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同じ化と平均化

 AIで人間の画像生成をすると美男美女が出揃う。美男美女の定義は人それぞれだが、人は平均的な顔を美しいと思いがちだと聞いたことがあるので、これに従えばAI画像が美しく見えるのはうなずける。

 この先、業務で文書を作成する際に皆が生成AIを使うようになると、ともするとどれも同じようなものに収斂されていくのではないだろうか。生成AIの場合、全く同じ文章を出力することの方が難しいから同じものにはならないにしても、同じようなものにはなるだろう。事務的な文書に創造性はいらないと考えれば、こうした平均化は害をなさないはずだ。

 一方で、AIを様々な分野に応用しようという試みは広がっていて、それは芸術分野にも及んでいる。
 例えばAIで絵を描くことや音楽を作ることは実際に行われていて、それをモチーフに創造活動をして行った場合、最終的には平均化する方向になるのではないかと考えると不安になる。


 人は「同じ」であることを好む傾向があると言われる。言葉を使うことも、それによって抽象化することも、本来は違うものを括って同じものにする。例えば、バナナとリンゴはまったくもって別のものであるが、人はそれらを果物という言葉で括って同じものにする。そこに、木々や草花を加えて植物と言ったり、動物を加えて生物と言ったりする。どんどん同じものになる。
 こうした人の意識の傾向を「同じ化」と呼ぶことにする。
 同じ化の効果のお陰で人は学問を築き、文明や科学を発展させることが出来た。都市化はそうした働きの典型的な表れと言われる。

 AIの元となっているデータは、世界中のありとあらゆる情報だ。しかしここには問題があって、情報になっている時点で同じ化が起こっているし、日々新たなデータが追加されることで総体としてのAIはどんどん平均化、つまり同じ化していくとも考えられる。
 AIの問題点は、人の数ほど無いどころか、ひとつもしくは少数のAIが世界で使われる点にある。これが世界的な平均化に繋がる。

 現実世界を情報に置き換える時点で欠落するものがあるとすれば、それは感覚的なもの、個別具体的な経験といったものだ。人はそうした経験を積み上げてその人なりの何かを持つようになるのだが、判断を全てAIに委ねるとなると、感覚的なものは意味を成さなくなる。AI以前にそうした動きは始まっていて、感覚的なもの言いは今では昭和的と切り捨てられる。

 感覚的なものが捉えるのは、ものごとの違いだ。感覚は違いしか認識出来ないと言っても良い。
 違いがあるもの同士の共通点を見つけることが同じ化ということでもあるが、そこで違いを切り捨てるのではなく、そこにこそ目を向けることで見えるものがある。従業員はただの人として扱うのか、従業員だってそれぞれひとりの人として対応するのか。両方の見方が必要ではあるものの、各人にとっては違っていて当たり前。無理矢理同じにする必要は本来は無い。

 日本の学校教育が「同じ」を育てる教育であるから、同じ化することに馴染みを覚える人が多いのだろうか。偏差値というと突出した側を見がちだが、それとて平均値がベースの考え方だ。極端な話、みんなが足並み揃えて偏差値を上げようとするとみんな偏差値が上がらなくなる。つまり偏差値は学力の絶対的な尺度ではないということだ。

 さて、AIが普及して全ての人々が日常的に利用するようになった暁に何が起きるのか。
 みんな同じようなことを考え、同じようなことを言うようになるだろう。それでいて、同じような考えの人々のクラスターみたいなものが出来て、クラスター間の格差が出来るだろう。
 Youtubeのおすすめ動画が人によってそれぞれ違いながらも、あなたと似た好みの多くの人のデータが参照されているのだ。このようなことが、あらゆる領域で起きていくことになる。
 AIの普及年数が深まるとともに、こんどは全体の平均化がじっくりとだが進んで行く。最終的には皆同じになる。

 だから、人間が人間として活躍出来る道があるとすれば、違いを見つけてそこに意味づけ出来る人になる。それはAIには容易には出来ないことだからだ。 
 しかし怖いのは、全体が同じ化した中で違うことを言い出す人間が最初は面白がられたとしても、そのうちに排除される方向の力が働いた場合だ。異質な人を同質化するような空気が強く広まった時に私達には何が残るのか。
 こうした社会に世界で一番近いのが日本のような気がして恐ろしくなる。

おわり

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