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月のかつら

日本時間の朝5時ごろ、祖母が逝った。ちょうど、わたしが眠りに落ちる頃だったと、あとから知る。享年95と書けば彼女はまぎれもなく大往生で、事実これ以上彼女は生きるつもりもなかっただろうが、私は祖母がもしかしたら本当に120まで生きるのではないかと思っていたから、彼女が息をしない世界にしばらく慣れそうにない。

祖母は家具屋の娘だった。裕福な家に生まれ、「粋」を見て育った。軍人の家に生まれこれに肌の合わなかった祖父がいたく感動したそうだ。
祖母は昔、病弱だった。幼い頃は病弱で、そのために毎日腕に注射を打っていたから、腕だけがぶくりと膨れていた。
祖母は俳句をしていた。あの高濱虚子に数回会ったこともあるそうだが、若かった彼女にはただの禿げた狸のようだったと笑っていた。師の杞陽を慕った。彼の命日は、偶然にも、母の誕生日となった。
祖母は洋裁師だった。誰かに習ったわけでもなく、田舎には自分の着たい服が売っていないという理由で独学でそれを生業とした。最後まで彼女はお洒落であった。私のクローゼットが黒で埋め尽くされているのは、祖母の影響もあるだろう。
祖母は祖父の妻だった。祖父はとびきり賢かったが、文弱で偏屈で、家族には迷惑をかけたらしい。生活を支えた祖母は、それでも毎朝のレモンティーを意地でも欠かさなかったという。当時、まだレモンは高かった。

出国するとき、もう会えないかもしれないというようなことを言う祖母に、本気で「私がたとえ5年後に帰ってきたとしてもまだ生きているよ」と笑った。まさか、本当に、もう会えないことがあるなんて。
出国直前、春彼岸に祖父の墓を参ったとき(27回忌があったのは昨年のことだ)、山の上にあるお墓に祖母はたどり着けなかった。あの日、たしかにいつもより少し元気がなくて、祖父に「もう行かないからね」と笑った祖母のことを、なんだか不思議に思った。大好きなご飯を、最近よく食べられないといったことも。彼女は高齢であったから、ここ数年体調の良し悪しには波があった。だから私はこのときの不調を、いつもの一過性のものであると捉えた。
けれど、そうではなかった。5月に祖母のがんが見つかって(ちなみに、祖母はもう13年以上別のがんを患っていた)、それがステージ4と聞いて、驚くと同時に涙が止まらなかった。それでも、それでも。生命力の強い祖母なら、まだもう少し生きるのではないかと、そのときですら往生際も悪く思っていた。

実際はあっという間だった。本当に。見つかって、わずか2ヶ月だ。いや、医師は、3ヶ月から6ヶ月の間に、なにかはあるだろうと言っていた。それは正しかった。残念ながら、正しかった。

祖母は長年叔父の家に住んでいたが、介護が必要となると、私の実家に越してきた。現在の在宅介護というのは非常に進んでいて、ケアワーカーも医師も本当に親切だったと母は言った。すべてのお世話を彼・彼女らが行い、「ご家族はただ素敵な時間をお過ごしください」と。高齢化社会を支える彼・彼女らには頭が上がらない。

祖母は、先立つ友人たちをいつも、悲しみの反面、羨ましい気持ちで見送っていたように思う。だから、これ以上の治療を望まないことは当然であった。私は異国の地から写真を送り、何度か電話した。ギリシャの魔除けのお守りも送った。
少しずつ弱っていく彼女を見るのはつらかった。それでも、今は、もっと電話すればよかった、と思うし、やっぱり夏の間に一度、日本に帰国すればよかったのではないかとも、思う。全ては、後の祭りだ。いつもそう。

祖母は、私の味方だった。ずっと。親戚にしてみればほんの少しずれた幸せを追う私をいつも買いかぶった。その買いかぶりがいつも、私の支えであった。

祖母は5年前、足を骨折した。このときおりた保険が思ったよりも多額で、彼女は気を良くして新しくスマートフォンを購入し、LINEを始めた。90歳を越えてからLINEを始めるなんて、本当に誇らしいことである。
この1ヶ月は、そのスマートフォンを持つこともつらかったようだが、7月の間はLINEをすれば返信があった。「きっと合格しますよ!」。これが、ほとんど最後の返信だ。私が、海外の大学院を受験しようか迷っていると書いたときのことだ。祖母は最後まで、私のことを応援してくれていたし、この先ずっと、そうなのだろう。それはきっと、生きていようがそうじゃなかろうが、関係のないことだ。ほんの1年前までひとりでどこまででもいけたその健脚で、海をこえて私のことを見守ってほしいと祈っている。

LINEといえば、シチリア島からLINE通話できたこと、あれは本当によかった。彼女にあの明るくて蒸し暑い、真っ白な教会を見せてあげられた。
4年前、彼女とはイギリスにさえ行った。キューガーデンの虚子の句碑を一緒に見た。

ああ、まだこの世にこんなに悲しいことが残っていたんだな。
母は「そんなに悲しまないように」と言ったけれど、土台無理な話である。朝から泣き通しているけれど、しばらくは思い返すたび泣いてしまうだろう。
でも、ここまで生きていてくれたことに感謝しかない。ありがとう。どうか、そちらでもお元気で。

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