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エロスの画家・高橋秀の物語(1)【アートのさんぽ】#08

第二次大戦後の日本美術を見るなかで、非常に特徴的なことがある。
それは、日本でデビューして評価を得た後に外国に渡り、現地においても一定の評価を得て国内外で活躍する、いわゆる国際的な画家たちの存在である。
戦前においては藤田嗣治や国吉康雄など数人がいた程度であったが、戦後は相当数を数えることができる。アメリカには河原温、荒川修作、草間彌生、靉嘔などが渡り、フランスには菅井汲、今井俊満、堂本尚郎など、イタリアには高橋秀をはじめとして、豊福知徳、吾妻兼二郎といった作家たちが渡った。
彼らの活躍は国際的な現代美術の舞台における日本的な表現の在り方を問うものであるとともに、その存在は、日本と欧米を結ぶ懸け橋として大きな役割を果した。というのも現在ほど国際的な情報網が発達していないなかで、欧米に暮らし、その状況を肌で実感し、人脈も持ちつつあった作家たちは、欧米の美術事情に通じた情報提供者でもあった。したがって、彼らは美術雑誌に寄稿したり、現地に赴いた美術関係者の世話をしたり、現地の作家や美術品を日本に紹介したり、作品制作以外の任務も背負っていた。
彼らは、外国に在住するがゆえの利点とハンディキャップを使い分けながら、現地の美術界のなかに分け入りその存在感を示すとともに、日本での活躍の場も確保するという器用な動きをした。
その途方もない意志の強さはどこからわき出てきたのだろうか。それは幕末に江戸や京に出て活躍した脱藩志士たちの使命感にどこか似ているような気がする。
高橋秀もそのひとりであった。


温暖な瀬戸内海沿岸に育つ

 
高橋の育った瀬戸内海沿岸は、日本のなかでも温暖で、しかも自然災害が比較的少なく、古来より豊かな海の幸、山の幸に恵まれ、暮らしやすい土地として、さまざまな文化を育んできた。
その瀬戸内海の中央部には潮待ちの港、鞆の浦があり、その北部には芦田川水系が広がっている。この水系には、中世に栄えた明王院門前町の草戸千軒があり、国分寺や江戸期の本陣を備えた神辺(かんなべ)があり、他にも豊かな備後の町々が並んでいた。
さらに芦田川を北に遡ると江戸期から備後絣が盛んに作られた新市(しんいち)という町があり、そこに備後一宮吉備津神社という古い神社があった。この神社(通称「一宮(いっきゅう)さん」)は、9世紀に備中中山の吉備津神社より分社されたという古い歴史をもち、その本殿や狛犬、太刀が国の重要文化財に指定されるなど文化の粋も集められていた。
この神社の近くの福山市新市町宮内に、後年「エロスの画家」と呼ばれる男、高橋秀が生まれた。時に1930年6月30日であった。
高橋は、この温暖な地でそれほど豊かではなかったものの伸び伸びと育ち、周囲の人間はもとより本人も画家になるなど思いもよらなかった。ただ、小学校時代から成績がよくて絵の上手なガキ大将であり、同時に祭り好きの「何かを持った」少年であった。
それもこれも一宮さんの料亭旅館で生を受けたことに関係があったかもしれない。高橋の父、勇一の実家は、一宮さんの参道沿いの「富久武」という料亭旅館であった。勇一は当時、祖父・近藤峰次郎の経営していたその旅館で働くとともに、絵や書を能くし、写真技術にも長けていて、後に写真館を開くほどの腕前であった。高橋は、この一番奥まった小座敷を産室として生まれたのであった。

祭り好きの少年

 
 高橋の幼いころの思い出は、この一宮さんで毎年11月に行われる秋祭の賑わいに結び付く。
参道にはいっぱいの露店とともに、不思議な見世物や覗きからくり、芝居小屋、サーカスが並び、それぞれ呼び込みや掛け声、啖呵切りの声が飛び交う。福山中心部など遠方からの参拝客も混じってざわめいていた。
「富久武」も出店を出し、うどんやカツ丼、のり巻きといったものを供するなか、高橋もはしゃぎ、母親と共に「富久武」に寝泊まりし、大勢の従兄弟、従姉妹たちと楽しく遊んだ思い出がある。
 また、家の近くの素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀る素戔嗚神社(天王神社)の「天王さん」も賑わいを見せる夏祭の思い出もある。
これは悪疫(赤痢、コレラ)除けの神とされる牛頭(ごす)天王の祭である。牛頭天王は、京都八坂神社の祭神であり、祇園祭、祇園さんとも呼ばれた。素戔嗚尊とは、もともと嵐の神とされるほどスサブ(荒ぶ)る神で、その祭も荒れる祭、けんか祭とされる。
この祭には三体の神輿が出ているが、一体は新市地区の中須村、もう一体が新市村、残りの一体が戸手村・相方(さがた)村のもので、それぞれの村の威信を背負って、三体の神輿がぶつかりあった。橋の上で衝突し、橋から転落することもあるほど激しく、終戦直後はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が来てピストルを撃ち、制止させたこともあったほどであった。
この祭で、三体の御輿が狭い町を練り歩き、他の御輿と出会えば重ね合いの喧嘩祭となったが、高橋も祭装束に身を包み、御輿の先導組に潜り込み、ワッショイ、ワッショイの声に興奮の絶頂にいたのである。
祭のクライマックスは、境内で三体の御輿の正面からのぶつかり合いで、毎年ケガ人が出るほどだったが、高橋は、この引っ繰り返りそうな喧嘩御輿の屋根に上り、勇壮に見栄を切ることを夢見ていた。
この「祭好き」を物語る作品に《祭》(1963年)がある。日本を離れ、イタリアへ向かおうとしていた頃に描いたもので、生まれ故郷の祭の思い出を抽象的に描きだしたものである。画面中央の下部に大きな円形があり、その中に3つの円が描かれているが、祭のときの太鼓の三つ巴の文様を模したもので、太鼓がリズムを刻み、鉦が高く鳴り響くとともに笛の音色が聞こえてくるようなものであった。

高橋秀《祭》1963年

高橋の家族


 高橋の幼年時の思い出は、祖父・近藤峰次郎にもつながっている。峰次郎の明治のころの写真を見ると、三つ揃いの背広にネクタイというスタイルで決め、親子そろって撮った写真では息子(高橋の父親)にダブルの服を着せるなど、そのハイカラ振りが窺える。時代の先端を覗く進取の気性に富み、かつ地域における旦那の役割も果していたようだ。それは、一宮さんの石造りの献灯や石囲いの奉納名の数からも窺えた。
 峰次郎の最盛期、一宮さんの一の鳥居の前の御池(みいけ)という大きな池があり、そこに掛かる橋を渡ったところに「富久武」の百畳敷の宴会場をもつ別棟を建てた。
ここでの思い出を高橋は、「もの心ついた頃、軍艦に飛行機、戦車に兵隊を描き続けては幼き血を沸かせていた遠い思い出。同じころ、祖父の営む料亭旅館で繰り広げられる幾列もの仕出し折り詰めの華やかな盛り付け、大広間の夜ごとの宴、はなやぐ嬌声、その燗場にもぐり込んで嗅ぐ姐さん仲居たちの脂粉の香り、白い足袋に蹴返しの紅、何とも甘酸っぱく高揚した記憶…。或いは、もしかして、私の美意識の発端は、そんなところにあるのでは…と、はばかるような、うしろめたい秘め事に似た思い」があったと綴っている。
 「エロスの画家」と呼ばれるその原点には、祖父の料亭旅館宴会場における饗宴や、その女性たちの色香の思い出があったのである。
祖父の思い出に比べて父親の記憶が薄いのは、高橋秀が7歳の時に早世したためである。ただ父親が写真師であったということそのものは、高橋が画家になる遠い要因として影響を及ぼしていた。高橋の父親・勇一が福山市内に写真館を開いたのは、高橋の幼い頃であった。写場のつくりや、グレーの巻き上げ式の背景幕の淡い記憶が高橋にはあり、その幼児の頃の凝った写真が残されている。また、福山にあった福山第四十一連隊や盈進商業学校などの専属カメラマンとして活躍し、凝ったアルバムを残している。しかし、しばらくして結核を患って写真館を閉じ、山深い新市町藤尾父木野に移って療養生活に入った。その後、町中の二階建ての町営住宅に移り、父親が二階で隔離されたように療養暮らしを続けたため、高橋は3歳のころから父親に接した記憶がなかった。それからは母つる代が針仕事で一家を支えながら看病したが、それも空しく父親は35歳という若さで亡くなったのである。
 その後、新市町宮内の料理屋、精養軒の長屋に引っ越し、母つる代は、精養軒の仲居さんや着物の仕立で生計をたてていく。つる代は、誰からも好かれたしっかり者で、1日で仕上げるような特急仕事もこなしていた。
長屋の近所の人々にも恵まれ、貧しいながらも明るく賑やかに暮らした。つる代は、福山の芦田川沿いの農村、郷分(ごうぶん)の佐道家の長女として生まれ、農業を継いだ長兄と福山で八百屋を営むことになる次兄がいた。高橋家には、つる代の母親、つまり秀の祖母が、従弟の弘之を連れてたびたび訪ねてきた。こうして親族に優しく見守らながら高橋はたくましく育っていった。

進学をめぐって


もともと高橋は、小学校で広島県の図画競技大会に入賞するなど絵が得意であったが、特別に好きというわけではなった。むしろ放課後にガキ大将のように遊ぶことに夢中で、図画の特訓で放課後に居残りさせられることを窮屈だと感じていた。
高橋が中学進学を控えた時期、母親から経済的な理由で進学を諦めるように言われた。しかし、どうしても諦め切れず無理を通し、「中学だけ」という条件で、広島県立府中中学校(現在の広島県立府中高等学校)に進学した。
 府中中学校では美術部に入るわけでなく、図画の授業に興味をもって積極的に取り組むこともなかった。ちなみに、当時の府中中学校には東京美術学校西洋画出身の美術教師、藤原覚一(1895-1990)がいた。藤原覚一は、1925年に結成された福山最初の美術グループ「ぶらんだるじゃん」の創立者のひとりであり、第1回展には《自画像》など4点を出品するなど展覧会活動をしていた。その教え子には、府中中学校を経て東京美術学校に進み、第3回新文展などに入選した三原市出身の画家・池田快造(1911-1944)などがいた。
高橋は、進学はしたものの、既に第二次大戦が始まっていて、2年生になると学徒動員で授業はなくなり、町の鉄工所に旋盤工や製図工として働きに出されたりしている。やがて終戦を迎え、高橋が府中中学校を卒業するのは、1948年という戦後混乱期であった。父と幼くして死別し、母1人、姉1人の家庭ではそれ以上進学できる余裕はなく、人の紹介で就職した。しかし、明確な展望をもっていた訳ではなかったので、理不尽な上司と衝突しては職場を何度か変えていた。最後の職となった化粧品屋での経験を頼りに、自転車による化粧品の訪問販売をしながら稼いでいたが、それで満たされることはなかった。
 そんな自分を持て余していた時期、手元にあった水彩で静物画や風景画を描きだしていた。そしてそれが昂じてきて、油彩道具を手に入れ、我流で油絵を試みるまでになっていたのである。
 

画家・北川實との出会い



ある時、近所の世話好きの床屋の「近藤さん」が高橋の絵を、当時東京から広島県の府中市に疎開していた二科会の画家・北川實(1908-1957)に見せにいった。そして「その子を一度うちに連れて来い」ということになった。高橋は、招かれるままに北川のアトリエを訪ねた。それは高橋にとって衝撃的な出来事であり、その後の人生を変える出会いであった。
もともと絵画の得意な少年であったが、美術の世界がこの世に存在することすら認識していなかった。高橋は、北川のアトリエで、二科展に出品していた大作の数々、その本棚に並んでいたセザンヌやピカソ、マティス、ボナールなど世界の画家たちの画集を見た。それはまさに美術の世界への入り口であった。高橋は、それまでの出口の見えない暗鬱な気分の中にいたが、「これこそがわが世界、これが欲しくてうろうろしていたんだ」という確信を感じることができた。
高橋にとって大きな転機であった。広島県の山間部の小さな町に住んでいた高橋の目の前に、突然美術という大きな世界が現れてきたのである。祭好きで何かに心血を注ぎたい、汗を流してみたいと考えていた青年にとって、北川は、松本竣介などと活動した東京の美術界の出来事やヨーロッパの最新の美術などに通じていた眩しい存在だったのである。高橋は、自分が今置かれている状況に居ても立ってもいられない心境になっていった。
 北川という人はとてもリベラルな人物で、少年高橋に対して弟子と先生といった姿勢ではなく、画家の仲間というような態度で接した。「おい、雪山を描きに行こうや」といって一緒に雪深い冬山へ写生旅行するなど、気軽な兄弟のような親交が続いた。
こうしたなかで絵画の世界にますますのめり込み、自分が生きる世界はここにしかないと思い込むようになる。そして上京し、美術学校に進む決心をしていったのである。
しかし、その決心を口にした途端、母親も伯父たちも大反対した。苦労して中学を出させ、曲がりなりにも社会人として歩み始めたばかりなのに、将来の見えない絵描きになりたいというのは、全く許せないということであった。高橋に対する説得、説教は続いたが、その決心は揺らぐことがなかった。これしかないと決めた時の高橋の頑なまでの強さは、ここから始まったのかもしれない。

北川實《二月の道後山》1950年

参考文献:谷藤史彦『祭りばやしのなかで -評伝 高橋秀』

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