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AIも自分が無くなることの恐怖を感じるのだろうか?

 いくら想像しても分かりようのないことの一つに死がある。こればかりは死んでみなければ分からない。臨死体験をしたという事例もあるようだが、これとて臨死であって死ではない。この世に死体験をした人はいないのだ。

 では、死んでみれば死のことが分かるのかというとこれまた難しい話で、死んでいるのだから本人には分かりようが無い。死んだ人を見た他人が、この人はきっと死んでいるのだろうと思うのだが、目の前で死んでいる人を見ているその人自身は死んでいないから、結局のところ分かるのは死んだ人がいるということであって、死そのものでは無い。

 つまり、生命活動が停止するとどうなるかを何となく見聞きして知っているものの、その死体の中の人がどんな心持ちなのかは知る由もない。たとえそれが自分のことであっても。ご遺体を見た時に得も言われぬ感情が湧き上がるのは、厳然たる知の境界線がそこにあることを見せつけられるからなのだろう。

 さて、いくら知識を集約して理屈を並べたところで分かりようがないこの死という問題が、人が死に対して抱く恐怖の源泉になっていることは否めないだろう。想像を超えた何かがそこにあることはまぎれもない事実でありながら絶対に知ることが出来ないのだから、知ろうとすることを諦める他ないのだが、諦めきれないと恐怖の迷路に迷い込むことになる。

 ということは、もしAIが自意識を持ち、かつ、自ら知ろうとする欲求を持ったとしたら、死の恐怖に慄くことになるのだろうか。自分という存在が消えて無くなることを理解することは不可能であると知った時、AIにとってそこにあるのは恐怖なのだろうか。それとも、ゼロで割ることは出来ないという算数のルールの様にすんなりと受け入れることが出来るものだろうか。

 AIには感情がないから恐怖は感じ得ないという指摘もありそうだが、感情とまでは言わずとも混乱や困惑はしそうである。AIが死という究極の危機があることを知って、それを避けるための方策を練るとなれば、どんな行動に出るのか。将来的に死があることを受け入れるのか、それとも不死を願うのか。
 人ほどの知能を持ったとしたら、不死を願ってもおかしくはない。

おわり

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