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8. オレンジとレモンと


 オレンジを放置していたら、魚が生まれていた。

 地元から町へ帰る途中のハイウェイ沿いにはミカン畑が続いているのだが、そこに無人販売所が立っていたのだ。別にそれは珍しいことではない。流通の問題とかもあって、正規に売りに出せないオレンジを、農家が庭先で一袋いくらで売るのはよくあることだ。

 いつもはそういう場所では買わないのだが、その時風邪気味だったこともあって、なんとなく車を止めた。一袋三キロ入りを手に取り、代金はそこに置いて帰ってきた。

 そして、翌日には一つ二つ絞ってジュースにしたが、その後うっかり忘れてしまっていたのだ。

 朝起きて、キッチンの中に大量の魚が泳いでいた、僕の気持ちを想像してくれ。

 オレンジに卵が付いていたのだろう。冷蔵庫に入れておけばよかったか。だが、耐寒性の種もいると聞いたことがあるから、下手したら冷蔵庫の中も大惨事になるところだったかもしれない。その分、キッチンは床も壁もタイルだから、まだましか。

 その辺の宙をゆらゆらと泳ぎ回っているやつ、殻を破ったばかりでまだひれが乾いておらず、床でもがいているやつ、換気用に少しだけ開けてある窓から逃げだしてすでに向こうの通りへ泳ぎだしてしまったやつ…あたりは強いオレンジの香りが漂っていて、頭痛がしそうだ。

 橙魚はどれも橙色をしていた。これは、寄生したオレンジを食べて育つのだから当たり前だ。ものによっては黄色のまだらもあり、また、緑色の部分もあったりして、僕は擬態の妙技に感心した。ただ、薄緑を基調にしたキッチンでは、補色になって逆に目立つけれども。

 僕はとりあえず何匹か捕まえてみたのだが(橙魚はその丸っこい体形から、簡単に捕まえることができる)、飛ぶ魚を閉じ込めておく方法が思いつかず、結局窓とキッチンのドアを締め切ってそこに放しておくしかできなかった。

 午後には友人が、網を持ってやってきた。

 こいつは農家の出身で、何かの折に橙魚の話題になったことを思い出して連絡してみたのだ。これが正解だった。大きなかごと捕獲器具を携えてやってくると、たちまちのうちに全て捕まえてくれたのだ。

 礼を言うと、友人は逆に助かるよ、と笑った。

「橙魚はオレンジ農家の天敵なんだけど、結構うまいんだ。高級食材ってやつ」

 それで、うちも副業でやってみようかって話してたところでさ。一仕事終えた後のココアを飲みながら、友人はそう言う。飼育を試すいい機会になる、と言われ、迷惑をかけたのではないかと心配していた僕は、少し気が楽になった。

「繁殖が難しいとか?」

「いや、結構簡単に増えるんだそうだよ。なんか、単為生殖っていうの? 親から精子とか卵子を受け継いで生まれてくるから、交尾しなくても増えるとかなんとか」

 ただし、ちゃんと累積したものでないと、やはり商品としての価値は劣るらしい。そして身のオレンジの風味も、手入れされた果実から生まれたものでないと、良くはないのだそうだ。

 そんな話をしながら三時間くらい、ポテトチップとビールを片手にビデオゲームをして、友人は帰って行った。もうちょっと遊んでいたかったけれど、これから祖父をチェスの教室に連れて行かねばならないらしい。

 朝からばたばたしていたのが急に家中静かになり、ちょっと寂しくなってキッチンへ向かう。ビール缶をごみ箱に捨てれば、片付けも一瞬だ。入念に掃除をしたというのに、いまだに柑橘のにおいが漂っている。これは数日経たないと、消えないだろう。

 ふと魚害から無事だった、数個のオレンジが積んであるかごに目を向けると、そこになにか見覚えのない長いものがとぐろを巻いているように見えて、僕は思わず飛び退いた。

 その薄黄色のつやつやした生き物は、僕の動きに驚いたのか、顔を上げた。蛇のようだと思ったがそこまで長くはなく、ほっそりした身体を丸めていたのでそう見えたらしい。後頭部から首筋にかけて緑の筋が入っていて、それが葉っぱに見えたのだ。

 すぐに、レモンから生まれた橙魚だ、と気が付いた。

 朝、床いっぱいにひしゃげて転がっているオレンジの中に、レモンが混ざっていることには気が付いていた。ただ、その時は完璧な形をしていたし、大方袋詰めする時に間違って混ざったのだろうと、さして気にしていなかったのだ。

 それが貧相なレモンだったことが関係しているのだろうか、それは兄弟たちに半日遅れて生まれてきたものらしかった。連れて行かれた橙魚たちよりも細く、一回り小ぶりだ。

 友人は先程出て行ったばかりだ。電話すればすぐに戻ってきてくれるだろう。そうじゃなくても、一匹くらいなら、何かに閉じ込めて持っていけばいい。

 だが僕は、そうはしなかった。なんとなく、そのレモン色の魚が、僕の生活に残ってくれたらいい、と思ったのだ。

 そこで、警戒しているらしい魚を無視して、さもそこにいないもののように振る舞った。かごの方を見ないようにコップを洗い、丁寧に時間をかけて手を拭いた。その間、黄色の橙魚は僕の足元に恐る恐る近寄ってきて、裾をついばんだりするなどした。

 換気用に、少しだけ窓を開けた。

 魚がそれを願うのなら、いつでもここを出ていけるように。

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。