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19.  ベツレヘムの水を飲む魚


 隣人の魚に似た男に誘われて、教会へ聖歌隊を聞きに行った。

 鰯に似た無口な男だがとても気の良い奴で、内気すぎてともすれば陰気だと避けられがちになる僕を、時々こうして誘ってくれる。プライベートスペースに入りすぎることなく、時に少しだけ外出を強いる魚男を、僕は好ましく思っている。

 僕は信者ではないので、教会へは引っ越してきた時に一度だけ観光しただけだが、魚男はよく礼拝にやってくるらしい。

 教会には、普段なら老人くらいしかやってこない。ただ、年末近くになると、近隣の音楽院の学生たちによるコンサートが多く開かれるので、いつもより少しだけ開かれた場所になる。

 小さいけれど数百年の歴史があるこの石造りの建物は、とても天井が高い。大きな柱が何本も立ち並び、それらすべてが一つの石から削り出したものだ。魚男の実家の近くには昔の採石場があり、この辺の古い建物はそこから持ってきた石で出来ているそうだ。あんまり教会を建てるので、今では山一つ、すっかり無くなってしまったらしい。なんとも豪快な話だ。

 この街でクリスマスを過ごすのは初めてだが、ベレン飾りだけではなく、巨大なツリーが祭壇に置かれているのには驚いた。その上、聖歌隊の子ども達は出番を待つ間、オーケストラの“荒野の果て”をバックグラウンドに、神父と一緒にポップコーンとキャンディのレースを作っている。

 楽しそうなので見ていたら、小さな女の子がレモンの飴をひとつ、僕にくれた。僕はお礼に、子ども達の食べた飴の包み紙で、折り紙をいくつか作って返す。セロファンでできた鶴や奴に、子どもたちは嬉しそうな顔を向けた。

 六時からのコンサートは、素晴らしかった。

 正直にいえば、僕には音楽はわからない。でも、さっきまでお菓子を食べたり、走り回ったりしていた子ども達が、きちんとして整列して歌っているだけで、ちょっとした見ものだ。その上、その声の美しさといったら。

 お決まりの“神の御子は今宵しも”で音楽会は終わり、子ども達は神父や指揮者(多分、音楽院の担任教師なのだろう)からまたお菓子を貰っていた。その後はすぐクモの子を散らすような素早さで、しかし楽しそうに帰って行く。子ども達の保護者やオーケストラ楽員がいなくなると、教会の中はあっという間に寂しくなる。

 しかし、その余韻のなさも含めて、僕は音楽会を堪能した。

 どの曲も耳に覚えがあったのはクリスマスコンサートだったからか、とにかくよくはわからないなりに楽しむことはできた。ついでに、さっき折ってあげた折り紙の全てが、床に捨てられて散らばっているのではなく、教会の大きなツリーに丁寧に引っ掛けてあったり、あるいは持って帰ってくれたりしたのも嬉しかった。

 魚男は先程から、知り合いらしい老人と話し込んでいる。どうやらチェス教室に通う仲間らしいのだが、方言が強くて会話には混ざれない。もともと人見知りでもある僕は、一言断って先に教会の外に出た。

 石で出来ている教会の中は言わば天然の冷蔵庫のようなもので、外の方が幾分か寒くないように感じる。もちろん、風が当たれば思わず襟に首を埋めるくらいの気温なのだが、足元から底冷えしない分だけましだ。薪のにおいがする。どこかの家で、暖炉を使っているのだろう。

 教会の前には、お決まりの露店が並んでいた。

 店と言っても机を並べただけの質素なものだ。通常ならばミサの後、信者のためにロザリオだの聖体のカードだの、あるいはなぜかタバコなんかを売っているだけなのだが、今日は子どもが多かったので、おもちゃや焼き栗屋の姿もある。

 実家にクリスマスのカードでも送るか、と冷やかし半分で露店を覗いて回り、ふとその店に目が向いた。

 それはパイプテーブルにクロスさえ引いていない、簡素な店だった。机上には、小ぶりな瓶が沢山並んでいる。ラベルはなかった。

 たった一つだけあるイスに、白い被り物をした修道女が一人座っている。目を伏せてちんまり佇んでいる姿からかなり高齢に見えたが、顔を上げると意外と力強い目をしていて、僕は意味もなくたじろいだ。

「その、何の瓶なんですか?」

「はい、魚ですよ」

 老女は皺だらけの表情が読みづらい顔に、しかし温かな声で答えた。

 手渡された瓶の中には半分ほど水が入っており、魚が二匹泳いでいる。ベツレヘムからきたのだという。特別これという特徴のない、色も地味な銀色の、じゃこみたいに小さな魚たち。

 これをどうするのかと尋ねると、どうもせず、水を飲むのを眺めるだけだ、と言う。ただ、水は毎日注ぎ足さなければならないそうだ。

「飲んだ分だけ減りますからね」

「……水を飲むだけですか?」

「ええ、御子がお生まれになった時も水を飲んでいたでしょう? クリスマスですから、水飲み魚、宜しかったら」

 言語は理解できているはずなのだが、会話が微妙にかみ合っていない。困惑して立ち尽くしていると、先程の老人と一緒に魚男が表へとやってきた。

 魚男は瓶を見るなり、すぐさま三瓶も購入した。あっけにとられる僕の横から、通りすがりの観光客らしい女性も、家族への土産にと一瓶買って行く。

 話のとどめに、老修道女が費用の半分は恵まれない子どもたちへの寄付にします、と説明を添えた。そうなると断る理由も見つからず、仕方がないので一瓶だけ手に取り、代金を払った。

 手に取った瓶が、少しだけ温かい。

「それはもちろん、ヨルダンの水ですからね」

 むしろ当然のことのように、修道女が素っ気なく頷いた。

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。