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つよいとは

昔からずっと持っている感覚があって、それは、生物(性物)として当たり前にある「つよさ」が私にはない、ということだ。
愛情は深いほうだけど、性愛ということにあまり気持ちが傾かないように常にコントロールしている自分がいて、これに関しての「衝動」のようなものを恐怖体験のように思っている。これはアセクシャルだという主張ではなくて、私の理性のブレーキが死ぬほど強いという話だ。
だから、どんなに仲のいい相手でも。そうした「無自覚な(特に)女性性」を目の当たりにする時、喉の奥がギュッと締まって、苦しく思う。自分の生(性)物としての弱さを目の当たりにするからだ。

あ、わかりあえない。
そう感じる(人が100%わかりあうことはないので、その感覚自体は別にこのとき以外にも感じるものであるが)。

だからこそともいえるが、日々叫ばれる痴漢体験にも変質者体験にもあったことがないし、ジェンダーロールとしてのセクハラは受けても、それを言い返し相手を倒すだけの実力もある、ともいえる。これは非常に好ましい話だ。羨ましくさえ思われるだろう。

正直なところ、今の私は社会的に「弱い」存在では決してないだろう。個として立派に存在し、生きてもいる。様々な依存関係にあり、メンタルが弱くても立ち上がれないほどじゃない。
それでも、こうした生物としての弱さがじりじりと心に迫る時、はやくこのいのちが終わればいいのに、となんとも馬鹿げた刹那的な気持ちに苛まれる。

いつだか達観するときがくるのだろうかと思いながら今のところその兆しはない。
私は最近自分のいのちを60きっかりぐらいで終わりにしたいなと考えているけど、そう思えばもう人生半分は過ごしてしまった。心に大きな漬物石を置いたまま、今日もずぶずぶと泥の中にいる。


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