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 同級生が亡くなった。

 「人生五十年」と唄った信長の時代ならいざしらず、願望も籠めてのことだろうが「人生百年時代」などと言われる今の時代に、その半分の約五十年で身罷るのは早すぎる…と思わずにいられない。

 亡くなられたKさんとは同じ中学、高校だった。私たちが高校受験をする頃、私たちの県には「学区」という制度があり、「学区外」の高校に進もうとする者は相当いい成績を取らないと行けないという壁があった。

 私とKさんの中学から、その高校に進んだのは私たち二人だけだった。つまり私にとってもKさんにとっても、同じ中学・高校というのはたった一人の存在であった。しかし中高通じての六年間、一度も同じクラスにならなかったし、部活動等の課外活動でもご縁はなく、お話しする機会はほとんどなかった。卒業してから同窓会等でお見かけしてもお互い会釈をするぐらいだったな…。

 私とKさん、お互いの印象は中学時代のライヴァル、だったろうな、と思う。同じ高校を目指す同士で励まし合ってもよかったのにな、とも今は思うが、当時の田舎の公立中学における男子生徒・女子生徒に、励まし合う交流は生まれがたかった。そんなわけで話すこともなかったけれど、テストのたびに1位と2位でKさんと競い合ったことが、結果として私たちの合格に繋がったのかもしれない、そんなふうにも今思う。

 寂しいお知らせを受けとることが少なくなくなってきた歳になり、残される者も何かをもぎ取られたような気持ちを味わうものだな…といつも思う。残念ながら友人と呼べるお付き合いはできないでしまったけれど、Kさんの早すぎる訃報は、やはり何かが無くなってしまったように感じるものだった。Kさんと中学時代のお互いの思いなど、話しておけばよかったな…迂闊な私は今頃そんなことをしみじみ思っている。

『デルス・ウザーラ』の主題

 前段に書いたようなことを思い、あまり何かをする気にもなれないでいた三連休。ふと思い立って黒澤明監督のソ連・日本合作映画『デルス・ウザーラ』を観た。何十年ぶりだろう、それこそ高校時代ぐらいに観たっきりだろうか。

 どうしてそんな何十年ぶりに思い立ってこの映画を観たのか、内容を殆ど忘れていたために自分でも判らなかったが、観終わった今なら判る。この映画が扱っているのも「何かの終焉」「静かなる寂滅」、つまり「死」なのだ。

『デルス・ウザーラ』とは

 既に世界的巨匠の名をほしいままにしており、しかも同時にその完璧主義ゆえに日本では撮影が出来なくなる苦境に立っていた黒澤明監督が、ソビエト連邦のモス・フィルム製作により、1975年に創った映画だ。上映時間2時間21分。モスクワ映画祭金賞、アカデミー賞外国語映画賞を受賞。すばらしい映像美で極寒の極東ロシア、ウスリー地方のタイガ(森林、密林)や、氷原が描かれる。

 ウスリーと言っても私たちにはあまり馴染みはないが、ウスリー川がアムール川の支流だとわかれば、なんだか近しく思えてくるというものだ。北海道から日本海を渡ればすぐにアムール川、そしてウスリー川の地域だ。

 主人公は二人。極東に住むゴリド人である老猟師デルス・ウザーラと、探検隊の隊長アルセーニエフ。生まれも、育ちも、立場も全然違う二人だが、探検を、そして生死をかけた自然との闘いをも共にした彼らには厚い友情が築かれる。デルスがアルセーニエフをカピタン(隊長)と呼んで敬愛・尊重し、アルセーニエフがデルスの持つ東洋的な智恵、自然と調和した生き方に共感するようになるさまは観ていて気持ちがいいものだった。

 音楽はイサク・シュワルツ。太陽を画面に映すときだけ一種独特の音を鳴らす。或る種の鈴なのだろうか、小さな鐘なのだろうか、不思議な雰囲気の音だ。これはシュワルツによる工夫か、黒澤明による指示か。この地方の人々にとって太陽が大変貴重な尊ぶべきものなのだということを表現しているものだろう。

 劇中でもゴリド人であるデルスが、普段は尊重しているカピタンの横で、太陽のことを「一番えらい人」と呼んではばからないという場面もあったりもしたっけ。

 この映画の原作はアルセーニエフ隊長が自らの体験を記した記録だ。舞台は1902年の第一次探検、1907年の第二次探検。アルセーニエフは当時ソ連にとって地誌的に空白地帯であったウスリー地方の探検調査・測量等を命じられて二度赴くのだった。当たり前だがGPSも携帯電話も何も無い、コンパスぐらいを頼りに探検する彼らを観ていると、たった100年ちょっとでの文明の進化がいかにすさまじいものだったかに改めて驚く。そして同時にこの100年ちょっとで失われてしまったものの大きさにも。

『デルス・ウザーラ』を観る

 映画は第一部と第二部に分かれており、第一部では1902年の第一次探検、第二部では1907年の第二次探検が描かれる。しかしこの分け方は単に二回の探検を分けてとらえさせるための便宜的なものではなく、描いている対象も劇的に違うことがやがて判ってくる。それはのちに譲って、まずは冒頭から記していこう。

 初めてのウスリー探検を行くアルセーニエフ隊、ある野営地でゴリド人の老猟師デルス・ウザーラに出逢う。ゴリド人(ゴリド族)とは当時の呼び方で、今は彼らの自称に従いナナイ人(ナナイ族)と呼ぶらしい。ツングース系の民族でアムール川一帯に住むという。

 デルスは天涯孤独の身だ。テントを張りながら定住せずに暮らしている。以前は妻と息子・娘がいて家もあったのだが、彼ら三人が天然痘に罹り、伝染病を恐れた村人たちに家ごと焼かれた、という過去が語られる。今、疫病に襲われている私たちにとっても身につまされる話だ。

 黒澤明映画には『生きる』といった市井の人を描く名作ももちろんあるわけだが、一般的に印象に残っているのはやはり『七人の侍』『用心棒』『蜘蛛巣城』などの、侍が出て、戦がある映画だろう。

 しかしここには、三船もいない、志村喬もいない、戦もないクロサワ映画がある。描かれるのは厳しい自然と、静かに勁く生き抜く人間達の姿だ。

 ドラマらしいドラマもないかと思えるほどに静かに穏やかに進む第一部だったが、突如自然が牙を剥き、山場が訪れる。隊を分散し、隊長とデルスの二人だけでハンカ湖の探索に出た帰り、突然の吹雪に襲われ、彼らは道に迷ってしまうのだ。他の隊員と合流できないままに夜が近づいてくる。雪原でほぼ何も無い場所で、軽装備の二人だけで夜を迎えることは死を意味する。

 普段「カピタン」を敬愛・尊重して話しているデルスだが、ここではカピタンを叱咤する。「急げ!」「休むな!」「死ぬぞ!」と。自然の怖さを知り尽くした老猟師ならではの身のこなしだ。デルスの指示に従い、二人は雪原に生える草を刈り取り続ける。その間も吹雪は激しさを増し続ける。カピタンは遂に倒れるが、デルスは草を使った急造の防風シェルターを作り、二人は助かるのだった。

 翌朝陽光が輝くなか、デルスは草で作った急増の防風シェルターから黙々とロープを外す。彼は小さなものも決して無駄に捨てたりはせず再利用するのだ。そしてカピタンに言う、「いつまで寝てる?お天道様はもうのぼっているぞ」と。昨夜の命がけの闘いなどなかったかのようにいつも通りの声で。アルセーニエフは自分が生きていることに驚き、デルスに感謝を伝える。デルスは言う、「二人で草を刈ったんじゃないか。お礼を言われることなどなにもない」と。そう言ってロープの片付けを淡々と続けるデルス。しかしロシア人であるアルセーニエフはロシア人なりの表現をせずにはいられず、デルスとむりやり抱き合って喜ぶのだった。この夜と朝で、決定的に二人の友情は深まったのだと言えるだろう。

 探検が終わりに近づき、アルセーニエフはデルスを誘う。街に一緒に来ないか、と。しかしデルスは断る。街では自分は生きられない。自然に生きてこそ自分なんだ、と。

 別れの時、お互いに立ち去りがたく、遠くに相手が見えるギリギリのところで、二人は名前を呼び合う。「カピターン!」「デルスゥ!」。熱く、深い友情を感じさせる二人の声で第一部は幕を閉じる。

寂滅のデルス・ウザーラ

 第二部、5年後に第二次探検でまたウスリーを訪れたアルセーニエフは、どこかでデルスに再会できるのではないかと一人楽しみにしていた。そしてある野営地で彼らは遂に再会する。喜びを分かち合い、「変わらないな!」とお互いを認める二人、心温まるシーンだが、第二部は老いていくデルス、変わっていくデルスが描かれるのだった…。

 老いによって、猟師にとっての命綱でもある視力を奪われていくデルス。虎に対しても虚心に向かえていた第一部の時とは違い、無意識に怖れが生じたか、思わぬ発砲をしてしまう。ゴリド人にとって虎を殺すことは決してしてはならない「悪いこと」であり、いずれ別の虎によって襲われ殺されるのだ、という祟りをデルスは怖れるようになってしまう。ここでいう「別の虎」は実際の「虎」ではなく「死」の象徴だったのだ、と観終わった今、私は感じる。

 デルスは山や野原、密林で猟をしながら暮らすことが出来なくなった自分を受け入れることがなかなかできずにいたが、いずれ「別の虎」に襲われる懼れはもだしがたく、アルセーニエフの誘いを受け入れ、ハバロフスクの彼の家に寄宿するのだった。しかし山や野原、密林では雄々しかったデルスが、街では、家では、小さくなって暮らさざるをえない。「なんでこんな『箱』に住んで平気なのかわからない…」と呟くデルス。街の人たちが水を売買することが許せないデルス、テントを張ろうとすると規則だからダメと言われ、鉄砲の手入れのために空に向かって撃つことさえ許されない生活の中で、自分が自分らしく生きられないことを悟り、彼は自然に戻りたい、とアルセーニエフに伝える。

 アルセーニエフはデルスに最新式の銃を贈る。照準が優しい最新式だよ、と眼が衰えたデルスを気遣うアルセーニエフ。しかし運命は皮肉なものだ、最新式の銃を狙った強盗が「別の虎」となり、デルスは死んでしまうのだった。

 第二部の幕切れ、森の木の根元に埋められ土饅頭だけ作られたデルスの墓に、アルセーニエフは生前デルスが愛用していた杖を刺し、墓標とする。その墓標を背景に制作陣の名前が流れ、映画は終わる。

 第一部の溌剌としたデルス、二人の厚い友情に感動させられたことを思い返すと、第二部が描く寂滅のデルス・ウザーラは実に寂しい。しかし、黒澤明の紡ぐ映像、その「間」のありようによって、唐突なデルスの死も、何か当然のものとして我々観る者は受け取れるようだ。死もまた自然の一部、生と同じように、と。

 無意識層まで深く潜った記憶が、Kさんの訃報を聞いた私にこの映画を観るように呼びかけてくれたのだとしたら、人間の脳の玄妙さに驚かざるをえない。あるいはそんなことはなく、これは偶然であり、天の配剤なのだろうか。少なくとも私は「寂滅のデルス・ウザーラ」に心を救われた気がしている。死もまた一つの生なのだ。生を生として生き、死も生として受け止めよう。観終わった今、私はそう思えている。

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