自分で漉き、様々な色と濃度のインクを使用するための、ペンの種類と取り付けるペン先を選ぶ。写し終わったそれはふさわしい綴じ方で形を整えられ、多くの場合美しい宝石や金で飾られた表紙がつけられる。
 本にかけられた丹精と技工に驚嘆しない者がいるとしたら、それはもう人の心を持っていないのだろう。そしてまた、感性を持っている限り、作品の類まれな美しさに触れないでいるわけにもいかないのだ。
 彼は偉大な職人であると同時に、芸術家なのである。
 すべてが唯一であることに、こだわりを持つ。
 内容は書き写されるときに見たこともない言語に訳されてしまうので、後世読まれることもない。読者も無二だ。
 もちろんわたしの手元には、製本する前の原稿が残っているのではあるが、出来上がった本を開いて見たところでわたしには、それが原文と全く同じであることなどわかるはずもなく、そして正直にいえば、真実を追求する必要はないと考えている。
 男が原稿を読んだ、その感想でもってこうした形を作り上げた。それだけで良いのだ。わたしはわたしの書くものに、そこまで価値があるとは思わない。
 丹精込めて作られたそれらの本たちは、けれど出来上がった途端、制作者である男の寵愛を失う。
 あるものは、引き取られて行く。
 見目は美しくとも読めない本は、おそらく金持ちの好事家が、その立派な書斎を飾るためにでも購入しているのだろう。職業作家でもないわたしの書きなぐりに払われる、男からのありえない原稿代から、それは容易に推理できた。
 本を作る男は、作品制作以外のことに興味がないらしい。
 一等地にある館と呼べるくらい大きな家に、一人で住んでいる。が、一室は作業のための機材と材料で埋まっていて、それ以外の場所はたとえベッドであっても埃が溜まっているほどだ。キッチンの水道を捻ったら、赤水が出たこともある。いつも同じ作業服を羽織り、靴には穴が空いている。
 そういう厭世的態度はひょっとしたら、彼の容姿が影響しているのかもしれない。
 男は七面鳥に似た顔をしている。
 片目まぶたに青い字があり、目頭の肉が長く垂れ下がって、皮膚などないような肉色の肌をしているのだ。薄い唇は顎の骨が変形して嘴のようで、似ているという程度以上にそれと酷似している。鳥が苦手なひとなら、彼へ驚きかつ怯えるかもしれない。
 だからなのか、男は相当に無口なのである。
 名前も教えない、偏屈で愛想の欠片もない彼に、わたしは親愛の情を抱く。
 わたし自身、あまり人付き合いの良い方ではない。生きにくい世界に生まれ落ちた者同士、多分に同情もある。できるならば、仲を良好に保って行きたいと思っている。
 けれども、何もないのに一緒にお茶を飲もうとか、どこかに出かけようと誘うとか、そういう類の友情を育もうとできる社交性がないので、彼の人と話したくなったらパソコンを引っ張り出して文章を書く。
 物語と呼ぶに足る枚数が溜まれば、男の家へ持っていく。
 それを楽しみに、ひたすら文字を連ねるのである。
 シンクの向こう、窓際の椿の枝が揺れ、わたしはしばらくの間、それを眺めた。昨日の大雨が風を運んできたのだろう。
 雨上がりはいつもそうなのだ。
 そのことをいつか、物語に落とし込もうとは思っている。


読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。