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わがままな妻

『モンブランのケーキが食べたいから、帰りに買ってきてね』

妻からのメールが表示されたスマートフォン端末を覗き込み、僕は右手に持っていたショートケーキの入った袋を力なく揺らした。先ほど届いたメールにはこれを買ってこいと書かれていたのだけど。

僕の妻はわがままだ。ついこの間は新しく発売されたゲーム機が欲しいと言って聞かなかったので会社の帰りに買っていってあげたのだけど、どうも妻には向いていなかったようで、すぐに飽きて触らなくなってしまった。今では専ら、休日に僕のプレイを隣で見ているだけである。

さらに前には突然インドネシアでオーロラを見たいと言い出して、僕は「きっとインドネシアではオーロラは見れないと思うよ」と言うのだけど、断固として聞いてはくれなかった。結局僕らはインドネシアに行き、プランバナン寺院を見て帰ってきた。とても綺麗で妻も喜んでくれたのだけど、僕の会社の予定もあってあまり長く滞在できなかったのは残念だった。

そのさらに前にはピサの斜塔に自力で登ってみたいと言うので、試しに僕が「自力で」の定義を質問してみると、案の定、壁を素手で登ることのようだった。きっと法律的にも、そもそも倫理的にもそんなことはできないのだろうけれど、取り敢えず登る技術がなければ話にならないと思ったので、僕たちは2人でロッククライミングを習い始めた。
お互い30近い体なので肉体的にもきつかったけれど、なんだかんだ妻は楽しそうだった。2人で競技用の壁を登っているうちに、どうやらピサの斜塔に登る話はなくなったようだった。そのことに対して少しだけ残念に思っている自分がいることに気付き苦笑した。

「本当にわがままな妻だなあ」

僕はそう言葉を漏らすと、コンビニでモンブランのケーキを買った。

家に帰ると、珍しく妻がゲームをしていた。相変わらず手付きは覚束ないのだけど、僕のプレイを見ていたこともあってかある程度は上達したようだった。

「あ、おかえり。ケーキ買ってきてくれた?」

僕は笑顔で頷き、妻にケーキの入った袋をふたつ渡した。すると妻は、ショートケーキの入った袋だけを受け取り、モンブランの入った袋を僕に手渡した。

「これ好きだったでしょ?」

「ああ、うん。ありがとう」

僕はケーキを食べながら、一生懸命にゲームをする妻を見ていた。どうやらこれはジャングルを探索するアクションゲームのようで、細部まで美麗に作り込まれていた。

すると妻は突然僕の方を向き、さも今思いついたかのようにアマゾンに行きたいと言った。
きらきらした、本当に楽しそうな顔で。
僕は、アマゾンは正式な地名じゃないよと突っ込もうかと思ったけど、なんだかそれも寂しい気がしたので、寸でのところで言葉を飲み込んだ。

妻はもう荷作りを始めていた。僕に歯ブラシは持ったかと聞いてくる。

この人と結婚して本当に良かったと、僕は心から思った。

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