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はしごを掛けてくれる人

自分の内なる可能性に梯子をかけてくれる人というのはいるもので、私の場合は2021年から2年ほど習っていたピアノの先生がそうだった。
どういうわけだか見る目や聞く耳だけが発達した私は、自分のピアノが頭打ちであることを割と早い段階から理解していて、一度はそれでピアノをやめたし、まあ趣味で続けるならそれもよしとまた再開したほどにはいい加減だった。
しかし友人に誘われてアマチュアのコンクールに出ることにした時分、さすがに自分の技術のなさに困り果て、一度聞いただけで圧倒させられたピアニストにレッスンをお願いした。彼女は私よりも若く、才能がある(そういうことを聞き分けられる耳があることは幸運だった)。
とにかく、そんなわけでその後2ヶ月、当社比みっちりと練習したら、自分でも驚くほどピアノがうまくなった。頭打ちのはずの自分のピアノは、見(聴き)違える音を出すようになり、耳もさらに鋭敏になって、驚いた。「プロになれる」と錯覚すらしたし、同時に仕事がめちゃくちゃに忙しかったこともあってその無限の可能性に戸惑いすらした。やりたいこともやらなければいけないことも他に山ほどあるというのに、自分の限られた時間をもう少しピアノに傾けたいと思ったからだ。そしてそう戸惑う自分にもさらに戸惑った。それほどまでに圧倒的な体験だったのだ。

さて、別の友人にすすめられてこの記事を読んだ。

今まで本を読んだことがなく、読書感想文の課題では怒られてばかりいた成人男性が短編を時間をかけて読むという内容なのだが、これがめちゃくちゃおもしろい。funnyの意味でもfunの意味でも、そしてinterestingの意味でも読み応えがあった。
おもしろいということは、これがコンテンツとして成り立つということは、この男性がめちゃくちゃ「読書がうまい」ことの証明である。彼はひとつひとつを丁寧に読むし、再現するし、感情移入する。私なんかよりよっぽど「読めている」。読めすぎている。物語を解釈する力、イメージを膨らませる力、受け入れる力。そのすべてにおいて、明らかに平均以上、むしろ、その辺の読書家よりも上であろう。
彼が32年間「読書が下手」と思わされていたのはつまり、この卓越した能力に梯子をかけてくれるひとに出会ったことがなかったということだ。

何事においてもそうなのだろう。自分の可能性に何かのハードルで気付けない事象があり、でもそれに対して梯子をかけて能力を引き上げる(あるいは、見出す)ことがある。

私のような怠惰な人間がなにかを諦めずに続けるには、趣味のように単発で楽しむか、常にこうした「まだイケるな」と無限の可能性を抱くことが肝だ(そうじゃないと早々にほっぽり出してしまう)。私が自分のピアノの音にまだ可能性が見出せるのは、先生と私の音に乖離があることに気がつくからで、そしてそのギャップを埋めるための方法とそれを教えてくれる指導者が見えるから(単にギャップが見えるだけの場合は諦めるよりない)で、できたら褒めてくれる人が間近にいるからである。読書する男性なら、知らない言葉をすぐに教えてくれて、その読書体験を大肯定してくれて、伴走してくれる人がいるからである。これに出会うのは本当に運と縁が必要で、ともすると私も彼も一生気づかなかったかもしれないのだ。

ただ、じゃあこれを「引き出せなかった学校の先生が悪い」とするのは全く別の話だ。そんな1to1の指導を望むなら、部活監督の拘束云々を取り除いた上でも現行の5-10倍の給料を支払わなければならないだろうし(そもそも今が安すぎる)、仮に払われたとて、現行の義務教育の中でやるのは物理的に無理がある。
さらに踏み込んで考えると、そうした集団生活で道徳を教える能力と、教科書通りに勉強を教える能力、さらには児童や生徒に寄り添ってその力を引き出す能力というのは、それぞれ全く別の特技であって、それらを十把一絡げにして1人の先生に任せることは無理じゃないか?
会社で言えば人事と総務と現場の部長を1人で、しかも新人40人でやってるようなもんである。そらきついって。

じゃあどうすればこの問題が解決するのか?については答えがないけれど、適切な人に出会うというのはどの場面においても本当に重要だ。そうしたアクセスポイントを安全に開いていくことには、もしかしたら私でもできることなのかもしれない。

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