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『未婚の女』終演

〈戦争と女性〉をテーマに掲げた深作組新ドイツ三部作が、『オルレアンの少女』『アンティゴネ』に続き、日本初演 die unverheiratete 『未婚の女』2023年10月18日〜22日(銕仙会能楽研修所)でいよいよ完結いたしました。ご来場くださいましたお客様、想いを馳せてくださいました皆さま、誠にありがとうございました。

作品の基本情報やおすすめの参考資料は、以前のnote記事にまとめております。こちらをぜひご一読ください。


また、本作を紹介してくださったドイツ演劇研究者の丸山達也氏によるご感想がこちらです。ドイツ語、ドイツ演劇のみならず能にも詳しい氏のフレームを通した連想は、興味深く読んでいただけることと思います。



「おそらく記憶に過分の価値が付され、思考には不十分な価値しか付されていない。記憶することは確かに倫理的行為で、それ自体でおのずから倫理的価値を帯びている。記憶は心の痛みをともなって、死者とのあいだにわれわれが持ちうる唯一の絆である。記憶が倫理的行為であるという信念は、自分が死すべき者であることを知っており、本来われわれよりも先に死ぬべき者たち――祖父母、両親、教師、年上の友人たち――の死を悼む、そのような人間としてのわれわれの本性のなかに深く根づいている。だが、はるかに長い集団的歴史においては、記憶の価値について歴史は矛盾するシグナルを発している。そしてありあまる記憶(セルビア人、アイルランド人などの昔の恨み)が怒りを駆りたてる。和平を結ぶことは忘れることである。和睦するためには、記憶に欠陥があり、記憶が限られたものであることが必要なのだ。」

(『他者の苦痛へのまなざし』スーザン・ソンタグ, 北條文緒訳, みすず書房)




〈思考を促す〉ための演劇

 現代ドイツの演劇表現は、そもそも〈思考を促す〉ためのものがとても多く、登場人物への共感や感動をあまり重視していませんが、作家パルメツホーファーは、なぜ「整理された筋や感情を追う物語」を提示しなかったのでしょう。
 わたしの考えでは、「時間や出来事や感情が錯綜し混乱した状態こそ記憶であり個人史であるから」です。例えば友人と思い出話をしている時、わたしたちは事実やその時に感じたものや考えたことを、時系列に沿って思い出すことができるでしょうか。時に思い込みや思い違いや希望の入り混じる他人の発言、苦しみや喜びといった感情を、正確に把握できるでしょうか。いいえ、できるわけがないのです。できないからこそ、わたしたちは共に考え、対話しなければなりません。

〈難しい〉の正体

 Xなどで感想を拝読しておりますが、ご観劇くださったお客様の中には、まず「難しい!」と感じた方も少なからずいらっしゃるようです。お一人お一人の個人史によって全く異なるはずの〈難しい〉の正体について、ゆっくり考えていただけると幸いです。
 一言で片付けられないことに言葉を尽くし表現を尽くし、共有しよう思考を促そうと試みるのが芸術です。「難しかった!だからもっとわかりたい。もっと知りたい」という姿勢は、とても真摯で誠実だと思います。

 わたしも、このテキストを紹介いただいた時「難しい!」と感じました。わたしにとっての〈難しい〉の正体はまず、パルメツホーファーの文体そのものでした。一切書かれていないト書き。コンマとピリオドのない長い長い一人語り。直訳したのではさらに混乱を深める遠回しな表現。分割、反復、輪唱。そしてポストモダンと作品の関係……など。

 「簡単にわかったつもりにならず、わからなさに耐えて思考を続ける」時、わたしたちの思考の強度が増すのではないでしょうか。世の中には、絶対的な答えのない課題が多くあります。そういう現実に対して諦めずに考え続けるトレーニングに、観劇中や観劇後のしばらくの間だけでも、共に取り組もうではありませんか。今〈難しい〉ことが数日後、ひょっとしたら何年も経ってから、経験を積み重ねることで〈わかる〉こともあるのですから。


わたしが思い出すこと

 『未婚の女』を翻訳しながら、ゲルハルト・リヒターの連作《ビルケナウ》を鑑賞したときのこと、そして曽祖母のことを思い出しました。

ビルケナウ(アウシュビッツ第二強制収容所)の線路
2015年11月20日撮影
オシフィエンチム(アウシュビッツ)の第一強制収容所正門
2015年11月20日撮影



 ゲルハルト・リヒター展で連作《ビルケナウ》を鑑賞したときのこと。その展示室の四方の壁に、捕虜が強制収容所内で隠し撮りした写真4枚、それを描き写して絵の具で塗りつぶしたアブストラクト・ペインティング4枚、そのデジタルコピー4枚、大きな鏡がそれぞれ展示されていました。そこに一眼レフを携えた男が入ってくると、作品を鑑賞するそぶりさえ見せず、一考する間もなく、作品を順繰りに撮影すると、足早に展示室を出て行きました。唯一「撮影禁止」と注意書きされたホロコースト被害者による隠し撮りの写真に対して、なんのためらいもなくカメラを向けられるその男に、わたしは煮えたぎるような怒りを覚えました。

ホロコーストは表象不可能である。そう繰り返し述べられてきた。しかしそれでも、われわれはホロコーストの象徴化をどこかで希求してはいなかったか。いまなお制作され続けるホロコーストを巡る映画、小説、アートにおいて、そうした欲望の痕跡を見ずに済ますことは難しい。しかし繰り返すが、象徴化には副作用がある。「恐れつつも反復を引き寄せる」という副作用が。

斎藤環評「アウシュビッツの換喩」ゲルハルト・リヒター展
https://artnewsjapan.com/story/article/37


 第一次世界大戦が始まる1914年に生まれ、2017年に他界した曽祖母のこと。彼女は関東の片田舎で生まれ育ち、子どもの頃は都内へ奉公に出され、戦前に結婚した夫を病で亡くし、戦後再婚した相手はシベリア抑留からの帰還兵でした。この血の繋がらない二番目の曽祖父のエピソードを聞く限り、戦争や捕虜生活によるPTSDの影響は大変大きかったようです。
 曽祖母は一番目の夫を亡くしたため、戦中から戦後数年にかけて、女手一つで祖母を育てました。今も残る賃金格差や、当時女性に許されていた労働を考えれば、当然働き詰めで、実際の子育てはほとんどできなかっただろうことが想像できます。曽祖母の場合は洗濯屋をやっていたそうです。わたしが見ていた限り、曾祖母と祖母の母娘関係は決して良いものではありませんでした。
 本公演期間中は、死後にたんすから見つかった曽祖母の羽織のいくつかを、コーディネートに取り入れました。今回は着ていませんが、「生前着ている姿を見たことがない」と親戚が言うような、田舎の女性には珍しい派手な色使いの羽織も見つかっています。農家の娘であった曽祖母が、戦後ある程度のお金を手に入れた時、どんな思いで(親戚の記憶では着ることのなかった)派手な羽織を作ったのでしょう。わたしは勝手に切ない気持ちになります。



ポストモダンの歴史認識について

  post=~の後、modern=近代、つまり近代以後を意味します。近代においては科学・合理精神が人類を幸福に導くと信じられていましたが、環境破壊や世界大戦、格差の拡大などを経て、そのような人類共通の〈大きな物語〉共同幻想に不信感を抱いているのが現代である――とするのがポストモダニストたちだそうです。現在も芸術、哲学、社会学など様々な分野がポストモダンの思想的潮流にあるとされていますが、『未婚の女』に最も関わりが深いのはその歴史認識でしょう。
 ポストモダニストにとっての過去とは、残された多様なメディアの集積であり、資料的〈記録〉によって正しく証明され理解されるような〈真実〉ではありません。観察不可能な過去の正確性を測ることはできないのです。例えば、20世紀に全体主義と結びついて起こった極端な出来事(ホロコースト、原爆投下……)の〈記録〉は、権力側の歴史、勝った側の歴史だとされます。このような極端な出来事は人類にとってあまりにも重大すぎるため、向き合うのが難しく、絶対的な答えなどありはしないのです。その出来事が〈歴史〉の中へ消えてゆき、すでに慣らされている現在、重視されるべきは、当事者の経験による感覚や傍観していた社会にとっての意味なのです。
 しかし、このような歴史認識は司法の場では大きな問題となります。真実が一つでなく、複数の真実が同時に存在し得るのならば、行為に対する責任を追求できるのでしょうか?兵士が処刑されたのは事実ですが、果たしてその経緯を〈記録〉と〈記憶〉により正しく再現できるのでしょうか?
 『未婚の女』の世界初演は2015年、日本初演の今は2023年です。小さな物語の乱立により、真実性や客観性ではなく個人的で主観的な感情や熱狂が重視されるポスト・トゥルースを経て、データや統計といった〈記録〉を重視するエビデンス主義の言説も頻繁に目にする昨今。これから我々は〈記録〉と〈記憶〉にどう向き合うべきなのでしょう。

参考資料
・ヘイドン・ホワイト(吉田寛、立命館大学「物語と歴史研究会」訳)『ポストモダニズムと歴史叙述』、2010、http://www.arsvi.com/2010/1007hw2.htm
・大戸千之『歴史と事実ーポストモダンの歴史学批判をこえて』、京都大学学術出版会、2012
・ジャン=フランソワ・リオタール(小林康夫訳)『ポストモダンの条件』、水星社、1986
・Feuchert,S., die Unverheiratete ; Anmerkungen, S.Fischer Verlag, 2022



オーストリアの戦後裁判

 オーストリアの戦後裁判で有罪となった一般市民は、マリアだけではありませんでした。下記の引用にもある通り、マリアが住んでいたオーバーウスターライヒ州とウィーンだけで、13,607人が有罪判決を受けています。

 1945年から1955年にかけて、ウィーン、グラーツ(レオーベンとクラーゲンフルトを含む)、リンツ(ザルツブルク、リート/インクライスを含む)およびインスブルックの人民裁判において、136,829件の予備審理と予備捜査が行われた。計23,477件に判決が下され、13,607件が有罪判決となった。

ドイツ語wiki "Volksgericht" より抜粋、拙訳
リンツがオーストリア北部オーバーウスターライヒ州の州都


 その他、下記に当時の裁判の状況がわかる資料を引用します。

占領の終結と脱ナチ化への影響
 人民裁判所は、1955年にオーストリア国家条約が締結され占領軍が撤退したのち、1955年12月20日の憲法により廃止され、ナチ犯罪の訴追は参審裁判所に委ねられた。1945年の選挙後にSPÖオーストリア社会党とÖVPオーストリア国民党の大連立の発議で人民裁判所を解散させようとしたが、連合国評議会によって阻止された。その結果、誤った判決や参審員の法律の錯誤による判決の撤回などが起こった。
1957年、オーストリア議会が新たなナチ恩赦を決定したため、訴訟手続きが停止され、ナチによる犯罪を矮小化する傾向が強くなった。

ウィーン市提供の公式歴史HP Entnazifizierungの項目より抜粋、拙訳
https://www.geschichtewiki.wien.gv.at/Entnazifizierung


 「ウィーン人民法廷/裁判」は第二次世界大戦後の連合国占領下(1945-1955)、国民社会主義者と国民社会主義の犯罪を裁くため、「脱ナチ化」の過程で1945年に設立された。その法的枠組は、禁止法と戦争犯罪法によって規定された。…

 …1945年4月以来、オーストリアの行政のみならず、司法も連合国の占領下で新たに整備された。司法は1945年5月15日から始まり、同年7月3日より新たな裁判所法が施行され、1938年以前の裁判組織への復帰が認められた。もっとも、連合国各占領地において司法の扱いは同じでなく、仏軍、英軍、米軍に占領された地域と違い、ソ連に占領された地域とウィーンでは占領軍による司法行政への介入がなかった。従って、ウィーンにはロシア軍による公式の裁判所がなく、西側連合国の裁判所と同様にオーストリア裁判所が平行して刑事裁判権を行使していた。…

 …ウィーン人民法廷はウィーン地方(州)裁判所 Landesgericht 内に置かれた。しかしながら、ファボリテン区裁判所 Bezirksgericht など、他の裁判所でも審理が行われた。未決囚は州裁判所第一庁舎内のいわゆる「灰色の家」、ファボリテン区裁判所、旧州裁判所第二庁舎、フュンフハウスに収容された。…

 …人民裁判所の業務に当たる者は「政治的に前歴がない」ことが前提条件だった。裁判官、検察官ともに、NSDAP党員でないこと、あるいは他の点で申し分のない者でなければ許可されなかった。ゆえに、必要な数の裁判官と検察官を任命するのは困難であった。加えて司法領域における脱ナチ化により、ナチ党員やNASDAP関係者が職務を解かれたり外されたりした結果、全般的に人員が不足していた。…

 …特例法の正当性、犯罪者訴追の怠慢と遅延、容疑者の故意の選別の疑いなど、人民裁判権は様々な面から批判された。ウィーンでは計52,601件の訴訟手続きが行われた。内13,561名が起訴され、その内11,230名が判決を受け、6,701名の被告人が有罪となり、4,529名が釈放された。…

ウィーン市提供の公式歴史HP Volksgerichtの項目より抜粋、拙訳
https://www.geschichtewiki.wien.gv.at/Volksgericht_Wien


最後に

 深作組の公演に際して毎回お伝えしていることではありますが、本作を体験してお一人お一人が感じたこと、考えたことを大切に、できるならお友達と共有し、深めていってください。そうして作品は際限なく成長してゆきます。作品の読みは一つではなく、開かれているからこそ豊かなのです。今回の上演に関しても、わたしの読みとは必ずしも同じではない4人の母娘と、4人の姉妹たちが生まれました。演出家や俳優、美術や照明や音楽が、何よりお客様が、自由に読み解ける開かれた言葉を、演出の深作さんと共に作れたことが誇らしく、嬉しいです。
 上演のたび、異なる情景が浮かび続けます。演出意図がどうであれ、最後のウルリケから見えるものも、毎公演、違うものでした。

 かつて歴史といえば「戦争史」であり、今も昔も「大きな出来事を歴史として書き残す」のは権力を持つ一部の人間(特権的地位にいる一部の男性である場合が多い)です。その大きな物語の中からこぼれ落ちる個人史こそ、わたし達〈ふつうの人々〉の言葉です。「わたしはこう考える」と主語を自分にして、自分の言葉で考えて語ることを、一緒に続けられたら嬉しいです。


補足

1、第二次世界大戦時の軍法会議による死刑判決と処刑数
  ドイツ19,600(陸軍のみ、民間人も含む)人。米国 146人。英国40人。今回日本についての資料は詳しく調べていませんが、昭和19年だけで5,000人以上、との記述を見ました。

2、上演台本はパルメツホーファーの著作権料の関係が難しく、今回は販売できなかったのだと推測します。〈記憶〉と〈記録〉を大切にしてくださいませ。『オルレアンの少女』はシラーの著作権保護期間が終了しています。

ドイツで観られるお芝居の本数が増えたり、資料を購入し易くなったり、作業をしに行くカフェでコーヒーをお代わりできたりします!