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余生も半ばを過ぎて

ちょっぴり辛いお酒を少々と、それほど強くない煙草を少々、それと、新種すぎて恐らく違法性も認知されていない(されていたらごめんなさい)ドラッグの力を借りて書き上げた僕の新作小説『余生も半ばを過ぎて』の原稿が、なぜかレイ・ブラッドベリの短編『とうに夜半を過ぎて』にタイトルはおろか中身まで酷似しているという理由で没になってしまった。

なにがブラッドベリだと僕は思った。
ブラッドベリだかブラパットベリベリだか知らないが、僕が死に物狂いで捻り出した妙案を、あろうことかこのジジイは、何十年も昔に着想を得て既に書き上げていたというのか。許すまじ。だが誰が何と言おうと、この作品は僕の僕による僕だけのための自伝小説だ。そこに関してだけは一切譲るつもりはないし、なんなら刺し違える肚ですらある。僕より先にこの作品を世に放ったことを後悔し、悶絶の果てにに死ぬがいい。くたばれ、レイ・ブラッドベリ。

ということをアルコールが切れる寸前まで考えていたのだけど、改めて本屋に出向きレイ・ブラッドベリを読んでみたところ確かにメチャクチャ似てたし、普通に面白い作家さんだったので斜め読みした挙げ句数冊買ってしまった。僕は先ほどとは打って変わって彼に罪悪感すら芽生え始めたので、素直に負けを認めることにした。

その帰りに、僕はコンビニで缶ビールと唐揚げ、それとエロ本とビール、それと缶ビールと海苔の佃煮を買い家に帰ってきた。
今日は日曜日で特にすることもないので、僕は唐揚げをおつまみにビールを飲んだ。
エロ本は海苔の佃煮を表紙に擦り付け近所の小学校の側の草むらに隠してきた。男の子たちが運良く発見し、更なるイマジネーションに富んだ人材になってくれることを切に願う。

ビールを飲みながら、僕は今後について考えてみた。

酒とドラッグの力を借りて作品を書いているようでは、僕はダメだなと思った。
少なくともブラッドベリは感性のみであれを書き上げたのだ。そもそもな話、物書きなんて人種はみんなある種では狂っているのだろう。僕は物書きとしては未熟であった。ドラッグの力を借りねば、到底ついていけないほどに。

学校とか会社とか、あるコミュニティの中とか、そういう場所で円滑に、すぐに友達を作れて、仕事も任されて、功績も認められて、優しい人って言われて、うまく言葉にできないけど、もしもそれらを感性と呼ぶのなら、僕はそんなもの、きっと全然いらなかったのだと思う。
そんな感性よりも、僕は物書きとしての感性がたまらなく欲しかった。
遠い昔、ルース・オゼキの作品を読んで泣いたことがあった。人の。

僕は人の。と言ったあと、人の心が分かる人になりたいなあと思った。
缶ビールを3本買っておいてよかった。今日はもう少しだけ酔っていたい気分だった。

遠くで「エロ本があるぞー!」と小学生が叫んでいる。今日はいい日だなあと僕は思った。

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