フィルムってなんでいいんだろう
冬、本番
どうも、とまれです。
気まぐれで記事を書いているので更新頻度がめちゃくちゃになっているのだが、今回はちょっと思ったことを忘れないようにと筆を執っている。
記事を書いている現在は2月半ば、実は大学なんてとっくに終わっているはずなのだけれど、留年ギリギリでうろついている自分はまだまだ春休みではない。
周りの春休みに突入した人間たちを横目に課題をしばき、再試に向けて勉強している。
が、しかし。やる気が出ないのも事実。留年がかかっているというのにびっくりするほど危機感がない。由々しき事態だ。
おかげさまでこんな記事を書いているわけで、この先こんな様子で社会に適合していける気が全くしない。
名前は春休みとなっているがどこが春なのだろうか。
少し寒すぎやしないか。
話を戻そう。今回書は最近現像してきたフィルムの写真をちょくちょく出しつつ、なんでフィルムが今再燃しているのかということについて書いていこうと思う。
Canon Ⅳ Sb改を使う
本体
使っているカメラは上記の通り。レンズはSerenar 50mm f1.8 I である。
いわゆる有名なフィルムカメラとは程遠い。なぜこれを選んだかの理由としては、とにかくかっこいいからだ。
調べていただければわかるのだが、見た目が初期のLeicaに似ている。
昭和中期にCanonが全精力を上げてLeicaに近づこうと頑張った結果できたいわゆるコピーバルナックの名作である(らしい)。
完全機械式なので、電池を使わずに済むのは非常に良いところなのだが、何から何まで全部マニュアルというのはなかなか厳しい。
普段からデジではマニュアルを使っているが、デジはシャッタースピードはダイヤルですぐに切り替えられるし、何と言っても流石にフォーカスはオートである。
ただ、こいつはレンジファインダー式のマニュアルフォーカスである。
スナッパーとしては撮りたいと思ったときにすぐに撮れないのはなかなか致命傷である。
しかし、そこが良さともいえるかもしれない。
レンズ
レンズは比較的癖のない、使いやすいレンズな気がする。
そんなたくさんのレンズを使ったことがあるわけではないが、今のところ不自由はしていない。
F1.8のボケもきれいで非常に気に入っている。
フィルムの良さとは?
不自由さかもしれない
以前のNoteにて、フィルムの良さとは不自由さであるという風に書いたのだが、それも実際そうであると思う。
改めて書いておく。
フィルムというのはデジタルと違ってランニングコストがかかる。
しかも物によってはフィルムの装填がめんどくさいし、上にも書いたがフォーカスがマニュアルだったりする。
しかしこのある程度制限された状態で写真を取るのはそれはそれで楽しい。
今のこの社会は "写真を撮る" という行為があまりにも軽くなっている。
スマホを取り出してカメラアプリを立ち上げ、画面をタップするだけで写真が撮れる。なんて簡単で素晴らしいのだろう。
ただ、簡単になっている反面、写真の持つ良さも薄れていっている気がするのだ。
人間というのは愚かな生き物で、喉から手が出るほど欲しかったものでさえその供給量が増えたとたんにいらなくなるのだ。
大量に写真がとれてしまうと一枚一枚が適当になり、その写真をあとで見返すはずもない。
昔は撮った写真を現像、もう少し時代が進むとデータをプリントアウトして、アルバムとして、物として残していた。
今はどうだろう。写真にあふれたこの世の中でわざわざ若者がアルバムを作ろうと思うだろうか。絶対に思わない。自分も思わない。
しかしここでフィルムカメラやチェキが登場する。
一枚一枚にお金がかかっている、時間もかかる。
ないがしろにするわけにはいかないのだ。この一枚を。
一枚の重みを感じられる、という点はフィルムで写真を撮る時の良さの一つであると思う。
記憶がトリガーな気がしてきた
もうひとつ、最近フィルムを良いと思う理由を見つけた気がする。
それは、描写力だ。
フィルムの描写力は、いくら高画素プリントしても今のデジタルカメラには到底及ばない。
しかし、そのフィルムのざらつきであるとか、少し掠れた色味であるとかがフィルムのいわゆる良さだとよく言われている。
じゃあ、なんでそれがいいの?と聞かれて答えられる人はいるだろうか?
案外少ないんじゃないだろうか。
最近、これに対する答えの一つを見つけたような気がするのでここに書き記しておく。
それは、見出しにもあるが、記憶とリンクするからではないだろうか。
エモいってなんだ?
フィルムやチェキといった解像度の低い写真に対してよく使われる評価で、"エモい" というのがある。
いわゆるエモーショナルである、というのを略したエモい、だが、エモーショナルであるというのはどういうことなのか。
その名の通り、感情が動かされるからだろう。
さらに日本語特有の表現を使うと、"懐かしさ" の一種ではなかろうか、と僕は思う。
つまりフィルムに対する "エモい" とは、過去の記憶が呼び覚まされて懐かしさを感じる、ということではないだろうか。
じゃあなんで記憶が呼び覚まされるのか、
これについては解像度が関係してきそうだ。
突然だがこれを読んでいる方には、昨日のことを頭に思い浮かべていただきたい。
できれば詳しく映像で。
何でもいい。仕事してたでも遊びに行ってたでも学校にいたでもYoutubeしか見てないとかゲームしかしてないとか飯しか食ってねぇとかでも何でもいい。
さて、その映像ないし画像はどれほど鮮明だろうか?
高級一眼カメラで撮ったかのように高画質な思い出だろうか?
違うはずなのだ。
人間の記憶はそんなうまいことできていない。
友達の顔は思い出せるけど背景は覚えてない、とか、話の内容思い出せるけど何喰ってたっけ、とか。
人は昔の記憶を思い出して "懐かしいな" と思う時、その映像ないし画像は必ず不鮮明だ。そこだと思うのだ。ポイントは。
過去の写真を見てその写真があまりにも解像度が高すぎると、頭では記憶と写真がリンクしあの時だ、と思い出すことはできる。
しかし、気持ちの部分で解像度が高すぎる事への違和感というのが少なからず存在してはいないだろうか?
そこの気付きさえもしないような違和感をぴったり埋めてくれるのがフィルム、ということになるのだと僕は思う。
不鮮明であるが故に記憶とリンクし、より感情を動かされる。
これがフィルムで撮った写真の良さではないだろうか。
まとめ
今回はフィルムがなぜ若者に再び人気が出てきているのかということについて考えた。
一つは、一枚一枚にかける思いが大きくなるという撮るときの良さ。
もう一つは、低解像度、色合いのかすれ具合が記憶と調和し、"懐かしさ" が産み出されるという撮った後の良さ。
この2つだ。
もちろん他にもあるだろうし、これが絶対正しいとも思わない。
ただ、僕の周りにいるフィルムアンチになんでフィルムがいいの?と聞かれて、実際そういえばなんでいいんだろうと思ったのでこのように書き記している。
誰かの何か参考になれば幸いです。
改めて。
フィルムは、いいぞ。
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ではまた次のnoteで。
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