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本と、私と、ある詩人。

幼稚園の頃、私は本が好きだった。
たくさん絵本を読んでいた。
そこに書かれている言葉が好きだった。
絵に示されていないことでも自由に思い描くことができる、明瞭で曖昧な"言葉"が好きだった。

小学生の頃、私は本が好きだった。
学校の図書館にある本を片っ端から読んでいた。
知らない漢字、知らない知識、知らない言葉遣い。
いろいろな未知に出会いそれらを知っていくのが好きだった。

中学生の頃、私は本が好きだった。
10分の休み時間は幸せな読書時間だった。
苦手な本も出てくるようになった。
ファンタジー、歴史書、エッセイ。
本の中に入ってさまざまな経験をしているようでとても面白かった。

あるとき、同級生が言った。
「休み時間まで本読んでるとか勉強できますよってアピール?」

唐突な発言に驚いた私は言い返すことができなかった。
クラス中が友達との会話に花を咲かせている中、1人黙々と本を読んでいる私はクラスから浮いていたのだとそのとき初めて知った。

高校生の頃、私は本を読まなくなった。
友達とおしゃべりができるように流行りの漫画を読むようになった。
それに伴ってアニメも見るようになり、目で見た言葉から景色を想像することがなくなった。
すでに彩られた映像を見る。それはそれで楽しかったからこのままでいいと思った。

高校を卒業した後、友達は本を読むようになった。
私は相変わらず漫画ばかりを読んでいて登場人物の容姿は想像するまでもなく描かれていた。
いつの間にか友達とは話が合わなくなっていた。
あの頃と同じだった。
本をたくさん読む友達の中で漫画ばかり読む私はまた浮いた存在になってしまった。

私は久しぶりに本を読んだ。
それは何回も何回も読んだ1番大切にしていた本だった。
ページをめくるたびに私は泣いていた。
私は、本が読めなくなっていた。

言葉が何も頭に入らない。
文字が紙の上を滑っていくだけだ。
何度も何度も文字を追いかけるのだけれどさっぱり理解が及ばない。
何を言っているの、これはどういう意味なの、ここはどういった景色なの。
何もわからず掴めない。先の見えない戻ることもできないトンネルにいるようだった。
怖い。苦しい。
私は布団をかぶって泣き喚いていた。

本を読もうと何度試みても感覚は変わらなかった。
苦しい思いを抱えたまま、諦めることも挑戦することもできずにいた。

そんなとき偶然、ある詩人に出会った。
これまでにもお名前を拝見したことはあったが作品を鑑賞しようと思うほどの情熱はなかった。
その詩人が展示会をやっているという。
経歴も作品も何も知らないけれどただ興味が向いたからと展示会に行くことにした。

会場は美術館のように大きい場所ではないものの、日々の騒がしさから離れられるような暗くて静かな場所だった。
入り口で彼女の言葉に迎えられたとき、私は泣いた。
それは恐怖じゃなく安堵の涙だった。
彼女の言葉は私に届いてくれた。私は彼女の言葉を受け取ることができた。
考察するほど深い意味も理由もないけれど、確かに私はその言葉たちを想像できたし理解することができた。
私の中に1つ1つ言葉が入ってくるその空間は、中学生の休み時間くらい心地よい居場所だった。
私は安心と嬉しさで舞い上がったまま彼女の詩集を買った。
家に帰って開いた詩集は、私にもう1度本を読む喜びを教えてくれた。

彼女の言葉の何が私に色をくれたのか、それは具体的にはわからない。
けれど彼女の言葉は難しくなかった。
ほんの少しの嘘と紛れもない本音。
それが空間にそっと置かれているような。
まるで空気中の酸素みたい。
生きていくために必要不可欠で息をするたびに体に取り込むもの。
そんな自然な言葉たちが私を自由にしてくれたんだと思う。

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