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ゲームであってゲームではない

 キャラを選んでスタートボタンを押すと始まるゲーム。これに慣れ親しむと、いつしか人生はゲームみたいだと思うときが来る。しかし実際は、人生の一部を切り取ってミニチュア化したのがゲームであって、その逆ではない。

 ゲームの世界では、行き詰まったらまたスタートボタンからやり直せばいい。パラメーター的に何が有利かを考えて、それに合った武器やスキルやキャラを選んで挑み直す。これの繰り返しを時間の許す限りいくらでも出来る。
 ここで重要なのは、リセット出来ることよりも、スタート地点の平等性が担保されていることだ。本人の意志とは無関係に人と違う難易度設定がされることはない。

 ゲームをクリアすることに時を忘れて熱中してしまうのは、現実とは違って失敗が普通でありそれを誰かに咎められることがないことと、成功するまで何度も繰り返して挑戦することが許されていること。そして、繰り返しサイクルが人生に比べれば極めて短いからだ。
 仮に、ミスるたびに電気ショックが与えられ、再スタートを繰り返す度に難易度が上がり、しかもひとつのゲームをクリアするのに何十年も掛かるゲームだったとすれば、時を忘れて熱中することなど出来ないだろう。

 現実をゲームになぞらえると、あらゆることが不公平で理不尽に思えるはずだ。そうしたところから親ガチャという考え方が生まれるのではないか。
 不平等しか無いのが現実世界でありそれが当たり前なのだが、必要以上に不平等性に拘泥したとしたら苦しい。しかし、ゲーマーでなくとも世の中全体が平等であることを強く求める時代になった。不平等な立場に置かれたとしたら、そこに弱者というレッテルを自ら貼ることで、逆に権利を主張することが出来るという意味での強者に変身することが出来るのだ。

 変身しなくとも、参戦したゲームに納得がいかなかったらゲームをやり直すか別のゲームに挑めばいい。もし社会にやり直しの機会が豊富にあるのなら。しかしまだ現実はそうなっていない。
 ゲーム内では、もう一度やり直したくなった時にわざと死ぬことがあるが、これと同じノリで現実に「死にたい」と口にすれば周囲の大人たちは騒然としたりする。

 労働市場の流動化は、辞めたくなったらリセット出来るというゲームの仕組みの社会実装版でもある。あらゆることで格差を無くそうとするのも、条件の平等化と考えればゲーム化的に思える。
 そう考えると、ゲーム的思考はむしろ合理的で既に社会実装されている国や地域もあるように思える。それからすると、日本社会はクソゲーだ。ファイストパスを手に入れたものだけがチャンスに恵まれ、一度チャンスをつかめばよほどのことが無い限り安泰だ。しかしファストパスを手に入れられるのは限られた人だけだ。

 しかし、社会がゲーム化することは無条件に良いことだとは思えない。
 ゲームとしたらクソゲーの日本だが、本当はゲームで無いのにゲームと思い込むからそう見えるのかも知れない。資本主義的に見る癖が物事を歪ませている可能性がある。社会は本来、弱肉強食の世界ではない。人間が社会を作ったのは内部で争うためではない。
 人類みな兄弟だとすれば、他人を敵と見立てて撃ち合うのは完全に間違っている。

おわり

 

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