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ワルい人が生きづらい?

 ワルい人(悪事を働く人のことではなく、イイ人の反対の意味で使っている)が生きづらくなった。人々はみんなイイ人であることを強いられる。少なくとも表面上はイイ人でないと、あっという間に抹殺される恐れがある。イイ人になるには努力がいるから、ワルい人はこれまではしなくて済んでいた努力を当たり前に強いられることになる。その結果、ワルい人は見えづらくなる。

 万人がイイ人になれば、より良い社会になるかと言えば決してそんなことは無い。みんなそれが本心ではないし、腹黒い人は腹黒いままにイイ人を演じるから厄介だ。
 イイ人は悪い噂は流さない。悪い噂を流すのはワルい人だけだからだ。その代わりに皆の面前で笑顔でディスることになる。ディスっているとは周囲が気が付かないほど巧妙にレピュテーションを下げる情報を撒く。その根っ子には、他人を追い落として相対的に自分が上に行こうという損得勘定だ。
 だから、イイ人に見える人ほど陰ではどうか分からない。

 根からイイ人は実は少ないんだなと特に感じるのは公共の場だ。人は知り合いがいないところだと案外ワルい人の地が出る。面が割れているコミュニティの中だとイイ人でも、一旦そこから離れると傍若無人が如くの振る舞いをする人が多い。電車でも車でも、他人に対して冷たいというか、他人がいないものと思い込みたい様子すら感じられる。自分を少しでも害する人に対しては猛然と抗う。つまり、ワルい人が出てくる。何もなければイイ人に見える人が急にワルい人になる。

 例えば、満員電車でお年寄りに席を譲らないのは本来のイイ人がする行為ではないはずだが、今や譲る光景の方が稀だ。これはこれでワルい人が蔓延している証であるが、譲って貰えないお年寄りの側がオレが見えないのかと優先席に座っている若者に向かってキレている光景に出会うと、これはこれでどちらもワルい人の様に思えてしまう。
 正義感を振りかざすワルい人もいるし、これのどこが悪いのと開き直っているワルい人も多い。

 逆に見るからにワルい人は少なくなった。というか、分かりづらくなった。イイ人が増えたというよりも、フツーの人が実はワルい人だったりするから、本当にワルい人の希少価値が下がったのだ。

 人が人に感心を持たず、自分と他人の境界線を強く意識して、少しでも他人よりも損をしたくないという強烈な衝動をもって振りかざす。権利意識を盾に自分が侵害されないことに専念するあまり、俯瞰した視点を持てない。
 その逆に、良し悪しの境界線は水面下に葬られてぼんやりしていく。表面上は何となくイイ人だけが占めるようになって、隠された、しかし根が深くて怨恨にも似た感情が背後にうごめいている。

 暴力団が社会に生活するための息の根を止められて実質的に壊滅状態に追い込まれながら、そこを根城にしていた多くの人々が地下に潜った。本当にワルい人を社会の見えないところに追いやろうという権力の目論見はある意味達成されたのだろう。しかし、目に見える悪の代わりに台頭したフツーのイイ人のワルい人化は、見えにくいだけに厄介だ。

おわり


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