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4. ニアミスの二乗

たなびく雲の合間から、白沙を撒いたような星たちが瞬いている。
すっかり夜が更けた「裏の市」の石畳のうえを古びたランタンがひとつ揺れている。
明かりを持ち上げると、外套を羽織ったエレナ・ローゼンハイムの端正な顔が闇に浮かび上がった。ロングスカートの裾から冷え切った秋の夜風が忍びこんでくる。

「本当にこのあたりで間違いないの?」

エレナは前方を走るリゼルにむかって囁いた。リゼルはときたま石畳の表面の匂いを嗅いだり、すこし休んだりして古い路地を進んでいく。なかなか事件現場らしき場所にたどり着かないので、彼女は半信半疑になっていた。
街路樹のそばに落ちているクルミを拾ったエレナは、それをポケットにしまうと頭上の星空を見上げた。

「そろそろ、分天の祭りエクイノックスの季節か」

分天の祭りエクイノックスとは、春と秋の年2回に催される教区の祭りだ。エレナたちの暮らす北洋地方に古くから続く行事のひとつで、教区ごとに5名の若者が選出され、聖堂前の広場で舞いを奉納する。娯楽の少ない庶民にとっては貴重な楽しい祭りであり、教会としても人々から税を徴収するための絶好の機会でもあった。

そもそも、エレナたちの暮らしは「農事暦」という暦にしたがって成り立っている。
農事暦とは、農作業に必要なことがらや農耕儀礼などを記した暦のことで、先進的な農耕地域であった南洋地方を中心にひろがり、次第に北洋地方の農村にも普及した。

田畑に種を蒔く春のはじめと、収穫をむかえる秋の暮れは特に重要な季節とされ、数日にわたって春祭りや秋祭りを行うところも珍しくない。

こうした春秋の祭りの時期に、昼と夜の長さが等しくなる日が必ず訪れる。この日は天界におわす日ノ神と月ノ神の霊力が拮抗し、世界が極めて不安定になると考えられてきた。それゆえ人々は正しい儀礼と祝詞をもって二柱の神をなだめ、その恩恵に感謝することで、季節の変わり目を穏やかにむかえることができる。

分天の祭りエクイノックスで奉納される若者たちの舞いはそのクライマックスであり、最も人々の注目が集まることで有名だ。ふだん部屋に引きこもりがちなエレナでさえ、彼らの舞い踊る姿を楽しみにしていた。

ふとエレナは、リゼルが同じ場所をくるくる走り回っていることに気がついた。そこは「裏の市」でもクルミの樹が多く生えている場所で、リゼルは落ちた木の実を集めるのに夢中になっている。エレナはため息を吐いて、リゼルを懲らしめてやろうと地面に膝をついた。

ムッとする錆びた鉄の匂いを感じたのはそのときだった。
暗がりのためよく見えなかったのだが、ランタンをかざすと破壊された煉瓦塀のまわりに血飛沫がべっとり染みついていた。エレナは身体を硬くして、慎重にその痕跡の観察をはじめた。

「煉瓦が粉々に砕けている。とても人間業とは思えないわ」

恐怖とともに、それに勝る好奇心がエレナの心をくすぐった。他に手がかりがないか瓦礫をかき分けてみたものの、強盗の凶器や彼が奪うはずだった金品はすでに守衛たちが回収している。手の皮膚がすり傷だらけになるのも厭わず探しているうちに、ひとつ気になる紙片が見つかった。

「これって、『ウラヌス』の半券……」

イニティウム河の段丘上にある喫茶店『ウラヌス』はあらかじめ食券を買ってから注文するので、客は必ずその半券を領収書がわりに受け取ることになっている。このあたりの住人にとってはさほど珍しい物ではない。たまたま風で飛ばされただけ、もしくは事件と無関係の客が落としていったものかもしれなかった。 

それでも、エレナは天性の直感でこの半券が大きな手がかりになると確信していた。しかも『ウラヌス』には気の置けない親友が働いているではないか。

「あそこまでの距離は……ざっと1時間か。いけそうね」

大した距離ではないと高を括った彼女だったが、すぐに後悔する羽目になった。
強盗事件を受けて、市街地の道という道に衛や憲兵がうろついて監視の目を光らせており、まっすぐ目的地へ向かうことができなかったのだ。自然、なんども迂回しなければやらず、獣道と呼ぶべき鬱蒼とした茂みに足を運ばざるをえなかった。

夜が更けて日付が変わろうかというころ、『ウラヌス』のウエイトレスは店の前に卒倒したエレナを見つけて仰天した。彼女は足が腫れて一歩も動けず、上物のケープもスカートも青草の先端で傷ついていた。

「お客様! どうされましたか……って、エレナ!? こんな時間にどうして? 寮の門限はとっくに過ぎちゃってるでしょう?」

「意外ときつかったわ、カペラ……」

「何してんのよ、もう~!」

カペラは足が棒になって動けないエレナをソファに連れていって水を飲ませ、深夜に客が少ないのをいいことに軽食の余り物を食べさせた(エレナは現金をもっていなかったので代金はツケにした)。『ウラヌス』の店長は大笑いしてエレナを受け入れ、彼女の性格をよく知っているからか女子寮には通報しないでくれた。

「カペラが当番の日で助かったわ。出かける前、寮長にはいつもみたいに説明しといたから安心してね」

「ぜんっぜん安心できません! まったく、どんだけ私に借りを作る気なの」

コーヒーカップを洗いながらカペラは溜息を吐いた。エレナが門限を破って外出するときは、必ず『ウラヌス』で働くカペラを手伝うという口実をでっちあげるのだ。

エレナの突飛な言動に慣れていたつもりのカペラだったが、エレナの冒険譚を聞くうち、昼間の強盗事件の現場に向かったことには流石に唖然とした。

「あまりに危険すぎるわ。現に女性が1人亡くなって男性が4人も大ケガをしたのよ。強盗は捕まったけれど、その男を倒した謎の人物がまだ見つかっていない。案外、この近くに隠れてるかもしれないのよ」

「別に構わないわ。むしろ出てきてくれたら本望よ! なんで強盗を倒したんですか~、あの人間離れした技は何ですか~って聞いてやるんだから」

「呆れた……あなたの底なしの好奇心にはついてけないわ」

二人の会話に、店長が割って入った。

「エレナちゃんは勇敢だねえ」

「店長、この子を甘やかさないでください」

「まあまあ怒らずに。それでエレナちゃん、何か手がかりが見つかったのかい」

エレナは自信たっぷりに『ウラヌス』の半券を店長に見せた。店長は、ほう、と興味深そうにそれを受け取り、しげしげと眺め始めた。

「この店の半券を事件現場で拾ったの。手がかかりになると思わない?」

店長は乾いた両手を擦り合わせた。

「どうしてそう思う? たまたま別の人間が落っことしただけかもしれないよ」 

「もちろんその可能性はあるわ。でもね店長、その半券には何て書いてある? もちろん店長なら分かるわよね」

店長は眉を寄せて半券を観察した。

「だいぶ血で汚れちゃってるけど、なになに……。ああ、これはランチタイム専用のコーヒー券だね。しかもちょうど事件のあった昨日9月19日のものだ」

「でしょでしょ! 少なくとも昨日のランチタイムに『ウラヌス』でコーヒーを注文した人間が、あの事件現場に来ていたのよ」

すかさずエレナが口を挟む。

「でもエレナ、たとえそうだったとしても、半券をもっていた人が問題の人物だってことにはならないわ。ここでランチタイムを過ごして店を出て、事件よりも前に『裏の市』で買い物をしただけかも」

反論するカペラに、エレナはたじろぐ。
半券をもった人物イコール強盗を倒した人物だと思いこんでいたからだ。

「そ、そうは言ってもランチタイムは午前11時から午後1時までの2時間だけでしょう。その間になにか怪しげなお客さんは来なかった? 幽霊みたいに不気味な奴とか、全身筋肉の男とか、黒マントを羽織った呪術師や魔女とか。それを知りたくて遥々やって来たんだから」

「そんな目立つお客さん、来てたら絶対に覚えてるわよ……。強盗を倒した人物は布で顔を覆っていたそうだから、人相は誰も分からないし」

「だめか……。いい手がかりだと思ったんだけどなあ」

カペラは、心底残念がるエレナに内心では喜んでいる自分の暗さに悪寒を感じた。エレナには一生かかっても返せない恩義があるけれど、彼女の行き過ぎた言動には正直我慢の限界が来ていたからだ。下手をすると自分にまで災いが降りかかってこないとも限らない。

「ああ! そういえば」

突然の店長の叫びにカペラはぎょっとした。すかさずエレナは食いついた。

「なになに? 謎の人物の目星がついたの?」

「いやそれがね。食器を片付けてたら、カップとソーサーの組がひとつ合わないんだよ〜。カップが足りないんだ。おかしいな〜と思って」

間の抜けた店長の言葉に怒りが爆発したのは、エレナでなくてカペラだった。

「そ・れ・は! 無頓着な店長がどっかに置き忘れたんでしょーが! 責任とって探してくださいっ!」

清拭用の手拭いを店長の顔に見事に投げつけて、業腹なカペラは店を後にした。

「先に独りで帰らないでよ! 私の嘘がばれちゃうからあ!」

大慌てでエレナが追いかける。後には手拭いが顔面に張りついたままの哀れな店長だけが後に残された。店内に流れるシックな音楽が今晩はとても虚しく聞こえる。

(つづく)

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