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言葉くづし 16―石川橋

穂乃香たちと別れた後、鉄砲玉のような雨が降ってきた。私たちは傘をもっていなかった。
仕方なく香林坊のバス停で雨宿りをしていると、聡子さんが自家用車をつけて後部座席に乗るよう促した。この天気じゃバス停から家に着くまでにずぶ濡れになるからと、聡子さんはリズムよくハンドルを操作して言った。

「別に冬花は濡らしても平気なのに……」

後部座席で私は夏炉の鼻と口をむぎゅっと塞ぐ。呼吸を止められた夏炉は不細工なくしゃみで応酬してきた。

「こら夏炉、手が汚れるじゃない!」

「ぐず……。それは自業自得でしょうが。私は事実を述べたまでよ」

鼻をぐずぐず鳴らして夏炉が睨み返す。まったくひどい言い様だ。あれは雨に濡れたくて濡れたんじゃなくて、濡れる以外の選択肢がなかっただけなのに。私は膨れ面をする。

「なんかよう分からんけど、ほんと仲良いわね、あなたたち。羨ましいわ」

聡子さんに笑われて、私たちは気まずく視線を逸らした。天神橋での夜、まだ名前も知らなかった夏炉に髪の毛を掴まれたときの感触を、まだ身体が覚えていた。

お家に到着してから三人で餃子を作り、トランプの七ならべ五番勝負では夏炉が圧勝し(腑に落ちない!)、シャワーのあと部屋に戻ってからホラー映画でふたり一緒に絶叫した。

「冬花、もう明日で帰るのね。あっという間すぎて、時間を盗まれちゃったみたいだわ」

「時間どろぼう。そんな童話があったわね」

布団を並べて夏炉と他愛ない言葉を交わす間も、時計の針は着実に進んでいく。こんなにも時間が経つのが惜しく、そして尊く感じたことなんてかつてあっただろうか。寝転がる彼女の横顔がナイトライトの仄かな明かりによって、輪郭の陰影を色濃く染めている。

「そうだ、誕生日プレゼント……」

私が言いかけると、夏炉は返事ともつかない息を吐いて眠りに落ちてしまった。せっかくイヤリングを渡そうと思ったのに残念だったが、もう夜の一時を過ぎていたから無理もなかった。明日があるかと考え直して私は臥せた。

ザアアアアアア……!

激しい雨音に誘われるように、私は目が覚めた。

時計を見ればまだ四時を回ったばかり。夏炉はもちろん、聡子さんも向かいの部屋で眠っているようだ。久しぶりの雨に気温が下がったせいか無性にトイレに行きたくなって、私は静かに部屋を抜けた。

用を済ませると、寝惚けていたせいか見覚えのない場所に出てしまった。正しい方向が分からず、ひたすら歩く、歩く、歩く。

歩く、歩く、歩く。

冷えた廊下が素足の裏にはりついて汗を吸い取っていく。広いお家ではあったが、迷子になるなんて思わなかった。

「ここだったかな」

とある襖の把手に私は指をかけた。夏炉の寝息が聞こえた気がしたからだ。襖がひらく。足を半歩だけ踏み入れる。刹那、部屋の匂いが他のそれとは全く異質であることに私は気づいてしまった。

そこは狭い仏間だった。薄闇のなかで大きな黒檀の仏壇が部屋の空気を息苦しく圧迫していた。金箔の光沢は深い哀愁を帯びて、また美しかった。大雨の降る重音が私の耳を縛りつけ、世界から音が消えてしまった錯覚に陥る。

息が苦しい。そしてなぜか、どうしようもなく愛しいとさえ感じる。

間違いない。例の「あったかいかんじ」だ。

「どうして、私……」

私は自分の行動が理解できなかった。どうして夏炉や聡子さんが寝ている時間に起きようと思ったのか。どうして霧島家の仏間に迷ってしまったのか。どうして仏壇を前に身動きひとつ取れないのか。そして。

どうして私はこの場所を知っているのか。

おそるおそる視線を落とす。まるですべての「答え」がそこにあるように、名前さえ知らない誰かに導かれるように。

写真がひとつ、安置されている。
仏壇によくあるような顔写真ではなかった。そもそも写っているのが人なのかすら不鮮明だった。心臓を押さえながらそっと近づき、影ばかりが浮かび上がるそれに目を凝らした。

どくん、どくん。
不気味な拍動が耳の奥に響く。私はこれを知っている。その感覚だけが強まっていく。

大好きだよ。
やっと会えたね。

訳のわからぬ声が脳内を掻き乱すように飛び回り、私は困惑する。

あなたは、誰だ?
部屋を見渡しても人影はない。しかし声は確実に胸の奥深くで弾け、染み込んでいく。聴こえる声を否定しようとするほど、私の中で無限に増幅する。

「幽霊……?」

嘘だ。嘘だ。嘘だ。

二十一世紀の日本に、幽霊なんて非合理的な存在がいるはずがない。そんな馬鹿なことを誰が信じるのだろう。しかし、眼の前の写真を否定しようとする私自身が、非合理的な現実を認めざるを得ないことを知っていた。

そう、私は、知っていたのだ。
仏壇に安置されたエコー写真を、知っていた。

だってその写真に映る影は。

ああ、ああ。
こわいよ、こわいよ、こわいよ。

真実が言葉になるのが、こわい。

「お生母さんっ……!」

言葉が膨らんで、胸が苦しくて、涙が溢れて。

「うあああああああ!」

私の絶叫は霧島家をことごとく覆った。

目を覚ました夏炉や聡子さんが駆けつけたときの記憶を私はもっていない。仏間の入口で倒れていた私はすぐさま救急車に運ばれ、気づけば父が経営する病院のベッドに横たわっていた。父はストレス性の発作だと説明するだけだった。父や看護師さんの話を盗み聞きするうちに、私は取り返しのつかないことをした罪悪感に苛まれた。聡子さんは私が発作を起こした責任を取らされて、夏炉ともども徳田家に出入り禁止となったのだ。

私たちの夏休みは、一瞬でその姿を変えてしまったのである。

(つづく)

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