見出し画像

誰にでもありうるギャンブル依存症

 ハマると抜け出せなくなり最終的には犯罪に手を染めてしまうことすらあるギャンブル。人は何故ギャンブルに魅了され取り憑かれてしまうのか。それを考察してみたい。

ギャンブルの特徴

 ギャンブルとは、近い未来に起こる出来事の行く末に対してお金を投じて、予想通りの結果になれば投じたお金よりも多くのお金が戻って来るゲームだ。
 ギャンブルは開催者と参加者に分かれている。
 開催者は参加料金を決め、対象とする出来事と予想すべき未来の結果のパターンを提示し、予想通りの結果になった場合の返金率をパターンごとに予め示しておく。
 参加者はどのパターンになるかを予想して、開催者にそれを通知して料金を支払う。予想パターンは起こり得るほぼ全ての状況を網羅したものになっている。基本的に、開催者は損をしないからくりになっていて、多くの場合参加者は損をする仕組みになっている。長く続けるほどトータルの勝率は一定の値に収斂していくようになっている。

ギャンブルの魅力

 人はどうしてギャンブルに魅力を感じるのか。
 それには段階があると思っている。
 一番単純なのはいわゆる一攫千金を夢見る気持ちだ。これは番号が決められている宝くじに象徴されるが、要するに楽して大きく儲けたいというもの。しかしどうだろうか、宝くじだけにのめり込んでギャンブル依存症にまでなりましたという人はいないのではないか。宝くじの場合、買う場所によって当たりが出やすいと思っている人がいるようだが、基本的には神頼みだ。番号の指定は出来ないし、買ったら抽選日まで神棚に上げておくことくらいしか出来ないだろう。自分が介入出来る要素が極めて少ない。というか、無い。
 それに対して競馬はどうだろうか。もちろん一攫千金を狙うという基本は外していないが、宝くじよりももっと真剣さがうかがえる。ゲーム性や趣味性が出てくる。当てることに対して自分が介入出来る余地が宝くじよりも格段に大きい(ように思える)。宝くじと違って、買ってから神棚に置く間もなく結果が分かる。つまり到来する未来がずっと近い。人は近い未来ほど予想しやすいと錯覚しているから、期待感はより高まる。そして当たった時の達成感が大きくなる。

 こう考えると、宝くじはギャンブルというよりもやはりくじ引きであってギャンブルではないのかも知れない。そうなると、一攫千金を夢見られる仕組みだけではギャンブルにはならないということになる。
 ギャンブルは自分が考えた未来を的中させた褒美として大金が手に入る点に魅力があると言えるのだろう。

ギャンブルの継続性

 人は基本的に継続が苦手な生き物だ。
 ただし、期待と同等の報酬が与えられると継続することを考慮するようになる。いわゆる対価というやつだ。相応の報酬があるかどうかは続けるかどうかを検討する切っ掛けにもなるし決定打にもなる。そして、一度でも期待以上の報酬が得られるとそれが忘れられなくなって、継続する以外のことを考えられなくなる。いわゆる味をしめるというやつだ。
 ここで問題となるのは、期待以上の報酬はそうそう得られない点と、期待を超える報酬を得られる度に期待は以前より高まっていく点だ。前者は次こそはという原動力になり、後者は取り返してやるという原動力になる。期待以上の報酬が得られる機会が少ないにしてもゼロではないとなれば、いつかはやってくるはずと思うわけで、今までより少し多く掛ければ、そこに巡り合うまでに費やした損を上回る結果が得られるはずだと思い込んでしまう。
 
 負ければ負けるほど勝ちへの期待感が高まり、勝った時の高揚感(心理的な報酬)が高まる。一か八かに賭ける時のヒリヒリした感覚はギャンブルの他にはなかなか無い。期待と不安が最大限に高まった状態で絡み合い、勝っても負けても一気に解放される。緊張と緩和が短時間で体験出来る。極度の緊張状態からの解放は、勝てば大きな心理的報酬となり、負ければ次への切望の高まりになる。つまりどちらに転んでも継続する動機を強めることになる。
 しかも、掛け金の多寡によってその度合いをコントロール出来る。大きく賭けるほどに緊迫感は増す。
 しかし継続の動機になるのは大きく賭けることではなく、負けにある点が重要だ。人間の持つ闘争心と回復力が最大限に活かされてしまうのだ。

ギャンブルの限界

 近い未来に起こることとはいえ、起きていないことを当てることは出来ない。出来るのは予測することまでで、結果として当たることはあるが、それは当てたのではなく当たったに過ぎない。実はこの違いは大きい。
 予想通りの結果になると人は自分が当てたと思いがち。俺の言ったとおりだ、俺の予想の仕方が正しかったんだと思いがちだ。しかし実際にはそんなことではなく、予想が正しかったかどうかとは全く無関係に、偶然当たっただけだ。信じたくないかもしれないが、予想しうるパターンの中でそのうちの一つが実現するということが起きただけで、それは予め分かっていたことだ。分かっていなかったのはどれが当たるかということで、それはどうあがいても事前には分からない。
 様々なロジックを考えて当たりをつかもうとすることに意味がないとまでは言えないものの、その考えによって当たるのではなく、あくまでも当たるのは偶然だ。
 つまり、ギャンブルには偶然を超えることが出来ないという限界がある。
 その偶然のことを確率と呼んだりする。

ギャンブルの誘惑

 こうしてみると、ギャンブルの魅力は一攫千金にではなく、興奮と失望にある。負けることにこそギャンブルの本質がある。負けるからこそ続けることを渇望するし、多額の借金をしても続けるのは負けたからだ。
 負けた時に降りかかる絶望の気持ちは一瞬にして希望と欲望にすり替わる。しかしこれは、最初からゲームと思ってやっている人の場合は違う。
 だから、ギャンブルを仕事にしている人がいるとすれば、そうした欲望とは無縁の人だろう。

ギャンブルという娯楽

 儲からないのが分かっていてどうしてやるの? と聞くと、娯楽だと言う人がいる。負けた分は娯楽のために支払う料金であって、ディズニーランドに行くのと何ら変わらないと。そういう人はきっと、そもそもお金が目当てで無く、楽しむことが主体なのだろう。それでも、未来の出来事を当てられると思っていなければ楽しむことなど出来ないから、ギャンブルには変わりない。地獄への入口が常に開かれていることを考えれば、油断してはならない。

ギャンブル依存への道

 では、どうしたらギャンブル依存・・になれるのだろうか。
 依存になるには、金の使い道について直接干渉出来る人がいない場合に限る。そしてギャンブルによって予想以上の金を手にした経験と、それを上回る損失を被った経験がある場合だ。限られた小遣いの中でしか出来ないとしたら、大きな損を被ることはないし、取り戻すためにさらなる参戦を強いられることはない。一度も損失を経験していなければ依存するほどの渇望感は得られない。
 ギャンブルに囚われてから逃げ出すことの難しさは、負けてばかりでない点にある。むしろ結構な頻度で勝つ。次取れれば巻き返せるという期待を持たせられる瞬間が必ずある。そこが蟻地獄への入口なのだが、手を出さないようにするのは無理ゲーなのだ。

ギャンブルの入口

 もしあなたに普通の欲があって、手元に動かせるお金があったとしたら、ギャンブルは歓迎してあなたの参加を待っている。
 希望と失望、切望と絶望は紙一重だ。
 最後は自分との戦いになるが、大抵の人間は自分に一番甘い。誰でも依存する素養を持ち合わせている。

おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?