ジョージ・ギッシング「クリストファーソン」(1902年)

それは二十年前の五月のある夕方だった。その日は一日中、太陽が出ていた。疑いもなく、これから語ろうとしている出来事のために、はるか以前に消えてしまった陽光と暖かさは、今なお私と共に生きている。私の部屋の窓に区切られた細長い空を横切っていった、大きな白い雲を彷彿として見ることができるし、ロンドンの都心での独り仕事には差し障りのある、春の倦怠を今一度感じることができる。

ようやく日が暮れる頃になって、私は家を出た。大気中には、いつにない甘やかさが漂っていた。二列の街灯にはさまれ、はるか遠くまで見通せる道路では、点されたばかりの電灯が夕焼け空の赤の下で黄金色の光を放っていた。一息つく以外に何の目的も持たずに30分ほどもそぞろ歩きをした挙げ句に、気づいて見ると、グレイト・ポートランド・ストリートがメリルボーン・ロードに行き当たる所にいた。ミレルボーン・ロードの向こう側、聖三位一体教会(ホーリー・トリニティ・チャーチ)の陰にかくれるように、馴染みの古本屋があった。本を並べた露台の上に輝くガス灯の明かりに誘われるように、私は大きな通りを渡った。本のベージを繰り始めると、いつもの成り行きで、ポケットの中にいくらあるか、私は指先でさぐり始めた。ある一冊が私を打ち負かしたのだ。私は、その小さな店に入って支払いをすませた。

露台に立っている時、そばに誰かが、同じように本を探している人がいるのを漠然と感じていた。購った本を持って外に出たとき、見知らぬこの人物は、奇妙なことに私に興味を惹かれたらしく、半笑いを浮かべながら私を見つめていた。今にも何か言い出しそうな様子だ。私はゆっくりとした歩みで店を離れる。するとその男も同じ方向に歩みを進めた。そして、教会の真ん前に来た時、素早い動きで私の横に立つと言った。

「失礼をお許し下さい――どうか誤解なさらないでいただきたいのです――ただお尋ねしたいだけなんです。いまお買い求めになったばかりの本の見返しに書かれている名前にお気づきかどうかを」

その声にこめられた神経質な敬意は、当然ながら、物乞いをするつもりではないか、という疑いを私に抱かせた。しかし、彼はふつうの物乞いではなかった。見たところ、年齢は六十見当、長くて細い毛とはねた顎髭は白髪まじり、流涙症ぎみの目が血色の悪い、落ちくぼんだ顔から外界を見ていた。身なりはひどくみすぼらしく、没落した紳士といった態で、実際、その話し方からして、元々彼が属していた階級は明らかだった。私を見る表情からは、ひじょうな知性と温厚さと同時に、哀れを催させる気後れが感じられたので、私はこれ以上ないくらいの好意を込めて返事せずにはいられなかった。実は見返しに書かれた名前など見ていなかったのだが、すぐに本を開いてガス灯の明かりで読んでみると、そこにはごく細い筆跡で「W・R・クリストファーソン、1849年」と記されていた。

「わたしの名前なんです」と、見知らぬ男は、ためらいを感じさせる小声で言った。

「ほんとに?この本はあなたのものだったんですか?」

「わたしの蔵書でした」 彼は奇妙な笑い声を、小さく震えた笑い声を立てながらも、私の疑いをとがめるかのように、自分の頭をなでた。「クリストファーソン文庫の売り立てのことはお聞き及びじゃありませんか?いや、あなたのお年頃じゃあ、ご存知ないのも無理はありません。あれは一八六〇年のことでしたから。私はこれまで、露台で自分の名前の書かれた本にちょくちょく出くわしてきました。ちょくちょくです。たまたまこの本のことは、あなたがおいでになる直前に気づいていました。あなたがこの本をご覧になっているのを見て、お買い求めになるかどうか興味を惹かれまして。どうかわたしの勝手な振る舞いをお許し下さい。『そもそも本好きというものは…』などと、お考えなのではありませんか?」 表情が、途中で言いよどんだ言葉を補って余りあった。よく分かりますよ、私もそう思いますから、と答えると、彼は小さな笑い声を立てた。

「たくさんの蔵書をお持ちなのですか?」 切なげな眼で見つめながら、彼は尋ねた。

「いやぁ、大したことないです。数百冊しかありません。それでも持ち家じゃないので多すぎるんですが」

彼は愛想よく笑ってうなだれると、やっと聞こえるぐらいの声でつぶやいた。

「わたしのカタログ番号は、24718まで行きました」

私は好奇心をそそられ、もっと知りたくなってきた。露骨な質問をしないよう気をつけながら、その頃はロンドンにお住まいだったのですか、と尋ねた。

「あなたに五分、お時間があるのでしたら、拙宅をご覧に入れましょう」と、遠慮がちに答えると、再び小さな笑い声を立てながら言い添えた。「かつてのわたしの持家を」

私はよろこんで付いていった。彼の先導でリージェンツ・パークの外周道路を少しばかり歩くと、堂々としたテラスのある屋敷にたどり着いた。

「以前はここに住まっていました」――小声で彼は言った。「玄関扉の右手の窓――あそこがわたしの書斎でした。ああ!」

そう言って彼は深いため息をついた。

「不運に見舞われたんですね」 私は小声でささやいた。

「愚かさ故のこと、自業自得です。自分に必要なだけの金は十分すぎるほど持っていたのに、それ以上必要だと考えたのです。つい実業界に足を踏みいれてしまいました。その手のことについての知識を持ち合わせていなかったのに。そしてブラック・デーが、暗黒の日がやって来たわけです」

二人はきびすを返すと、いま来た道をゆっくり、うなだれて言葉もなく教会まで引き返した。

クリストファーソンは暇乞いをするかのように立ち止まると、「あなたは他にもわたしの旧蔵書をお買い求めになったのではないか、と思うのですが」と、彼らしい温和な笑顔で尋ねた。
以前に彼の名前を見た覚えはない、と答えたたが、そのあとふとしたはずみで、いま私の手の中にある本を、もしかしたら取り戻したいとお望みでしょうか、と尋ねた。もしそうなら、よろこんで差し上げますよ。この言葉が発せられるや否や、その言葉が聞き手に呼び起こした歓喜を私は目の当たりにした。とてもそんなことは、と口の中でブツブツ言ってためらっていたが、すぐに私の申し出をありがたく受入れた。本を手にした彼は、うれしさに頬を紅潮させた。

「まだ少しばかりの蔵書はあるのです」と、まるで人に知られるのが恥ずかしいと言わんばかりに、声をひそめて言った。「しかし、蔵書をふやせるのは、実際ほんとに滅多にないことなんです。感謝の気持ちを十分に、その半分もお伝えしてない気がします」

私たちは握手して別れた。

当時私が下宿していたのは、カムデン・タウンだった。それから二週間ほどたったある日の午後であったろうか、一、二時間ほど散歩した帰り道、私はハイ・ストリートの露店の古本屋に立ち寄った。誰かがそばに近づいて来たので眼をやると、そこにいたのはクリストファーソンだった。私たちは長年の友人同士のような挨拶を交わした。

「最近何度かお見かけしましたよ」と、昼日中だとこの前にもましてみすぼらしく見える没落紳士が言った。「でもお声をかけるのを差し控えることにしました。わたしの住まいはここから遠くないものですから」

「なぜですか?私も近くに住んでるんですよ」と言うと、私は自分の言ったことをよく考えもせずに、「お一人でお住まいですか?」と言い添えた。

「一人住まい?いえいえ、家内といっしょです」

彼の口調には奇妙な当惑があった。眼を伏せ、不安げに頭は振っていた。

私たちは露台の本について話し始め、一緒に店を離れたあとも話し続けた。クリストファーソンは育ちが良いだけでなく、ひじょうに知的で、博学でさえあった。その博識を示す証拠を(彼一流の過度なまでの謙遜と共に)目の当たりにして、思わず私は、何か書いておられるのですか、と尋ねた。いえいえ、書くなんてとんでもない、ただの本の虫にすぎません。そう言って、かすかな笑い声をたてると、彼は別れを告げた。

偶然再会するのに、長くはかからなかった。うちの近所の通りの角で顔を合わせたのだが、彼の変わりように私はショックを受けた。見るからに老けてしまって、深い憂愁に顔つきは暗い。握手の手はぎこちなく差し出され、出会いの歓びにもかすかに表情が変わっただけだった。

「立ち退くことになりました」 探るような私の様子に応えて、彼は言った。「ロンドンを離れるんです」

「永遠に?」

「多分そうなるでしょう…決まったわけではありませんが」 彼が無理をしているのは明らかだった。「こうなったのを、わたしは喜んでます。家内の健康がこのところあまりすぐれませんのでね。あれには田舎の空気が必要なんです。ええ、二人で立ち退く決心をしたことを、わたしは喜んでいます、とても、ほんとに喜んでいます」

力を込めた口調はどこか機械的で、眼が泳いでいたし、両手も神経質に引きつっていた。隠棲の場にどの地方を選んだか尋ねようとしたその刹那、彼は唐突に言い添えた。

「わたしの住まいはすぐそこなんです。あなたに蔵書を見ていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」

よろこんで招待を受けたのは言うまでもない。二、三分も歩くと、ほとんどの家の一階の窓に、貸間の札が出ている、まずはまともな通りにある家についた。私の道連れは、ドアの前で立ち止まった時になって招待したことを後悔し始め、躊躇いを覚えているようだった。

「あなたのお時間をおとりするのは、かえって申し訳ないように思うのですが」 彼はおずおずと言った。「実のところ、ちゃんと蔵書をご覧にいれるだけのスペースもないような有様なんです」

今さらの反対など無視して、彼といっしょに家に入った。クリストファーソンは、不安げではあるが丁重な態度で狭い階段を先に立って案内してくれ、三階の踊り場までのぼってドアを開けた。敷居の上で、私は驚きに立ち尽くした。狭い部屋で、快適な日常生活のためには十分でも、それ以上の余裕はとてもではないがありそうもない部屋だったし、実際、日常のあらゆる用途のために使われているは明らかだった。にもかかわらず、全空間の三分の一を占領していたのはびっしり詰まった本の塊にほかならなかった。二面の壁に沿って長い列になって何重にもなっており、高さはほとんど天井に達していた。家具は、丸いテーブルと二、三脚の椅子しかなかった。実際、それ以上置く余地などなかった。窓は閉めきられ、直射日光があかあかと窓に照りつけられているので、耐えがたいまでに息苦しい空気が立ちこめていた。版面や表紙の臭いでこれほど不快になったのは初めてだった。

「でも、あなたはほんの少しの本とおっしゃったじゃありませんか!」 私は大声を上げた。「まちがいなく、私の蔵書の五倍はあります」
「正確な数は覚えていません」 ひどく狼狽したクリストファーソンは、小声で言った。「ご覧の通り、きちんと整理できていないんです。あともう少し、別の部屋にあります」

彼は私を案内して踊り場を横切ると、反対側のドアを開けて小さな寝室を見せてくれた。居間ほど本で埋まっているようには見えなかったが、壁が一面、本のかげになってまったく見えず、書痴的な堅苦しさが部屋の空気に漂っているため、毎晩ここで二人の人間が寝るのだと考えるだけで胸が悪くなった。

居間に戻ると、クリストファーソンは、私に見せるため、ぎっしり詰まった塊の中から何冊か選びはじめた。神経質に、時折深いため息やらうれしげな笑い声をもらしながら、途切れ途切れに続く我語りは、彼の身の上にいささかの照明を当ててくれた。彼がここに間借りしているのは八年前からなのだ、と私は知った。彼は二度結婚したことがあり、ただ一人の子――最初の妻との間にもうけた一人娘は、ずっと以前に、まだ小さい時に亡くなったのだという。そして最後に――この突然の打ち明け話は、とても気持ちの良い笑みを浮かべて発せられたのだが――今の家内は娘の家庭教師でした、と言った。私はその数奇な家庭生活の様子をもっと知りたいという強い好奇心にかられて、彼の話に聞き入っていた。

「たぶん田舎のお屋敷には書庫があるんでしょうね」

そう言ったとたんに彼の顔が曇り、悲しみに打ちひしがれた目が私に向けられた。もう一度何か言おうとしたちょうどその時、家の中から聞こえてきた音に私は気をとられた。階段に重々しい足音が聞こえ、聞き覚えのある大声がした。

「ああ!」 ハッとしたように、クリストファーソンが叫び声を上げた。「本の片付けを手伝ってくれる人が来たようです。どうぞお入り下さい、ミスター・ポンフレット!」

ドアが開くと、長身の細マッチョが現れた。その薄茶色の髪、ライトブルーの眼、しゃくれたあご、大きな口は、いささかの洗練を示しつつも、むしろ精力的で健全な男らしさを仄めかしていた。声で彼が誰か分かった気になったのもむべなるかな。たまさか顔を合わせるだけとはいえ、ポンフエットは古くからの知人だった。
「ハロー」 彼が吠えた。「君がミスター・クリストファーソンを知っているとは知らなかったよ」

「まさか君がこの方の知り合いだなんて、僕こそ大いに驚いたよ」と私は答えた。

年老いた愛書家は、不安と驚きに茫然として私たち二人を見つめていたが、ぶっきらぼうではあるが敬意のこもった挨拶をする新来者と握手を交わした。ポンフレットには強いヨークシャー訛りがあったし、その無骨な物腰も典型的なヨークシャー人であることを示していた。彼は、クリストファーソン氏の蔵書を荷造りして運搬するための準備が万端整い、あとは日取りを決めるだけだと告げるために来たのだった。

「急ぐには及びません」とクリストファーソンが叫んだ。「実際、急ぐ必要はないんです。ポンフレット君、君には感謝しています。ひどくお世話になってしまって。一両日中には日取りを決めますよ、えぇ一両日中にはね」

愛想よくうなずくと、ポンフレットは帰りかけた。彼と私の目が合い、二人揃って家を出た。再び通りに出ると、私は夏の空気を胸深く吸った。あんなに息苦しい部屋の後では、外気が牧場の空気のように甘く感じられた。同行者も明らかに似たような感覚を持ったらしく、空を見上げて胸を広げ、深呼吸した。

「ねぇ、それにしても良い天気じゃないですか!イルクリー・ムーア【ヨークシャーにある国立公園】を散歩させてくれるなら、何でもあげたくなるような」

近場でその代りとなればここが一番だろうと意見が一致したので、リージェンツ・パークを横切って行くことにした。ポンフレットはそちらの方に用事があったし、私は私で、クリストファーソンの話をするのは望む所だった。愛書家の老人の下宿の大家がポンフレットの伯母だということを、私は知った。クリストファーソンの富と没落の物語はうそ偽りのない真実だった。それは完全な没落で、彼は、齡(よわい)四十になって、事務員か何かになって日々の糧を稼がねばならなくなったのだという。さらに五年ほどして、彼は二度目の結婚をした。
「ミセス・クリストファーソンを知ってるのかい?」とポンフレットが尋ねた。

「いや!知り合いになりたいとは思うけど、なぜ?」

「なぜって、知り合いになると良い、ただただそんな類いの女性だってことなんだ。あの人こそレディー、ぼくの考えるレディーそのものでね。そりゃ、クリストファーソンも紳士だ。それは否定できない。もし彼が紳士じゃなかったなら、とうの昔に頭をぶん殴っていたに違いない、と思うよ。ええ、二人のことはよく知ってる。なぜかって、あの家に何年もいっしょに住んでいたからね。あの人は小指の先までレディーだというのに、あんな暮らしをさせておいて、旦那はよく平気でいられるもんだ。ぼくにはまったく理解できない。くそったれが!ぼくだったら、あの人に安楽な暮らしをさせるためにほかに方法がなければ、強盗にだってなるけどね」

「彼女は自分の生計のために働いてるってこと?」

「ええ、彼の生計のためにもね。いえ、何か教えてる訳じゃない。トテナム・コート・ロードにある商店で、いわゆる良いポストについてて、週に三十シリング稼いでる。それが彼らの収入の全てなのに、クリストファーソンの奴ときたら、その金で本を買う」

「それにしても、結婚して以来、彼はまったく何もしてないの?」

「たしか最初の二、三年は何かしてたはずだけど、病気になってやめた。それからというもの、奴はぶらぶらしているだけ、ありとあらゆる本の売り出しに出向き、それ以外の時間は古本屋を嗅ぎ回っているという有様。なのに、あの人は一言も文句を言わない。会えば万事わかるよ」

「まぁ、でも、何が起こったんだい?」 私は尋ねた。「いったいどういう事情で二人はロンドンを離れようとしているんだ」

「うん、それなら知ってる。クリストファーソン夫人には――僕の知り得たところによれば、太ったエゴイストばかりらしいんだけど――羽振りのいい親戚が何人かいるんだ。ただ、これまで連中は夫人を助けるために、指一本動かしたことがなかったんだ。そのうちの一人にミセス・キーティングとかいう人がいて、何でもぼくが聞いた話では、シティを泳ぎ回って金を漁っていた輩の未亡人なんだけど、ノーフォークに屋敷を構えていて、そこへは息子の一人が時々、釣りや狩りをしに行くだけで、ご当人はいちども住んだことがないらしい。クリストファーソンの奥さんが伯母に語ったところじゃあ、ミセス・キーティングが奥さんに、亭主と一緒にその屋敷に住んではどうかと行って来たんだという。家賃はただで、食料までつけて。実際、クリストファーソン夫人は屋敷の管理人のようなもので、誰もがいつ来ても泊まれるように屋敷を整えておかなくちゃならないんだけどね」

「ははぁ分かった。なのに、クリストファーソンは、今の所にとどまっていたいという訳なんだね」

「もちろんさ。本屋なしにどうやって暮らしていけばいいのか、彼には分からないだろうよ。それでも、奥さんのためになると喜んでる。それに、一刻の猶予もないんだ。気の毒な奥さんは、このままじゃあ長くもちそうにない。今にも倒れそうだ、と伯母は言うし、時々ひどく具合が悪そうに見えるのは、僕も知ってる。もちろん、奥さんは絶対にそれを認めないだろう。あの人は不平家というタイプじゃないから。でも時々田舎の話を、以前暮らした田舎の話をするんだ。奥さんの話を聞いてきて、あの人がこの数年どれほど苦労をして来たか、ぼくには分かってきた。彼女とは一週間前に、ちょうどミセス・キーティングの申し出を受けた頃に会ったんだけど、まったく見違えてしまった。誰であれあんなに変わってしまうなんて、あれほどの変わり様を目の当たりにしたことは、君には絶対ないだろう。顔はまるで十七才の少女のようだった。それに彼女の笑い声ときたら、君にも聞かせたかったよ!」

「旦那よりもずっと若いのかい?」 私は尋ねた。

「少なくとも二十歳は若い。四十見当だと思う」

私はしばらく考え込んだ。

「つまるところ、不幸な結婚ってことじゃないの?」

「不幸だって?」 ポンフレットが叫んだ。「いやぁ、あの夫婦の間に言い争いなんて一度もなかった。それは確かなんだ。クリストファーソンが新たな変化を克服しさえすれば、二人にとってこの世にこれ以上望むものなどないだろう。旦那は本を相手にのんびり暮らし…」

ここで私は彼の言葉をさえぎった。 「あの本を全部、奥さんの三十シリングの週給でもって買った、と君は言いたいのかね?」

「いや、そうじゃない。そもそも、彼は以前の蔵書を、ごく一部だけだが残していた。その後、自分の稼ぎがある頃は、それで大量の本を買った。一度など、本のお金を残すため、一日六ペンスで生活することが多い、と言っていたことがある。インテリ気どりの変な爺さんだよ。しかし、それでも彼は紳士で、好きにならずにいられない。遠くに行ってしまったら、ぼくは悲しく、残念に思うだろう」

私はと言えば、ただただクリストファーソンの出立を望むばかりだった。ポンフレットから聞いた話は私を不快にした一方で、気の毒な女性がとうとう苦難の生活から救い出され、夏半ばの今頃、愛する田舎での暮らしを存分に楽しめるのだ、と考えると安堵を覚えた。正直いって、その思いにはいささかの羨望が入り混じっていた。なぜなら、今後クリストファーソンはこの世に思い煩うことなどなく、何の咎め立ても受けずにため込んだ書巻を楽しめるのだと、つい考えてしまったから。長年にわたる根城を移転することにひどく苦しむなどとは、誰も想像できなかった。一両日のうちに彼を訪ねようと、私はひとり決めした。日曜を選べば、運よく奥さんに会えなくもないだろうし。

そして日曜の午後、いよいよ出かけようとしていたその間際に、ポンフレットがやって来た。不機嫌そうな顔で部屋を横切りながら、ぎこちなく家具を蹴飛ばした。彼の訪問は驚きだった。確かに住所は教えてあったが、まさか私に会いにくるなど、つゆほども思っていなかった。私が思うに、突っ張った性格からくるある種のプライドが邪魔をして、そのような親しみを見せることにはにかみを覚えていたのではないか。

「こんなひどい話を聞いたことがあるかい!」 彼は半分怒ったように大声を上げた。「もうお終いだ。引っ越しはやめだと。それもこれもみな、あの忌々しい本のせいだ」

早口にまくし立てる不平で、伯母の下宿屋で仕入れたばかりのニュースを、私は知らされた。前日の午後、クリストファーソン夫妻は、恩人になるはずだった親戚の――キーティング夫人の――思いがけない訪問を受けた。そのご婦人はいまだかつて二人を訪ねてきたことなどなかった。近日中に迫っている引っ越しについて話し合うために来たのは、明らかだった(あくまで推測に過ぎないが)。夫人が、階段をおりながら大きな声で話したので、会話の最後の方を(ごく短いそれを)伯母さんが立ち聞きしたのだ。「あり得ない!絶対あり得ないわ!そんなの考えられない!私の屋敷をかび臭い古本でいっぱいにすることを私が許すだなんて、どうしてそんな途方もないことを一瞬でも考えられたのかしら?これ以上不健康なことないわ!生まれてこの方、こんな途方もないこと、見たことも聞いたこともない!」 そういうと彼女は自分の馬車に乗りこみ、さっさと帰ってしまった。ほどなく三階へあがったおかみさんは、クリストファーソン夫妻のいる部屋が死んだように静まりかえっているのに気づいた。あらかじめ言い訳を考えた上でノックをし、ドアを開けると、部屋には悲しげに微笑みを浮かべて並んですわっている夫婦がいた。すぐに二人は大家に真実を語って聞かせた。ミセス・キーティングの来訪は、ミセス・クリストファーソンが送った手紙のため――クリストファーソンにはかなりの数の蔵書があって、それをノーフォークの屋敷に移送することを望んでいる、と書き送ったためだった。蔵書を確かめるために彼女はやって来たのだった。そして結果は聞いての通り。本を犠牲にするか、親戚の申し出を失うかの選択を夫妻は迫られていた。

「クリストファーソンは断ったの?」 私は思わず疑念を差しはさんだ。

「彼にはそれは無理だと、奥さんは分かってたんだろうね。いずれにしても、本を手元に残して、屋敷を諦めることに二人で決めたみたいだ。この件はもうお終い。長々と、こんなに苛立たしい思いをしたことはないよ!」

この間、私はしみじみ考えていた。クリストファーソンの心中を察することはたやすかった。ミセス・キーティングのことは知らなくても、一旦ほどこしを受けるや、それが重荷になってしまうような人にちがいないと、気づいていたし。結局、ミセス・クリストファーソンはそんなに不幸だったのだろうか?彼女は自己犠牲を生きる糧にしているような類いの女性、夫に嫌な思いをさせてまでして自分の不快な暮らしを変えるよりは、そうした暮らしを引き受けるような人じゃないのか?一件をこんなふうに見ることはポンフレットを苛立たせたようで、異議をとなえてきた。非難の矛先は、半分はキーティング夫人に、半分はクリストファーソンに向けられていた。ポンフレットにとって、それは「くそ忌々しい仕打ち」としか言いようがないものだった。結局私も、どちらかといえば彼の見解に賛成するようになっていた。
二、三日たった頃、私は好奇心にかられてクリストファーソンの住まいへと足を向けた。通りの反対側を歩きながら、夫妻の部屋の窓を見上げると、そこには年老いた愛書家の顔がのぞいていた。どうやら、彼は何か問題を抱え、なすすべもなく窓辺に佇んでいるようだった。すぐに私に気づいて、手招きをしたが、私が建物のドアをノックするよりも前に下におりて、外に出て来た。

「少しばかり散歩をご一緒してもよろしいですか?」と、彼は尋ねた。

その表情には憂いの色が浮かんでいた。私たちはしばらく無言のまま歩みを進めた。

「それじゃあ、ロンドンを離れるというお考えを変えたんですか?」 無頓着をよそおって私は言った。

「ポンフレット君からお聞き及びなんですね?ええ…そうなんです…今の所にとどまることになると思います…当分の間は」

これほどまでに、見るからに痛々しいほど恥じ入っている人を、私は見たことがない。うなだれ、肩を落として歩いている。実際、歩くというよりはよろめいていた。そうやって、自分のある種異常なさもしさに対する自責の念に堪えているのではあるまいか。

やがて唐突にその口から言葉がこぼれ出た。
「正直申し上げて、本が問題なんです」 そっと私を見やっている彼が、神経が過敏になって身震いしているのに、私は気づいた。「ご承知の通り、私の暮らし向きは上々とは申しかねます」 そこで彼はグッとのどをつまらせかけた。「実は、家内の親戚から、田舎の屋敷に住むようにという申し出があったのです。ただしそれには一つ条件があって、あいにくなことに、私の蔵書が差し障りになると――いかんともし難い障害になることが分かったのです。私たちは甘んじて今の住まいにとどまることにいたしました」

だが夫人は田舎暮らしを望んでいるのではないかと、私はそれとはなしに尋ねずにはいられなかった。しかし、その言葉が口をついて出た瞬間、私はすでに後悔していた。明らかに私の言葉はクリストファーソンの痛いところを突いたのだ。

「家内はそれを望んでいたと思います」 これ以上この話は差し控えてほしいと懇願するかのような、奇妙に哀れを誘う目つきで彼は答えた。

「でも」と、私は提案してみた。「本は何とかできなかったのですか?本のためにどこか他の家に部屋を借りるとか」

クリストファーソンの顔つきが十分すぎるほどの返答であり、彼が無一文であることを思い出させた。「私たちはもう考えないことにしたんです」と彼は言った。「もう決まったこと…今さらどうにもならないんです」

これ以上その話題を続けることはできなかった。次の道が二またに分かれたところで、私たちは別れを告げた。

ポンフレットから葉書を受け取ったのは、それから一週間も経っていなかったと思う。そこには「予期していた通り、ミセスC重病」とだけ書かれていた。

もちろん、ミセスCとはミセス・クリストファーソン以外にあり得なかった。私は文面について考え込んでしまった――それは私の想像力をとらえ、感情に働きかけた。興味をかき立てられた私は、その午後、ふたたび例の通りを歩いた。

窓に顔はなかった。少しばかり躊躇ったあと、私は下宿屋に立ち寄り、ポンフレットの伯母と話をしようと決心した。ドアを開けてくれたのは当の伯母さんだった。

おたがい一度も会ったことはなかったが、名を名乗り、クリストファーソン夫人のことを知りたいと伝えると、居間に招じ入れてくれ、打ち明け話を始めた。気さくなヨークシャー女で、ロンドンの普通の大家とはずいぶん違っていた。「そうなんですよ、二日前にミセス・クリストファーソンは病みついてしまわれました。はじまりは長い眩暈の発作でした。あの方は熱っぽくて眠れぬ夜を過ごしました。往診に呼ばれたお医者が、患者をぎっしり本の詰まったかび臭い寝室から、幸いなことにたまたま空いていた部屋に移させたんですが、すっかり衰弱してしまった奥さんは、ほとんど口もきけずにやつれた体を横たえているだけでした。昼も夜も枕元から離れようとしない旦那さんに笑いかけるのがやっとという有様だったんです」 彼女はそう言うと、「旦那さんも倒れてしまいそう、見た目はまるで亡霊だし、『半分気がふれた』ように、私には思えました」と言葉をついだ。

「何が病気の原因と考えられるんでしょう?」と、私は訊いた。

善良な大家さんは奇妙な目配せをして頭を振ると、原因は探すまでもなく、すぐ近くにあるんじゃないですかと、もぐもぐとつぶやくように答えた。

「大家さんは、失望したことが関係しているかも知れない、とお考えなんですか?」と、私は尋ねた。

「もちろんですとも。お気の毒なことに、あの方はもう長いことほとんど力尽きようとしていた所に、今度のことがとどめの一撃になって、あの方はガックリきたんですよ」

「甥御さんとその話はしたのです」と、私は言った。「彼の考えでは、ミスター・クリストファーソンは奥さんにどれほどの犠牲を強いているかをまるで分かっていない、というんですがね」 

「あたしもそう思います」 大家は答えた。「でも、今はそれが分かりかけてきたと、そう言ってよさそうですよ。口では何もおっしゃいませんが…」

軽くドアを叩く音がして、うろたえた震え声で、大家に階上にきてほしいと懇願した。
「どうなさったんですか?ご主人」 大家さんが尋ねた。

「家内の容態が悪くなったようなんです」 やつれた顔をこちらに向けたクリストファーソンは、そこに私がいるのに驚いたような表情を浮かべながら言った。「お願いですから、すぐ上に来て下さい」

私には何も言わずに彼は、大家さんと共に姿を消した。私は帰ることができなかった。十分間ほど家の中のあらゆる物音に聞き耳をたてながら、小さな部屋の中をそわそわ歩き回っていた。そうこうするうちに階段をおりてくる足音が聞こえ、大家さんが戻ってきた。

「何でもありませんよ」と彼女は言った。「安静にしておけば、たぶん寝つけると思いますよ。ご主人も気の毒ではあるけど、心配のあまり枕元から離れないで、具合はどうかと始終尋ねてるようじゃねぇ。あたしが自分の部屋に行くよう言い聞かせてきましたから、上に行って少しばかり話し相手になってあげるのが、あの方のためになると思います」

そこですぐに三階の居間までのぼっていくと、クリストファーソンが椅子に沈み込んでうなだれていた――それはみじめな絶望の擬人化のようだった。私が近づいていくと、ふらふらと立ち上がった。私の手を取りはしたものの、恥じ入り身をすくめた彼は眼をあげることができなかった。私は二言三言励ましの言葉をかけたが、それは私の意図とは正反対の効果をもたらした。

「そんことは言わないで下さい」 半ば憤慨しながら彼はうめいた。「死にかけてるんです、あれは死にかけてるんです。みなが何と言おうと、わたしにはそれが分かってます」

「良い医者に見てもらってるんですか?」
「ええ、そのつもりなんですが…遅すぎました…手遅れでした」

ふたたび崩れるように椅子に腰を落とした彼の隣に、私は座った。一、二分ほど続いた沈黙を破ったのは、どんどんと乱暴に玄関のドアを叩く音だった。クリストファーソンはギョッとして立ち上がると、部屋から飛び出していった。頭がおかしくなってのではないか、と半ば恐怖に襲われた私は、あとを追って階段の頂上まで行った。するとすぐ、クリストファーソンが前と同じように足を引きずりながら、見るも哀れな姿を現した。

「郵便配達でした」 彼はつぶやいた。「手紙を待ってるんです」

会話をするなどとうていできなさそうなので、私は暇乞いしようと挨拶の文句を考えていたのだが、クリストファーソンが離してくれなかった。

「あなたに申し上げたいことがあるんです」 まるで叱られている犬のような眼で私を見ながら、彼は切り出した。「できる限りのことはしました。家内が病みつくとすぐ、――実は彼女が患って初めてそんなふうに考えるようになったのですが――彼女がどれほど落胆したのかを悟ってすぐ、キーティング夫人を訪ねて、本は全部売り払いますと伝えたんです。でも夫人が市外に出かけていたので、自分は愚かさを悔やんでいるので許してほしい、お願いだから親切な申し出のことをご再考願いたいと、懇願の書き置きを残してきました。返事をするには十分な時間がたったのですが、夫人は返事をくれないんです」

何を手に持っているのかと見やると、それは配達されたばかりの本屋のカタログだった。彼は機械的に帯封を破ると、最初のページを一瞥さえした。そのあとになって、良心の針にでも刺されたかのように、冊子を乱暴に投げ捨てた。
「チャンスは二度と来ない!」 彼はそう叫びながら、本の山の間にわずかに残された帯状の床をせかせかと一、二歩あるいた。「もちろん、家内はロンドンにとどまるほうがよい、と言いましたよ。もちろん、わたしが喜びそうなことを言ってくれたんです。そもそもあれがそれ以外のことを言ったことがあったでしょうか?なのに、彼女に犠牲を強いて知らん顔をしていたのだから、余りにも残酷で卑しい人間だったんです、わたしは」 彼は狂ったように両手を振り回した。「それがどれほどの苦痛を与えたかを、わたしは分かっていなかった!田舎暮らしができるという希望にどれほど胸をはずませていたかを、家内の顔に見てとれなかった!あれが苦しんでいたのが分かっていたくせに。実は分かってたんです!自分勝手で卑怯なわたしは、家内が苦しんでいるのに見て見ぬふりをしてました。わたしが家内を病気にし、見殺しにしたんです!」

「今にもミセス・キーティングからの返事が届くかもしれないじゃないですか。もちろん色よい返事、朗報が…」

「もう手遅れです。わたしは家内を殺してしまったんです!あの女は返事なんてよこしゃしません。よくいる下劣な金持ちのひとりなんです。そんな彼女の彼女のプライドを私たち夫婦は傷つけてしまったんですから、絶対に許しはしません」

彼は一瞬間、腰を下ろしたものの、心の底の苦しみの発作に跳び上がった。

「あれは死にかけてます。そしてああなったのは私のせい、私が家内を殺したんです!」 彼は狂ったような乱暴な身振りで本を指し示した。「彼女の命と引き換えにこんなものを買ったんです。あぁ、何てこった!」

そう叫びながら、クリストファーソンは本を五、六冊ほども鷲づかみにすると、いったい彼が何をしようとしているのか私が察するよりも先に、窓を開け、本を通りに投げ捨てた。続いてもうひと掴み投げ捨てると、ドシンと歩道に落ちる音がした。その後ようやく私は彼の腕をぎゅっとつかんで、自制してくれるよう懇願した。

「一つ残らず捨ててやる!」 彼は叫んだ。「見るのも嫌だ。こいつらが私の大切な妻を殺したんだ!」

声をつまらせながらそう言ったが、最後の方になると、両眼から涙がほとばしり出た。今では彼を制止するのに何の困難も感じなかった。クリストファーソンは私の眼差しを無限の悲哀をたたえた目で受け止め、涙ながらに語り続けた。

「家内がわたしのために何をしてきたかを、もしご存知なら!あれと結婚した頃のわたしは、二十も年上の敗残者でした。以来、家内に与えたものと言えば、苦労と心配だけ。洗いざらい教えましょう。わたしは、長年にわたってあれの稼ぎで暮らしてきたのです。なお悪いことには、本を買うために食費を切り詰め、家内にろくに食べさせなかったのです。何という恥知らず!何たる不行跡!それはわたしの悪徳――酒かギャンブルに溺れるように、この悪徳の奴隷になったのでした。この誘惑に抗することがわたしにはできませんでした――日々自分自身を深く恥じ、誘惑に打ち克つことを誓いながらも。あれがわたしを責めたことなど一度もありませんでした、非難の言葉はもちろん、非難の目つきさえ、家内はしたことがありません。わたしは怠惰な生活を送るばかりで、店員として働く家内を毎日の苦役から救い出そうと試みたことさえなかったのです。家内が店員をしていたことをご存知ですか?洗練された趣味と知識をもちながら、あんな暮らしをしていたなんて!わたしは、本を抱えて帰宅する途中、家内が働く店の前を通ったことが数え切れないほどありました!あそこが家内の職場だと平然と思いながら通り過ぎるほど、私は冷たい心の持ち主だったのです。ああ!ああ!」

ノックの音がしていた。開けに行くと、戸口におかみさんがいた。その顔には驚愕の色が見え、両腕に持ちきれないほどの本を抱えていた。

「大丈夫です」 小声で私は言った。「本は部屋の中じゃなくて、そこの床の上に置いといて下さい。ちょっとした事故です」

クリストファーソンは私の背後に立っており、その眼は口に出す勇気のない問いを発していた。何でもないとなだめ、少しずつ平静を取り戻させた。幸いなことに、私が帰る前に医者が往診にやって来たので、奥さんがわずかながらも快方に向かっているとの診断を聞くことができた。少し睡眠が取れた患者は、ふたたび眠りに落ちそうだった。クリストファーソンは、近いうちにまた来てくれ、と頼み込んできた。他には誰も彼のことを気に掛けてくれる者などいないのだという。明日くる、と私は約束した。
約束通り、私は翌日の昼過ぎに訪ねた。クリストファーソンは私が来るのを見張っていたにちがいない。ノッカーをあげる暇もなく、さっとドアが開くと、彼の表情が歓迎の気持ちに輝いていることに、私は驚いた。彼は両手で包むように私の右手をつかんだ。

「手紙が来たんです!わたしたちはあの屋敷に住むんです」

「奥様のおかげんはいかがですか?」

「上々です、申し分ありません!ありがたいことです。きのうの午後、あなたがお帰りになってから今朝早くまで、家内はほとんどずっと眠っていました。今朝の第一便で手紙が届いたので、起こして話して聞かせたんです――事実をまるまるではありませんけどね」 最後に声をひそめて彼はそうつけ加えた。「本を持って引っ越すことが許されたんだと、あれは思い込んでいます。あの満足らしい表情を、あなたにも見ていただきたかった!でも本は売り払って、家内に気づかれる前に運び出してもらいます。そして毫も苦にしないようすの私を見る時、あれは…!」

クリストファーソンはきびすを返すと、一階の居間に入った。興奮の態で歩き回りながら、彼は自分の払った犠牲に得意満面だった。今ある蔵書をまるまる買い取ってくれる書店には、すでに速達が送られていた。それにしても、いくらかの書籍を手元に残すつもりはないのか、と私は尋ねた。二つ三つの本棚を置くことを認めないなんてことは、絶対にないだろうし、一冊の本もなしに彼はどうやって暮らしていくのか!最初彼は、一冊たりとも残すべきではないんだと、激しい口調で断言した――命のある限り、もう二度と本など見たくないと。でも、奥様はどうでしょう、と私は力を込めて言った。折節読書を楽しむための本があることを、奥さんはお喜びになるのではありませんか?ここに至って、彼は考え込んだ。この問題を二人で話し合い、厳選された本を詰めた箱をひとつだけ、他の荷物といっしょにノーフォークに持っていくということに決めた。ミセス・キーティングでさえこれには反対できないだろうから、彼女が許可してくれたら、当然の権利としてそれを受けいれるべきだと、私は強く助言した。
そして、手筈通りにことはなされたとのことだ。本の山は丁寧に袋詰めにされて一階に下ろされ、そして袋から荷車に移されると、病人がまったく気づかないほど静かに運ばれていったのだという。そう言いながら、クリストファーソンは、かつて聞いたことのないような笑い声を立てたのだが、以前は本で覆い隠されていた床の部分を彼の目が避けているように、私には思われたし、会話の途中、彼はときどき頭を垂れて、放心したようになっていた。だが、妻の恢復に彼がよろこびを感じたことに疑いの余地はなかった。クリストファーソンが切り抜けたこの危機は、彼の外見をさらに老けさせた。彼が自分は幸せだと言い切った時、耄碌した老人のように、その眼には涙がにじみ、頭が前後に揺れていた。

夫妻がロンドンを立つ前に、私はクリストファーソン夫人を見た――青白くて痩せた、華奢なつくりの婦人で、若い頃でさえ見目麗しくはなかったのだろう。しかしその顔は、もし顔にそんなことができたらの話ではあるが、夫人が勇敢かつ誠実な精神の持ち主であると宣言していた。彼女はうれしそうでもなければ、悲しげでもなかった。しかし、その眼には――私は何度も何度もその目を見つめたのだが――運命が彼女の魂の願いを聞き届けて与えてくれた夫に対する深い感謝の念が読み取れた。