見出し画像

「何者かになる」ということ

仕事をやめてから早いもので早4ヶ月。海外に来てからはおよそ3ヶ月。語学学校も残り9ヶ月になっていきます。Time flies! あっという間です。

次のキャリアのことを何も考えてはいないんだけど、ひとつだけ決めていることがあって、それは「もう裏方には回らない」ということです。

仕事を辞めるまでの4年とちょっと、エンタメ・クリエイティブ系の仕事をしていて、割と0→1で「ものを作る」ことをやっていました。商品然り、企画然り……。元々人気のある業界で、数字が出ることというのはつまり「下駄を履かせてもらっている」状態であると十二分に理解していますが、とはいえ自分がやったことはそれなりのことだと思っています。
ただ、事情があって、「これは私がやった仕事です」ということを言うことはできない状況にありました(もちろん辞めてしまった今はなおのこと)。もちろん転職活動時などある程度秘密が確保される状態ではPRとして使えるのだろうけど、That's it. 諸手を挙げて「これめっちゃおもろいから見てくれ!」と私からは言えないのです。

率直にいって、「おもしろくない」。
心の中のキッズがずーっと叫んでいたことでありました。

これは批判や言い訳ではないんだけど、最初に「何者にもならない」ようにしてきたのは、私の大好きな母であったような気もします。というより、「何者かになる」ような人物が、当然自分の子どもにはいないだろうという基本的な考えのもと、つねに教育されていました。
私も受験に失敗してからは、その考えをすんなりと受け入れるようになりました。ああ、私はスーパーマンではないんだな。とくに優れている箇所もないんだな、と。
……いま書いていて改めて思いましたけれど、当時受験(学歴)というものがそれを納得させてしまうほどに私(あるいは母)の中で重たいものだったのだと感じます。

もちろん悪いことばかりではありません。私はそのおかげでたくさんの視野を手に入れたし、食うに困ったことはないし、本当に感謝しかありません。

また、(これも教育の賜物なのかもしれませんが)私は「縁の下の力持ち」にとても憧れています。何も言わなくてもさっとサポートできる人、心の底からかっこいいと思う。誰からも感謝されなくても献身的に働ける人もまた憧れます。

けどね、自分は全然そうじゃない。そのことを、32年間かけてやっと認められるようになりました。
いや、だってダサいじゃないですか。「自分がやったことを見てくれ!褒めてくれ!」って主張して、褒めてもらいにいくの。何もいわなくてもできたほうがかっこいいじゃないですか。
でもね、残念ながら自分はダサいんですよ。やってきたことを自分の仕事だと認識してもらわないと気がすまないんです。全然献身的な人間でもない。それを、やっと引き受けることができました。

最近、ちょっと有名な人の講習を受けていて(※変な話じゃないです。笑/英語を勉強しています)、それに入るのにそう安くはないお金が必要でした。で、それでいくらぐらい稼いだのかな~と単純計算してみると、まあ、一人で稼ぐには相当まとまった額なんですよね。もちろんその講習を開くのに、蓄積したスキルや、有名になるまでの投資や勉強、ブランディング、その講習自体にかかる費用等など、いろんな過程があったことは理解していますが、ああ、「何者かになる」ってこういうことだよな、と思いました。
つまり自分の名前が誰かを呼ぶキーになって、それにまとまったお金をぽんと払う人がn百人いて、合計いくらになるっていう。それはとてもシンプルで気持ちのいいことだと思いました。私もそうなりたい。何の分野でそうなるのかはよくわかっていないけど。

今でも見返して、自分のつくった企画はおもしろかったと思う。商品は、イベントは、素晴らしかったと思う。
今度は自分のものとして発露できますように。


余談ですが…、
出国前に母と食事にいって、「自分の名前が出る仕事がしたいと思ってる。すごくダサいんだけど」と言ったら、母は「それって自分で責任取れるってことでしょ?皆ができることじゃない」と言いました。その一言は、私にとって大切で尊いものとなりました。賢い母のもとにうまれて幸せです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?